初恋の人の幽霊の噂(調査編)
淡笹は重たい首を持ち上げ、その視線を返した。
涙が溢れそうだ。
黒く艶やかな長い髪。白い肌。長い睫毛。記憶は沸騰する様に心を震わせる。
漏れる吐息が一層白さを増した様な気がした。
あとは、いつも見せてくれた笑顔がそこにあればいいと思った。でも、彼女は無機質な顔に寂しさだけを貼り付けて俺を見上げるだけ。
彼女の隣に腰掛ける。
暗がりに立つ秋心ちゃんの姿は影になって闇に溶けている。
「……長いこと、来てやれなくてごめんな」
返らない返事を待つ様にゆっくりと吐き出した。
生きとし者の放つそれとなんら変わりのない眼差しを受けて、唇はかじかんだ。
本音を漏らせば『久し振り』なんて笑いかけてくれることを期待していた。
それが叶わなくたって良いと腹のなかでは強がってみても、やっぱり少しだけ侘しさが光る。
『どうしてお見舞いに来てくれなくなったの?』
『寂しかった』
『約束を、覚えてる?』
なんだってよかった。文句の一つでも構わなかった。彼女に会えるのなら、なんだって。
それでも、今、こうして淡笹の隣にいることが懐かしくて、悲しくて、嬉しくて、泣きそうになる。
言葉をかけてくれなくたって、そう思ってしまうのだから仕方がない。それだけ彼女が大きな存在なのだと、恥ずかしいけれど思い知らされる。
彼女は何も応えてはくれない。ただ、愁いを帯びた目で俺を見つめるだけだった。
「……淡笹に会えなくなって、ずっと寂しかった」
言葉は彼女に、淡笹に届いているのだろうか?
今まで触れ合った幽霊や怪奇のどれよりも特別で大切なモノは、これまで出会ったどんなオカルトよりも現実味を帯びている。
でも、これが非日常なのだと痛いほど感じてしまうのは、胸の苦しみがじわりじわりと喉元までにじり寄ってくるからで、俺をあちら側に誘い込もうとするかのようだ。
絞り出す声は、そんな乾きからか僅かに掠れた。
「だからこうしてお前に会えることが、とても嬉しい。そして淡笹はどう思ってるんだろうって、今も考えてる。
喜んでくれてたら嬉しい。怒っていても構わない。ただ、お前に会えたことが堪らなく嬉しいんだ。
思い出すよ、まるで昨日のことみたいに。二人で話した事とか、この中庭の事なんかも」
彼女がいなくなってからの時間は途方も無いものだった。それでも、あの時に一瞬で引き戻される様な錯覚がこめかみを往復した。
俺が失ったものなんてなかったみたいに、今は当たり前に存在している。淡笹にとってはどうなんだろう?
彼女が失ったものはあまりに多く、重く、残された人々なんかよりもずっと色褪せているに違いない。
この世を去って、彼女はひとりぼっちになってしまったのだろうか?
もしも俺一人でここにいるのなら、淡笹の隣に座っているのなら、もう引き返すことなんてできなかったかも知れない。
淡笹 薫という過去に囚われて、この場所を永遠にしても良いと思えたかも知れない。
その寂しさをやわらげるためなら、一緒に川を渡っても良いとさえ思える。
それでも、今俺を見つめるのは彼女だけではなかった。
少女は、秋心ちゃんは確かに俺を見つめている。
辛うじて俺を繋ぎ止めるのは、きっと強固な鎖なんかじゃない。柔らかな毛糸でも、細い糸でもなく、ただ彼女の眼差しだけだった。
でも、それは断ち切るにはあまりに美しくて、手放すにはあまりに綺麗で、例えば霞んでしまうことを想像するだけで悲しい気持ちになる様な、不思議な繋がりがそこにはあった。
「今でもお前を思い出して泣きたくなることがある。
仕方のないことだなんて、割り切れるはずがないんだよ。お前と過ごした時間とか、お前にも訪れるはずだった未来だとか、それをそんな簡単な言葉で諦めることはできないんだ」
胸の内を占めるのは罪悪感であろうか。
思い出はきっと褪せていく。
淡笹の事を胸に秘めながらも、それを隠して笑ったり怒ったり出来ていたのはその経過の表れに違いがない。
いつかきっと、俺は淡笹との思い出を枯らしてしまう。
そんなこともあったななんて、まるで風化してしまう思い出。時間が解決してくれるなんて言葉は間違いだ。
時の流れはそれを洗ってしまうだけなのだ。
大切な宝物の最後が、そんな瞬間もわからないモノなのは余りに悲しすぎる。
だから、きちんと形のあるうちにサヨナラを言わなければいけない。
自らの意思で、終わらせなければいけない。
「……だから、今日はお別れを言いに来た」
やはり寂しそうな表情は揺るがない。
瀬戸物の様な青い目は、かえって俺を動揺させた。
もしかしたら、最初から気づいていたのかも知れない。俺が口にする言葉を知っていたのかも知れない。
決心が鈍りきる前に、口の端が凍えてしまう前に言の葉を吐かなければ、手遅れになるとわかっている。
それでも、この言葉で全てが終わってしまう事をまだ名残惜しく思う俺の弱さに腹が立った。
ふと視線を影に返す。
秋心ちゃんは冬の空気に溶ける様に立ち尽くしていた。
夏が好きだと言った彼女はただ白いマフラーだけが闇に光り、でも確かにそこにいる事を俺に告げている。
大きく息をひとつ吸い込み、淡笹の寂しそうなまつ毛をまた送る。
まっすぐに彼女を見つめながら、何度も繰り返し心の中で唱えていた言葉を確かなものにした。
「お前をもうここに縛り付けたくない。決して、淡笹の事を忘れようなんてわけじゃない。
でも、どうか……どうか俺に、先に進む事を許してくれないか……?」
淡笹の言葉を待つ。
彼女は優しい少女だった。わがままを言った事だってほとんどなかった。
自分が一番辛いはずなのに、いつも俺の心配をして笑っていた彼女。毎晩の様に隠れて泣いていた事を俺は知っている。
それでも彼女は、俺には笑顔ばかりを与えてくれた。
そんな彼女の優しさに甘えてしまう癖はずっと治っていない。
淡笹は笑った。
優しい微笑みだった。
何度も目にした、幼気な笑顔。
冷たい風が吹きすさんでも、彼女の前髪は靡くことがない。
当たり前だ、彼女はもうこの世にはいないんだから。
口をついた言葉に後悔してしまうことを恐れて、俺は眼差しをより一層硬くした。
返る言葉は終わりを告げる言葉。
俺と淡笹の関係を終わらせてしまうもの。
その言葉を待った。
淡笹が、俺のこれからを祈ってくれることを、その言葉が耳に届く瞬間を待った。
彼女の薄い唇が少しだけ、ほんの少しだけ動いて、たった一言を、か細い声で漏らした。
『……嘘吐き』
言葉を失った。
ナイフで胸を刺されるような、灰皿で頭を殴られるような、そんな形容のできない痛みが体のどこかをくすぐっている。
もう目の前に彼女の姿はなかった。
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