ある秋の日のこと
ある秋の日のこと(過去)
「ひずみくん、修学旅行は楽しかった?」
中学二年の秋の日。
病室に足を踏み入れると同時に目が合った
「どうだろう。長崎って特に面白味もないところだったよ」
お土産を詰め込んだ紙袋をベッドの脇に運び、ふぅと一息吐く。
お疲れ様、無事に帰ってこられてなによりと彼女は更に続けた。
「長崎には歴史的な建物や文化があるし、たくさん観光するところもあったでしょ? 退屈だったのは、ひずみくんがちゃんと学習意欲を持って見て回らなかったからだよ」
まるで先生のようにそう言う。
修学旅行が楽しくなかったわけではないけれど、こうやって病院に縛られている淡笹に、外界について面白おかしく話すことはなんだか残酷な気がして、上のような白けた回答になってしまう。
それはいつものことだった。
「淡笹こそ、調子はどうだ?」
「いつも通りだよ。昨日検査を受けて、特に変わりはないけれど、最近は気候が不安定だから気を付けなさいって先生に言われたかな」
「へぇ、じゃあヘソ出して寝ないようにしないとな」
「し、してません。毎日お行儀よく寝てます」
いつもの会話だ。
淡笹がいかに生真面目か伝わってくるような、特に面白味もないやり取りは俺達の日常だった。
お土産を渡して、もう今日は夕暮れが近いから中庭に出るのは諦めようなんて話していると、ベッドの脇机に何か見えた。
「なんだ、淡笹勉強なんかしてんの?」
中学英語の参考書を手に問う。
「そりゃしますよ、学生の本分は勉強ですから。
毎日暇だから、ちょうど良い暇潰しになるよ」
「暇潰しに勉強か……やっぱり優等生の言うことは違うな」
朧な記憶では、彼女は小学生の頃から真面目だったように思う。
まだ俺達がお互いをちゃんと認識し合っていなかった頃の話だ。
「ひずみくんも来年は高校受験でしょ? 今のうちから勉強しておかないと、後で後悔するよ?」
勉強というものがあまり得意ではない俺にとって、それは大層ありがたいお言葉だったのだけれど、なかなかどうしてわかっていても行動に移せないのが辛いところである。
テレビを見て、漫画を読んで、したい事だけをしているとあっという間に時間なんて過ぎていく。昨日のことなんてもうすっかり忘れてしまうくらいに、地球の自転は早かった。
「だって、勉強なんてしてたらお見舞いに来れないだろ?」
「そ、そんなこと言い訳になりませんー!」
しかめっ面を見せながらも、彼女が少し喜んでくれているのがわかって俺も嬉しくなった。
俺にとって一番望むべきことは、淡笹に会いに来ることだった。
淡笹は西陽を頬に咲かせながら言った。
「あのね、ひずみくん。毎日お見舞いに来てくれてありがとう」
「なんだ、またその話かよ。好きで来てるんだからお礼なんて言わなくて良いよ」
「ううん、何度でも言いたいの。だって、本当に嬉しいんだから」
気が付いたように淡笹がそう漏らすことがしばしばあった。その度、俺は同じように言葉を返しているけれど、何度でも照れ臭くなる。
この時見せる彼女の優しい微笑みが、俺は堪らなく好きだった。
「毎日ベッドで寝転がってるの、ホントに退屈なんだ。でも、お母さんやお父さんやひずみくんが来てくれるから、だからちゃんと毎日あたしは幸せなんだよ?」
それがとても悲しい言葉に聞こえてしまう事に、笑顔が寂しさを孕んでいるように見えてしまう事にいつも嫌気がさす。
淡笹の幸福を決めることができるのは彼女だけであるはずなのに、その笑顔が無理をして作られたもののように気取ってしまう自分が嫌だった。
こんな状況が幸せなはずがないなんて決め付けてしまう俺が憎くて仕方がなかった。
俺にとっては、ささやかだけれど確かに幸せな時間だったはずなのに。
「でも、来年は本当に忙しくなるんだから、今みたいに毎日来てくれなくて平気だからね? 浪人なんてしたら大変だよ」
「た、確かになぁ……クラスの奴らが先輩になっちまうのは避けないと……」
それに、こうした日常をたった一年我慢すれば良いだけの話だ。受験が終わってしまいさえすれば、またこうして毎日見舞いに来ることができるわけだし。
「じゃあ、少しだけ頻度を減らそうかな。一週間に一回とか」
「そうそう。会えなくてもちゃんとお祈りしておくから。ひずみくんが頑張れますようにって」
両手の指を絡ませて、神に祈るポーズを見せながら彼女はまた笑った。
「なら、なおのこと頑張らないとな。じゃあ今年いっぱいは思う存分見舞いに来るぜ」
「あはは、嬉しい」
陽の陰りは次第に色を染めていく。もうそろそろ面会時間も終わり、ここを後にしなければならない。
俺はその瞬間がとても寂しくて、でもこんな無機質な病室に取り残されてしまう淡笹はもっと悲しいんだろうと想像してしまうのだった。
「だから、今のうちに淡笹がしたい事とか、俺にしてほしい事とか言っといてくれよ。なんでも叶えてやるからさ」
「えぇ? 良いよ別に。ひずみくんが来てくれるだけで……あたしは」
その言葉にまた少し照れ臭くなる。それを隠したいがためか、また俺は続けた。
「淡笹はもっとわがまま言って良いんだよ。俺はいつも淡笹に助けられてばかりだし、何かしたい事……なんでも良いから、お願い事をしてくれ」
「た、助けられてるのはあたしの方なのに……そうだな、うーん……」
淡笹は窓の外を眺めながら少し考え込んでいた。
俺はこの窓から見下ろす中庭が好きで、よく身を乗り出しては彼女に怒られた。
「願い事……じゃあ、意地悪言って良い?」
「おう、なんでも良いぞ」
「あたしも一緒に高校生になりたい」
優しい笑顔だった。
「ひずみくんと一緒に学校に行きたい」
優しい笑顔だった。
「二人で放課後、図書館で受験勉強したりして」
優しい……笑顔だった。
「たまに息抜きに遊びに行ったりして」
……。
「……ずっと」
大粒の涙が。
「……ずっと一緒にいたい」
笑顔なんてもう。
「……死にたくない」
笑顔なんてもうどこにもなかった。
「……あたしのこと、わすれないでね」
涙だけが溢れるその眼差しはどこまでも透明で、この時間がいつまでも続くのだと勘違いをしていた俺と、これから何が起こるのかを当たり前に知っている彼女との隔たりを埋めるかのようにとめどなく流れている。
偉そうなことを言っておきながら、ただ彼女の不安や恐怖をかき混ぜることしかできない俺の浅はかさと来たら、今すぐ病室に駆け込んで昔の俺をぶん殴ってやりたくなるんだけれど、それも叶わない願いだった。
何がなんでも言ってくれだ。
俺に叶えられる願いなんて、最後のひとつくらいだ。
彼女が初めて口にしたわがままを、俺がどう受け止めたのかは想像に易かろう。
二ヶ月後の十二月のとても寒い日の夜、彼女は静かに息を引き取った。
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