名前の無い幽霊の噂

名前の無い幽霊の噂(提起編)


「お疲れ様です、火澄ひずみ先輩今日はやけに早いで……」


 いきなりドアを開け放ち現れた秋心あきうらちゃんはそこまで言いかけて言葉を止めた。

 その目線は俺の手元を突き刺している。


「あ、秋心ちゃんこんにちは……」


 絞り出すように掠れた声が漏れる。

 血の気が全身から撤退を始めていた。て、敵前逃亡は許さんぞ! 早よ戻れ血液たちよ‼︎

 俺の血管事情なんて知ったこっちゃない秋心ちゃんは扉も閉めずに表情に陰りを作る。

 その薄い唇が僅かに揺れた。


「先輩、その手に持っているものは何ですか?」


「こ、これ? これはえーっとその……プリンって言ってだね……卵とか牛乳とか砂糖とかをこう混ぜて蒸したり焼いたりして作るお菓子であってだね……」


「蓋に書いてある文字が読めますか?」


 プラスチック製のスプーンを持つ指が震える。

 彼女の言葉は冷え切っていて、俺に寒気を覚えさせるには十分過ぎる殺意を孕んでいた。

『やわらかプリン』と印刷されたパッケージに、太く『秋心』と書いてある。

 気付かなかったわけではない。たまたまタイミングが悪かっただけだ。

 このとろーりと甘いカラメルソースが意外に美味しくて、滑らかな舌触りに想いを馳せる事でひと時の幸せを得ていた俺。

 味わいなんて無視してさっさと食べてしまってればと後悔しても、もう後の祭りである。


「いやあの……これはそのあれだ。

 あの……あれだよ。なんて言ったら良いんだろう……。

 つまりその……」


 ここ何日かで急激に気温の低下を見せる季節の変わり目にもかかわらず、額から汗がダラダラ溢れて俺のもみあげを濡らす。

 秋心ちゃんの瞳は逆光に映り、直視はおろか視界の端に捉えることすら出来ない。


 意を決して俺は言った。


「すみませんでした‼︎」


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「辞世の句くらい聞いてあげますけれど」


 食べかけのプリンの容器に一瞥をくれて秋心ちゃんは優しく微笑む。死に逝く者に慈愛の心を見せる秋心ちゃん……こんな表情の彼女を見るのは初めてだ。

 最後に見る光景としては申し分ないかもしれない。でも俺はやっぱり死ぬ覚悟はできてなかったから、必死に弁明を図る。

 被告人、答弁を述べよ。


「違うんです……今日、財布に十五円しかなくて昼飯食えなかったからお腹空いちゃって……。

 んで、部室に来たらプリンがあったから我慢出来ずに……」


「じ、情状酌量の余地もない……」


 仰る通りであるが、如何せん辛辣である。

 この子が裁判官なら全人類死刑であろう。いや、俺だけか……?


「楽しみにしてたんですよ、このプリン……」


 つい魔が差したんだ……本当に申し訳ないと思ってます。二度とこんな事はしません。

 新しいのも買って返します、本当に反省してるんですこの男。どうか許してやってくださいまし……。


「でも、いいんですよ先輩。もっと楽しみな事が出来たから」


 ま、まさか……あの真倉北まくらきた高校の悪魔こと秋心様がお許しくれると言うのか……⁉︎


「火澄先輩の死に様って、あたし初めて見るなぁ」


 人生で一度しかないからね⁉︎ そりゃそうだろうよ、何度も見れるもんじゃないわ!

 わかってたけど。猶予なんか貰えないってこと。


「本当に悪かったとは思ってるけど、命をもって償わなきゃいけない程の罪を俺は犯したんだろうか……?」


「先輩、人の物を……あまつさえ名前が書いてあるものを勝手に盗ってしまうなんて幽霊以下です。

 死に値するに決まってるじゃないですか」


 き、決まってんのか……なら仕方ないね。

 いやいや、諦め良過ぎだろ。潔さに定評のある火澄君です、こんにちは。

 そしてさようなら。


「幽霊? どういうこと? 全然関連が見つからないんだけど」


 その発言が引き金か、秋心ちゃんは大きな目をさらにひとまわり大きく見開いて俺を睨んだ。


「火澄先輩……『名前の無い幽霊の噂』をご存知ないんですか?」


 ご存知ないです。

 どうせ『オカルト研究部のくせに』って罵倒が続くんだろ? いつもの事だよ……。

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