名前の無い幽霊の噂(後日談)


 帰り道、秋心ちゃんにアイスを奢らされそうになったけど、幸いな事に俺の財布の中身は前述通りであった為難を逃れた。

 秋心ちゃんは相変わらず頬を膨らませていたから今度はシュークリームが食べたい気分である。アイスはもう些か季節にそぐわない。


「ただいま」


 出かける時には『行ってきます』を、帰宅時には『ただいま』を言うのが火澄家のルールである。名前を書く云々の話もそうだけど、子供っぽい決まり事が我が家にもあった。


「あ、おかえりー」


 晩御飯は何かなと鼻をくすぐっていると、居間のテーブルの前に陣取る妹が俺を見上げもせずに言葉を投げてきた。

 家族に『おかえり』を言うのも家訓のひとつだ。挨拶が行き交うからと言って、別に特段仲が良い兄妹という訳では無い。

 年子の妹は御多分に洩れず扱い辛いお年頃である。まぁ、妹と同い年の秋心ちゃんで手を焼く事に慣れている俺にとっては、妹の言うたまの我儘なんてまだ可愛い方であるが。


「宿題? 自分の部屋でやれば良いのに」


「テレビ見たくってさー」


 六時半のアニメに釘付けの妹。お前本当に高一か……? 妹と言うものはいつまでたっても子供である。

 テーブルの上に放り出されたノートや筆記用具はその役割を果たさず、ただ団欒の間を散らかしているだけだった。

 て言うか、テレビ見ながらする勉強に意味があるとも思えない。まぁ、勉強どころか宿題すらしない俺に偉そうなことを言えた義理では無いけどさ。


「あ、ちゃんと消しゴムに名前書いてんだな」


 こう言うところも子供っぽい。

 カバーの無い消しゴムの底面に『ひずみ』と平仮名で書かれている……漢字わかんない訳じゃないよね? 自分の名前だよ?


「そりゃ書くよ、無くしたら嫌だもん。

 ……あ、でもさークラスで消しゴムに好きな人の名前書くおまじないが流行ってるんだけど、アレって消しゴム無くした時に困ると思うんだよねー」


 なるほど……つまりこいつには好きな人はいないと言う事か。

 兄としては一安心である。別に俺にはシスコンの気は無いけど、こいつが彼氏なんて連れてきたら引っ叩いてやる所存である。

 いやいや、『ひずみ』って俺のことかもしれん。それはちょっと困るな……だって俺達、血の繋がった家族なのだから……。


「お兄ちゃん、その子何回言っても聞かないから先にお風呂はいっちゃって」


 台所から母の苛立った声が飛んできた。

 俺だって疲れて帰ってきてまずは一息吐きたいんだけど……母を怒らせたら後が怖いので素直に従う事にする。


 脱衣所で制服から袖を抜く。

 まぁ、風呂は嫌いじゃない……と言うかむしろ好きな方だから構やしないんだけどね。ちょうど陽が短くなってきた今日この頃だから、温かい湯船は大歓迎だ。


「……あれ?」


 ズボンに手をかけたところでひとつ重大な事実に気付く。


 俺、パンツ履いてない。


 ま、まままマジで⁉︎

 もしかして俺、今日一日ノーパンだったの⁉︎ この歳になって⁉︎

 今日は妙に肌寒いなぁなんて思ってたけど……。

 下手な事を口走って恥をかかなくてよかった。秋心ちゃんなら俺が動かなくなるまでからかってくるに違いない。

 それにしたって良い歳こいてパンツ履き忘れるなんて……。己の不甲斐なさに寒気がするな。朝はきちんと履いていたはずなのに、どこに落としてきたんだよ……。


 ……まさか幽霊じゃあるまい。


 どこかで俺のパンツを見かけたら、こっそり連絡をください。



おわり

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