未解決の噂の生まれた日(解明編)


「せ、先輩……います、淡笹が……淡笹があそこのベンチにいます!」


 淡笹は俺に気付いていないようだった。

 ただ優しく微笑み、たまに空を見上げてはまた視線を落とす。


 最後に見た淡笹の姿そのままだ。


 俺は彼女より二年先の未来にいる。彼女はあの時から世界に取り残されていた。目の奥に刻んだままの彼女は色も、音も、全てをここに残している。

 あの頃ですら俺よりもいくらか背が小さかった彼女の隣に今並んだら、どれくらい見上げさせることになるんだろう。

 息が切れる。唇が渇いた。喉元まで声が沸き立った。


 勇足を踏み出したところで、雪鳴先輩は俺の腕を掴んだ。


「何するんですか」


「こっちの台詞やアホ。火澄、何をするつもりや」


 その指が腕に食い込む。服の上からでも微かな痛みを感じるほどに力が込められている。


「さっき、好きにさせてくれるって言ったじゃないですか。話しかけちゃいけないんですか?」


 一秒でも早く、長く彼女に触れたかった。

 それを阻む雪鳴先輩に、憤りにも近い感情を覚えていた。


「やっぱりさっきのは無しや、話しかけるな。二度と、ここに来ることも許さん」


 怒りが込み上げる。


「離してください、あそこに淡笹がいるんですよ!? なんで声をかけちゃいけないんですか? あいつは俺を待ってます。

 俺が行かないと、あいつはいつまでもあそこにいます。この寒いのに、もう暗いのに、あいつは体が弱いんです、病気なんです。

 どうしてほっておけるんですか!?」


 雪鳴先輩の力がさらに強まった。

 年上とは言えど、とても女の子のものとは思えない力で引き寄せられ、そのまま頬を強く打たれた。


「あほか。その子はもう、死んどるんやろ」


 それはどんな表情だったのだろう。

 今でもまだ答えをつかめずにいる。雪鳴先輩の目元には何かしらを訴える凄みがあった。


 頬がジンジン痛む。ここだけが熱を持ってヒリヒリと痛んだ。

 振り向くと、そこには誰も座っていないベンチだけがあった。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 翌日、俺は雪鳴先輩に黙ってまた病院に来ていた。


『二度と来るな』と言う言葉にも背いて、ただ一人また中庭を目指す。

 気が付くと足は地を蹴り、冬の空の下汗を流しながら走っていた。

 期待があった。言いたいことがあった。まだ、話し足りないことがたくさんあった。

 俺が高校生になったこと。

 この二年間、どれほど寂しかったか、悲しかったか伝えたかった。


 好きだと言う想い。


 想いを言葉にしたためて、丁寧に何度も折り曲げて胸の奥から取り出す瞬間を想像した。

 高鳴る動機の理由は幾重にも重なり呼吸を乱す。


 あの日以来、こんなに胸が高鳴ったことがあっただろうか。


 でも、そこには淡笹の姿はなかった。


 昨日と同じように淡く光る街灯は冷たく、その下には淡笹の代わりに別の人影が揺れている。

 雪鳴先輩が立っていた。


「二度と来るなと、そう言った筈やけど」


 腕組みをしながら彼女は呆然と立ち尽くす俺に歩み寄る。


「淡笹は……淡笹はどこですか?」


「そんなもん、おらん」


 声は冷え切っている。きっと先輩は言いつけを破った俺に怒っているに違いない。

 それでも、先輩に対する恐怖よりも確実な絶望だけが肺に満ちていた。

 遅かったのだ。機を逃してしまったのだ。想いを伝えることは、できなかったのだ。


「そうか、昨日だけだったんですね。淡笹に会えるのは……」


 今日は彼女の命日だ。

 ここにいない理由はそれに起因しているのだろうか。そう納得することにした。

 無理矢理に想いを飲み込むことにした。


 雪鳴先輩はその言葉を無視して低く唸る。

 どうして昨日あんな事をしたのか、俺と淡笹を引き剥がす様な事をしたのか問い詰めたかった。

 それでもそうしなかったのは、雪鳴先輩には雪鳴先輩なりの正義がある事を俺も理解しているからだった。

 そして、それがおそらく間違った答えではないと言うことも。


「……火澄、いいかよく聞け」


 思わず身構える。

 雪鳴先輩の命令に背いたのは今日が初めてだった。どんな制裁がくだるのかなんて、考えただけで恐ろしかった。

 しかし、様相に反して先輩は静かに言った。


「淡笹さんは亡くなって、あんたはこの世に残されてしまったんや。

 悲しいやろ、辛いやろ、何年経っても忘れる事なんかできんよな。あんたの気持ちがわかるなんて、口が裂けても言えることやない。

 確かにあんたは不幸や。大切な人と二度と会えないなんて事は、多分ほとんどの人間にはなかなか味わえんやろうし、味わいたくない想いやろうな」


 雪鳴先輩はそこまで一息に言うと、一度呼吸を止めた。

 見上げた表情は鈍色だった。雪鳴先輩のこんな顔を見たのは初めてのことだった。

 俺はどんな顔をしているんだろう。きっと彼女と似たモノを貼り付けているのだろう。


 途端にとても悲しくなった。

 寂しくなった。

 泣きたくなった。


 雪鳴先輩は俺の顔を隠す様に、優しく抱いてくれた。


「なんも悪いことやない。

 強く生きろ、前を向いて歩けなんて言いやせん。人間なんてそんなもんやから、弱いんやからまた会いたくもなるよな? それでいい。

 ごめんな、火澄は強いから、全然気付かんやった。

 辛い時は辛いって言ってもいいんよ。辛さを見せたくないなら、もちろんそれは隠しても良いんよ。

 好きな人の事を引きずってても、誰も火澄を責めたりはせん。

 だって、残された人間の悲しみは、死んだ人間が遺した呪いなんよ。だから、簡単には消えてしまわんから、大切な思い出ならずっと大事にしといたら良い」


 雪鳴先輩の腕の中は温かい。

 その言葉の意味は俺にはとても難しくて、理解なんてできなくて、それでも何故だかボロボロと涙がこぼれた。


「……でもな」


 ひとつひとつ丁寧に紡がれた言葉は耳元で踊っている。

 続きをためらう様に時間を遊ばせて、それでも雪鳴先輩は静かに言う。


「……あんたもまた、同じ様に呪いをかけとるんよ。それだけはわかっといてね」


 とても悲しかった。

 俺の想いがまだ、彼女をこの世に繋ぎ止めていると言うことが、堪らなく悲しかった。


 きっと、俺が淡笹に執着する事でその鎖はさらに強く錆びてしまうのだろう。

 それを雪鳴先輩は阻止したかったに違いない。


 一日でも早く、淡笹を空の向こうへ送ってやりたいとそう願った。


 それ以上の幸せはきっと俺にはない。

 そして、俺はそれを許すことなんてできない。


 俺は淡笹よりも幸せになってはいけない。



 それが秋心ちゃんと出会う前、去年の十二月の出来事。



つづく

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