秋心ちゃんの噂(提起編③)


「お前、その意味わかって言っとるんやろうな!?」


 宙を舞った俺の体は積み重ねられた古い机達に受け止められ、背中が軋む痛みで眩暈がした。

 これまで目にしたことのあるどの怒りよりも激しい色を纏った雪鳴先輩が声を荒げる。


「応えろ!

 それが、どれだけ残酷な言葉かわかっとんのか!? そう聞いとるんや!」


 チカチカと光る目で秋心ちゃんを捉える。霞んだ彼女の影は、どこか遠くで流れる雲のように不確かだ。

 その表情は悲しみだろうか、怒りだろうか、軽蔑だろうか。

 弛むことなく俺に届く光はこの身を焦がす。


「……わかってるよ」


 そう、わかっている。わかっているけれど、俺は間違えている。でも間違えていることだってわかっている。

 俺にとって最も大切な人が誰なのかなんて、ずっと前から気付いているんだ。


「いや、わかっとらん。わかっとるならそんなこと――」


「わかってるよ!」



 わかっているさ。

 何よりも大切で、愛おしくて、手放したくないもの。


 それが秋心ちゃんだってことは、ずっと前からわかってるんだ。


 秋心ちゃんのことが好きなんだって、認められないわけがない。昨日の夜からずっと彼女のことを考えているんだから。

 さようならをしたつもりになっても、記憶の中でずっと笑顔を見せるのは秋心ちゃんだった。

 淡笹への断罪のつもりが、秋心ちゃんへの想いは強まるばかりだった。


 それは、その想いはには余りに重荷だった。


 淡笹が俺にとって大切な人であることにも疑いはないのだから。

 確かに、彼女に恋していたのだから。

 その死を、別れをどんなに嘆いたのか忘れられないのだから。


 その板挟みに、たった一晩だけでも気が狂いそうになった。


 それでも、今俺にとって大切なものが何かなんて揺るがなかった。


 淡笹の幽霊が俺の思い込みだと突きつけられたとき、心は抉られたように形を変え、傷口に吹き込む冬の風が嘲笑を運んできた。

 その中で、『最も俺を絶望させた事実』をここに白状しよう。


 それは、『俺が秋心ちゃんではなく淡笹を選んでしまったという真実』だった。


 あの淡笹が俺が作り出したものならば……もしそうなのだとしたら、全ては俺の想いじゃないか。

 全てを俺の本当の願いで満たせるなら、どうしては、あんな言葉を吐こうか。


 俺には、淡笹をこの世に引き止めるだけの想いがなかった?


 違う。


 俺は、淡笹から解き放たれるだけの想いを秋心ちゃんに抱いていなかったのだ。


 淡笹の『嘘吐き』が単なる俺の言葉だとしたら、たとえ淡笹を裏切ってでも秋心ちゃんを幸せにするだけの覚悟が俺にはなかったと言うことなのだから。


『てめぇが不幸だろうが悲しかろうが辛かろうが知ったこっちゃねぇ。でもな、んなもん犠牲にしたって守りたいと思えるものがないうちは、何も終わんねぇし、始まりもしねぇんだよ』


