秋心ちゃんの噂(調査編②)
例の中庭に淡笹は立っていた。
街灯が照らす彼女は俺が最後に見た姿となんら変わりはない。昨年、昨日とこの人見に焼き付けた姿と何の違いもない。
ただ、それは俺の作り出したものではない、本物の淡笹なのだと言うのであれば、それを除いて彼女は俺の記憶の通りだった。
秋心ちゃんは俺を見つめて頷いた。
「……先輩、行ってきてください」
握られた手のひらが冷たい空気に解放された。
秋心ちゃんは優しく笑っている。
悲しげな表情が何を意味しているのか考えながら、その目を見つめた。
「うん、少しだけ待っててくれ」
一歩一歩土を蹴った。
これまでの俺を振り返るかのように足音は静寂に響く。
その足取りすら愛おしそうに見つめる淡笹の姿は、懐かしさに混ざり琥珀色に輝いている。
「……久しぶり、ひずみくん」
「……久しぶりだな、淡笹」
向かい合う視線。
耳元をくすぐる声。
棺で見た安らかな寝顔よりも彩りある表情に、涙を堪える事で必死だった。
「会いにきてくれたんだね」
淡笹は影のない体で俺を見上げる。
置き去りにしたままの彼女は、この世界にはあまりに不似合いだ。
「元気にしてた?」
「あぁ、見ての通りだよ」
「背が伸びたね、少しだけ大人っぽくなった気がする。前よりもっと、かっこいいよ」
「かっこよくなんかないさ」
「あはは、お世辞じゃないんだけど……相変わらず素直じゃないなぁ」
「そんなに簡単に変われるもんじゃないだろ?」
「そうだね。
でも、変わらなきゃ。
今日、来てくれた理由もそうなんでしょ?」
「……」
「変わって行くつもりなんだね」
「……」
「とても嬉しいよ。会いに来てくれた事もだけど、ひずみくんがちゃんと歩いて行く決心をしてくれたことが」
「……」
「ちゃんと見てたんだよ?
そろそろ、ひずみくんも先に進まなきゃ」
「……許してくれるのか?」
「どう言う意味かな?」
「だって俺、約束したじゃんか。淡笹のことを忘れないって」
「忘れてなんかいないじゃない。覚えていてくれたじゃない」
「そうかもしれないけど……」
「あ、なに? あたしがそんな意地悪な子だと思ってたの? ショックだなぁ」
「……ごめん」
「もちろん、少し寂しいよ。
でも、ひずみくんが幸せになるのは嬉しい。ひずみくんの幸せは、もうあたしの幸せなんだから」
「俺も、淡笹の幸せが俺の幸せなんだよ」
「なら、ちゃんと前を見て。
女の子はわがままなんだから、あたしのの言うことを大事にして欲しいな。ひずみくんがどう思おうと知らないよ。あたしを幸せにしてくれるんなら、あたしの言葉に甘えてくれなきゃやだよ。
高校生になったんだから、それくらいわかんないとモテないよ?」
「余計なお世話だよ」
「あはは、まぁ、その心配もないみたいだけどね」
「……」
「あ、照れてる? 可愛い彼女連れて来て、このこの!」
「ち、違うわ。そんなんじゃねぇよ……」
「違わないくせに。言ったじゃない、見てたって。
本当に、あたしは嬉しいんだから。ひずみくんに好きな人ができたってわかった時、本当に嬉しかったんだから」
「……」
「謝らなくちゃってずっと思ってたんだ。あたしのわがままのせいで、長い間苦しめてごめんなさい」
「違うよ、それは違う」
「違わないよ。あたしがひずみくんにちゃんと伝える勇気がなかったから、だからひずみくんは辛かったんだ……」
「そんなことない」
「本当に?」
「本当だよ」
「そう思ってくれるなら、ひずみくんを信じる。だからね、ひずみくんもあたしの言葉を信じてくれないかな? ひずみくんに幸せになって欲しい、本当にそう思ってる」
「……敵わないな、淡笹には」
「長い付き合いだからね」
「……」
「……あのね、ごめんね。あたし、言えなかったことが他にもたくさんあったの」
「俺もだよ。あのな淡笹、俺お前のこと」
「ストップ。
そんなこと言っちゃダメだよ。あの子が聞いてるんだから」
「……」
「……あの子は、ひずみくんの大切な人でしょ?」
「……ああ」
「大事にしてあげてね」
「……ああ」
「あたしよりも、だよ?」
「……」
「返事は?」
「……わかった」
「なら良し。
あとね、多分お母さんが持って帰ったんだと思うんだけど……あたしの英語の参考書、あれひずみくんにあげる。
もう高校生になっちゃったから必要ないかもしれないけど」
「……いや、俺英語苦手だから助かるよ」
「あはは、ちゃんと勉強してね。
あんまり授業中に寝ちゃダメだよ?」
「そ、そんなところまで見てんのか?」
「見てるよ、ずっと見てる。ずっとお祈りしてる。ひずみくんががんばれますようにって」
「……そっか」
「だから、頑張りなさい!」
「わかったよ」
「あはは、そうだ、あとひとつだけお願いがあるんだけど」
「なんだよ」
「意地悪なお願いなんだけど」
「……なんだよ」
「キスしていい?」
「……」
「許しますよ」
夜の陰で秋心ちゃんそうが答えた。
「ありがとうございます」
淡笹は深く頭を下げる。
振り返るのは笑顔。
「素敵な人だね。なんて言う人?」
「まぁな、秋心ってんだ」
「じゃあ、秋心さんには申し訳ないけれど、ちょっとだけかがんで。あと、恥ずかしいから目は閉じて……」
言われた通りに瞼を閉じる。
「ドキドキするね」
「……まぁな」
頬の雪のように冷たい感触は一瞬のことだった。
「……ありがとう」
「淡笹……」
「秋心さん、ありがとう。わがまま言ってごめんなさい。唇は譲ってあげるからね。
ひずみくん、あの子を泣かせちゃダメだよ。怒るからね」
「……言われるまでもないよ」
「なら良し。
今日は来てくれて本当にありがとう。
最後にもう一度会えて、本当に良かった。」
「……俺もだよ」
「本当に最後だからね」
「……わかってる」
「あはは……じゃあね、さよなら」
「おう、さよなら」
瞬きの間に消えてしまった彼女は、最後まで笑顔だった。
俺も同じように笑えていたらいいと思う。
キスの時、頬に添えられた淡笹の手は何よりも冷たかった。
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