浮気者の噂(解明編②)
木霊木さんは顔を真っ赤にしたまま言葉を失っている。
「あ、すみません。火澄さんもいる前でする話ではありませんでしたね。配慮が足りませんでした、木霊木さん、気を悪くなさらないでください。あくまで推測ですので」
いや、するだろ。ってか俺にも謝れ。
どうしてくれんだこの空気……気不味さ通り過ぎて胸焼けがするわ。
「ううん、気にしなくて良いよ。きっとそれ当たってるからさ」
冷や汗が首筋を伝う。俺なんかが木霊木さんに失恋の味を賜ってしまった事は今でも恐れ多さを拭い去れぬ不遜に他ならない。不可抗力とは言え、その苦味を二度も差し向けることになるなど、神に矛を向ける様な冒涜である。
木霊木さんの火照った頬が俺の隣で湯気を立てていた。
「と、という事はだ、この心霊写真については無視しておいて良いって事だよな。なんたって、自分自身なんだし……」
「あ、それは違うと思います」
カットインして来んな! 人がせっかくフォローしてんのに。
「どういうこと?」
木霊木さんは伏し目がちに眼鏡の彼女を見つめる。後前さんは唯一平常運転のまま持論を広げる。
「木霊木さん、あなた火澄さんの事が好きなんでよね?」
いきなり何言い出すんだ、君。
当然の事柄の様に言うけどさ……? 周知の事実じゃないんだよ、それ。
地雷を踏みに行くな、しかも俺たちの地雷を。
「……そうだよ? でも、昔の事だから」
「それは嘘じゃないですか。諦めきれてないからこんな風に写真に写ってしまってるんでしょう?」
スマートホンを並べて後前さんは言う。
映し出された画面に一瞥をくれて木霊木さんはまた彼女の目を見つめた。束の間の音無を挟み、言葉は続く。
「彼、濱田さんは木霊木さんの事が好きです。あ、これは私が独自のルートで仕入れた情報なのでオフレコでお願いしますね。とは言っても、木霊木さん、あなたは気付いているんじゃないですか?
あ、すみません。火澄さんには申し訳ないんですけど、大抵の人は自分に対する好意に敏感なんですよ、あなたと違って」
不意打ちでディスるんじゃない、俺を。
「彼と撮った写真にこの恨めしい顔が写り込んでいるのは、そんな彼の思いにあなたが後ろめたさを感じているからです。反面、火澄さんと今撮った写真には何も写っていません。
あ、単なるこじつけだと思ってもらっても構いませんよ」
抑揚のなく、しかし自身の論理を前面に押し出した物言いは敵に回したくない論争相手のそれである。
返す言葉が見つからないのか木霊木さんはまた口を噤む。
「溜まりに溜まった想いは心を圧迫します。終いには、耐えきれなくなった心は破裂してしまいます。外的な攻撃は避けたり防いだりする事が出来ますが、内側からの痛みは紛らす術がありません。ない事もないですが、得てして前者よりもずっと難しいものです」
「だったら、私にはどうしようもないじゃない。私だって早く次に進まなきゃって思っているけど……忘れられないんだよ」
木霊木さんは振り絞る様に冬の空気を震わせた。
告白を受けたあの日、あの後彼女は吹っ切れた様に朗らかな笑みを見せていた。でも、それが本物ではなかったのだと言う事実には鈍色の感情がないのだといえば嘘になる。
彼女の悩みを、憂いを解決したいと握ったままの拳をそのまま自らに向けたくもなる。
俺は無力だ。無意識に波風立てないことを正解だと信じてしまっている点で何も成長できていない。
「え? 忘れる必要は無いじゃないですか?」
後前さんは言った。相も変わらず、平面的な表情で。大きな風は胸の奥を揺さぶる。
壊れた鏡みたいに驚きを宿した顔で木霊木さんは息を呑んだ。
「報われるか否かは別として、人を好きになる事は自由じゃないですか。どうして諦めなければならないんですか? 火澄さんが秋心さんを好いているからですか?
木霊木さん、あなたは報われたくて火澄さんの事を好きになったんですか?」
「でも、それじゃ火澄君に迷惑がかかる……」
「迷惑をかければ良いじゃないですか。言わせて貰えば、誰かの幸せを願う事なんておこがましいものですよ。と言いますか、相手は火澄さんですよ? 何を遠慮する必要があるんです。困らせてやればいいんですよ、こんな人」
「ちょっと待て」
秋心ちゃんの影響かな? 俺の低評価っぷりは。
「はっきり言います。木霊木さん、あなたの恋は報われません。相手が相手ですから、仕方がないんです。
でも、考えてみてください。次にあなたが好きになる人は、こんなに苦しんで恋い焦がれた火澄さんよりももっと好きになる人なんですよ?」
冷え切った部室内に言葉はあくまで透明で、しかし冷淡なものではなかった。温かみとまでは言い過ぎても、確かに意味のある、想いの込められた言の葉だった。
「それはとても楽しみな事じゃないですか」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「火澄君、私……まだ火澄君の事を好きでいるね」
木霊木さんはそう残して去って行った。
それは久しく見る混じり気のない笑顔だった。
「あ、これで良かったですか?」
後前さんは悪意の欠片も感じさせない言葉を俺にぶつける。
彼女の中で、俺はどこまでも不幸になってもいい人間であるらしい。でも、前述の通り毒を孕んでいないことだけはわかる。理由は知らないけれど、後前さんにとって俺は唯一自己犠牲を許された存在である様だった。
それはきっと、誇りに思って良いことなのだ。
「良かったんじゃねえの? 俺にとっては最悪だったけど」
「あ、そう言うこと言っちゃうんですね。木霊木さんに失礼ですよ」
わかってるさ。まぁ、言わばうれしい悲鳴って事でありがたく叫ばせてもらうよ。
後前さんはきっと、誰よりも誰かの想いを汲み取るのが上手いんだろう。だからこそ、彼女自身は明鏡止水を体現した様な物言いで、表情で人と接する事ができるのだ……なんて考えは買い被りなのだろうか?
「あ、でもダメですよ火澄さん。秋心さんに知れたらきっと殺されちゃいますからね」
唯一にして最大の懸念が溜息になって空気を汚した。
仰る通りだよ……こっちは生死がかかった問題なんだから、危機感を持って今後は生きていかねば。
「ところで後前さん。ひとつ聞いて良い?」
俺はカバンを肩に掛けながら最後にひとつ問いかける。
「後前さんは恋とかしたことあんの?」
半分開かれた瞼はピクリとも動く事無く、答えにならない答えを返した。
「あの秋心さんでさえ人を好きになるんですよ?」
……これ以上無い説得力のある回答だね。
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