 これは今日の後前さんの言葉。


 つまりはそう言うことだ。

 俺は自分の悲しみ……もとい、淡笹を悲しませてまでも秋心ちゃんに幸福を与えたいと、深層心理でそう思えなかったことを、淡笹の正体を知ることで認めてしまったのだから。

 その真実に気付かされたことが、何よりもつらかった。

 秋心ちゃんへの想いが淡笹への罪悪感を上回らなかったことに耐えられなかった。


「全部わかってんだよ……でも、仕方ないだろ。

 こうでもしないと……」


 こうでもしないと、秋心ちゃんを俺の呪縛から解き放つことはできないんだから。

 俺の作り出した淡笹と同じように、俺が淡笹から貰いたかった言葉が生まれないのだから。


 君に幸いをもたらせることが出来ないのならば、いっそのこと俺のことなんか嫌いになってくれ。

 君は俺と一緒にいても、幸せになんかなれないんだから。

 君を不幸にする……俺にはその資格はないんだから。

 悲しみを背負う覚悟がない、弱い存在だったんだから。


 君を一番にできない弱い俺の、弱い俺へのせめてもの抵抗だった。


「……仕方ないやと? どこまで腐っとるんや貴様!」


 雪鳴先輩ごめん。

 こんなに怒りを露わにしてくれる意味はちゃんとわかってる。最後の最後に期待を裏切るようなことをして、本当にごめんなさい。

 こんなやり方しかできない、情けない後輩でごめんなさい。


「あっきー、あんたはどうなんや。さっきから黙っとらんと、こんなクソみたいなやつに言いたいことはないんか!?」


 秋心ちゃん、ごめんな。

 罪を償うなんて、実はわがままなことなんだ。

 何度も間違いを犯して、君を傷付けて、悲しませてしまったことを俺はずっと背負って生きていく。


 君には、どうか幸せになってほしい。


「火澄先輩」


 彼女は重たい口を開く。

 どんな非難でも、悪辣な言葉でも良い。それが報いだ。

 なんなら、君が望むならこの命だって投げ捨てよう。

 この苦しみを、君の手で終わらせてくれ。


 これが、君からもらう最後の罵倒になればいい。



「今から際界病院に行きましょう」


 彼女は笑っていた。

 悲しそうに、まるで涙を流すかのように。

 どうしてそんなことが言えるんだ。


「そこには淡笹さんがいます。

 先輩の妄想ではない、本物の淡笹さんが待っています。

 安心してください。あたしが、今度はちゃんと作り出しますから」


 まるで水中にいるかのような愁いを帯びた声だった。

 漏れた気泡がどこまでも空へ登っていくのだろう。未だここは深海に違いない。

 そのはずなのに、彼女の言葉は、表情はただ悲しみだけが塗りたくられてるわけではない。何故だかそう見えた。


 俺の言葉を聞いていなかったのか? どんな言の葉よりも汚れた意味を理解できないのか? 君はそれほどまで、お人よしだっただろうか。


 そんなにも、俺の事を想える理由はなんだ?


 雪鳴先輩の手が俺の襟を掴み、この上体を持ち上げた。


「火澄、見ろ、考えろ。今、あの子がどんな気持ちで口を開いているのかを想像しろ。

 これ以上あの子を悲しませるな。

 うちの言う意味がわかるか!? あの子の本心を考えろ!」


 先輩の肩越しに見える秋心ちゃんは、確かに笑っている。

 彼女は自身の幸せをなげうって、俺の願いを叶えようと言うのだろうか。


 それは、なんて愚かなことなんだ。


 先輩を無視して秋心ちゃんは更に続ける。


「そこで、淡笹さんに今度こそ伝えましょう。彼女の、本当の言葉を聞きましょう。

 ゆきちゃん、大丈夫。

 火澄先輩……」


 笑顔と泣き顔はとてもよく似ているのだと知った。



「あたしを信じてください」



 信じる。



 その言葉の重みは、きっと両手では抱えきれない。

 だからこそ尊く、美しく、大切なもの。


 秋心ちゃんの言葉はまるで――


「火澄、応えろ!

 いいか、これが最後のチャンスや、選べ。

 これ以上この子を傷付けるか、それともとっととこかから失せて、その汚いツラ二度と見せんか、どっちか選べ!」


――まるで、俺と同じじゃないか。


 いや、同じじゃない。秋心ちゃんにあって、俺に無いもの。

 二人の想いは同じはずだ。それでも、俺には足りないもの。

 秋心ちゃんは確かに持っているもの。


 強さと弱さの界がそこにある。


 今更になって、俺も強くなりたいとそう願う。

 願ってしまった。


 信じてください。


 その不確かで柔らかく、形のない淡い存在を目の前に差し出されて、俺の中で何かが崩れてしまった。


「……すみません、雪鳴先輩」


 怒りだった雪鳴先輩の腕を握る。

 口の端から血の味がした。


「俺は秋心ちゃんを信じたい」


 間違っていたんだ。

 間違っていることを知ったつもりになっていることすら間違いだったんだ。

 突き放す優しさなんて、それが秋心ちゃんの為だなんて、それは俺自身を守る詭弁でしかなかったんだ。

 大切な人を傷つけていい理屈なんか無いと、昨日学んだはずだったのに。


 いつか彼女は言った。

 あたしの幸せを俺の幸せにしてほしいと。

 その言葉の意味を履き違えていた。


 俺は、俺の幸せを彼女の幸せにして欲しいと願ってしまっていた。


 似ているようでその二つはまるで違う。だって、秋心ちゃんの言う彼女の幸せこそ、俺の幸せと重なるべきものだと彼女だけが知っていたのだから。

 誰よりも自己犠牲的な美しさを持っていたのは紛れもなく彼女だった。


 そして、彼女はそれを『わがまま』と呼んだ。


 雪鳴先輩は唸る。


「都合が良いな。お前、本当にそれでええんか」


「……俺は秋心ちゃんを信じます」


 同じ言葉を繰り返した。


 都合が良いなんてことは百も承知だ。

 でも、だからこそ俺はその差し伸べられた手を掴むべきなのだろう。

 俺が悪いんだからと、今更だからと手を払うことは、つい今さっきまで俺がしていた過ちを繰り返すことと同じなのだから。


 自己嫌悪に陥れば気が楽だ。

 後悔することは楽なことだ。

 その過ちに向き合うことに比べれば、余りにも容易いことだ。


 淡笹の存在を盾にして秋心ちゃんから目を背けることは簡単だ。

 でも、それを秋心ちゃんは許してくれない。


 彼女はどこまでも、呆れるほどに俺を信じている。


「それがお前の答えか」


 刹那、どす黒く燃えていた先輩の瞳から笑顔が見えた気がした。

 次の瞬間視界が暗転する。

 雪鳴先輩は俺の額に頭突きをひとつ食らわせて、あまりの痛みに強く目を瞑る俺の耳元で囁くように言った。



「……最後の最後で思い出したか、バカタレ」


 その言葉で、痛みで雪鳴先輩といつかした約束を思い出した。


『俺のことなんかどうでも良い。ただ、秋心ちゃんのことだけを信じろ。』


 その約束を。


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