秋心ちゃんの噂(提起編②)


 ノートの字面を何度も目で追う。

 それでも理解が追いつかない。意味がわからない。



 淡笹の幽霊が存在しない?



 何を言っているんだ、だってあの夜、そして昨日だってあいつは確かにそこにいた。際界病院の中庭にいたんだ。

 物憂げな表情でひとり、あのベンチにいたんだ。

 そして、昨日の夜俺に言ったんだ。


『嘘吐き』


 そう俺に微笑んだんだ。


「あのな、火澄。そこに書いてあることが全てや。二年前のあの日、うちには淡笹さんの幽霊なんて見えんやった。昨日だって……あっきー、そうやろ?」


 唇を動かさずに少女達は言う。


「……あたしには、火澄先輩がひとりで喋っているようにしか見えませんでした」


 秋心ちゃんの声が震えている。共鳴するようにノートを握る俺の手が小刻みに揺れた。

 息も出来ないまま、彼女に視線を移すこともできない。


「淡笹さんは、亡くなった時からこの世にはもうおらん。縛られてるのはあんたの方や。あんたにかかっとる呪いは淡笹さんのもんやない。なんや」


 言葉は深く沈む。

 どこまでも、どこまでも。光が届かない深さまで沈んだってまだ底は見えやしない。

 じゃあ何か? 俺はこの三年間、淡笹が死んでからの時間ずっと――。


「……俺は、ひとりで勝手に悩んでたって事ですか?」


 言葉は濁る。

 雪鳴先輩が目を逸らすのが見えた。


「淡笹の幽霊なんていなかった!? それって……」


 その意図を察したように声が挟まれる。


「違う」


 雪鳴先輩の制止を無視して、俺は喉を枯らした。


「俺には淡笹をこの世に引き止めるほどの想いがなかったってことですか!?」


「火澄!」


 秋心ちゃんは未だ下を向いたまま震えていた。

 いつもはどこか気高さに似た憧れを抱いていた雪鳴先輩の瞳。

 どうしてだろう、今は憐れみを孕んで映る。捨て犬を見るような目線が俺を刺している。


「火澄、それは違う。お前の想いは本物――」


 誇りか見栄か……また別の何かだろうか。それにそそのかされて、また俺は声を跳ねさせる。


「どうしてそんなことが言えるんですか!? 何が違うって言うんですか!? どこが本物だって言うんですか!?

 だってそうでしょう? 俺が本当にあいつのことを想っているなら、あいつの死を悲しんでいるなら……それができないわけないじゃないですか……できないのはおかしいじゃないですか!?」


 そうだろう?

 俺の言っていることに何か間違いがあるか?

 ただ徒らに悲しんで、俺と彼女の繋がりを想像の中だけで作り上げて、支配されて、たくさんの人を巻き込んで傷付けて……そうだろう?


 淡笹は言った、確かに『嘘吐き』と。

 耳について離れないんだよ、その言葉は。

 それは、俺との繋がりを断つことに怯え、悲しんでいるからこそ漏れた本当に最後のわがままだったんじゃないのか?

 それすら俺の独りよがりな願いだったと言うのか?


 俺がただそうであってほしいと願っていたから、を淡笹に口走らせてしまったと言うのか?


 それは、あまりにも虚しいんじゃないのか?


「あんな火澄、幽霊なんてそう簡単に生まれるわけがない。それが普通なんよ。オカルトなんてものが異常なんや。

 だからあんたが背追い込むもんやない」


 半ば意固地に似た自暴自棄。頼む、誰か後に退く勇気を俺にくれ。

 もう十分格好悪いじゃないか。これ以上、自分を汚したくないのに止まることが出来ない。


「果たしてそうでしょうか? だって、秋心ちゃんは……彼女にはができるじゃないですか」


 時が止まることにも気付けない。

 いつかの俺は、俺を戒めることすら出来やしない。


「秋心ちゃんは、照れ隠しに吐いた言い間違いだって本当にしてしまうじゃないですか」


 いつかの邪神の叫び声がまた聞こえた気がした。


「なら、どうして俺にはそれが出来ないって言うんですか。秋心ちゃんの妄言にだって応えてくれるのに、どうして俺の願いは無視されてしまうんですか!?」


「だから!」


 再び雪鳴先輩の怒声が割って入る。

 言葉に息を乱すのは、呼吸の放棄と等しいものだと今ならわかる。この時の俺にはそんなこと知る由も無いけれど。


「……だから、うちは神様が嫌いなんや」


 先輩のそんな言葉はなんの意味も持たぬ慰めだ。

 この世が不条理で不公平なことなんて身に染みて知っている。ただ、そんな言葉で諦めがつくほど俺は大人ではなく、物分かりも良くない。

 淡笹の死で俺はそれを知った。

 自分だけがこの世で一番不幸なのだと嘆いている。今この瞬間、確かに傷付いている人物がいることに見て見ぬ振りをして。


「……秋心ちゃんが特別だと言うことですか?」


「そうかもしれん。でも、この子はそんな風には思っとらん」


 秋心ちゃんは目を伏せて、その整った顔立ちを世界から隠そうとしていた。


「でもな、現実は受け入れないかんやろ。それを認める勇気がなかったのは火澄、お前だけやなくて、あっきーだってそうや。

 あんな、あっきーだってそんなことは気付いとったんよ。自分のせいでいくつものオカルトが生まれていることくらい。

 勿論、この世の不可思議が全てそうやない。あんたら二人が関わった事件が全てそうやない。でも、少なからず彼女の力で作り出された命の無いものは確かに存在しとる。

 あんただって、それは理解しとるよな?」


 邪神、火だるま、木霊木さんの偽物……気付いていたさ。そして、秋心ちゃんがそれに気付いているなんてことは知らなかった。

 それを彼女が知る必要はないと思っていたから。その理由は――


「この子がそのことで、どれだけ苦しむのかわからんわけないよな?」


――今雪鳴先輩が口にした通りだと思う。


 秋心ちゃんは浅く胸で息をしながら苦しそうに眉間にしわを寄せていた。

 その意味を知った時、俺はこの肺を刺す様な後悔を学ぶ事になるのだと、ここで前もって言わせてもらおう。

 少しでも後悔を散らしたいから……と言う弱さは言い訳にならないけれどを


「じゃあ、先輩の言う通りなんだとしたら……」


 頼む、未来の俺よ。この時の俺を殴りに来てくれ。止めてくれ。

 これからの言葉は、きっと、ずっと俺の心を苛めることになる。


 この目玉は何のために付いている?

 この耳は何のために付いているんだ?


 頼む、気付いてくれ。

 全てを繋げてくれ。どうしてこんな事になったのかを、思い出してくれ。


 お前は、あの子にとってただ一人の火澄先輩だろう。

 お願いだからやめてくれ、そんな言葉を口にしないでくれ。


 ……しかし、俺を助けてくれる存在なんて俺自身を含めてどこにもいなかったのだ。

 無情で、非情で、不浄な言葉を大切な人に吐き付けることを恥じもしない俺なんて、いつも秋心ちゃんが言うように……。


 ……死んでしまえばいいのに。



「……秋心ちゃんなら、淡笹の幽霊を作り出せますよね?」


 そう言い終わると同時に雪鳴先輩の拳が俺の頬を撃ち抜いていた。


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