不思議なお客さんの噂(解明編)


「どうしてわかったんだい? 君、そう言うのが見えるのか?」


 男性はコーヒーをこぼした謝罪と追加の注文をマスターに告げた後、静かにそう言った。


「いえ、そう言うわけではないんですが……」


 自分でも理由はわからないが……いや、わかってるんだろうな、何故だか今し方の問い掛けには自信があった。

 ただ、その相手方まで言い当てたのは全くの偶然。単純にその可能性が一番高いだろうと思っただけだった。


「そうか、てっきりあいつがこの席に座っているのが見えたのかと思ったよ」


 新しいコーヒーに口をつけながら彼は力なく笑った。


「この際、君がどうしてそんな事を言い当てたのかは気にしないでおこう。

 あまり楽しい話じゃないんだが、おっさんの時間つぶしに付き合うと思って、少しだけ、身の上話を聞いてくれないか?」


 僅かに頷いて返事をした。


「ここね、随分昔からあるんだよ。俺が高校生の時、妻と初めてのデートで来たのはこの店だった。

 座ったのも同じ席。俺がここのカウンター席で、妻はそこ。

 その時、ホットコーヒーとアールグレイティーを注文したんだ。冬だったからね」


 顎で湯気の薄くなったカップを指す。


「不思議だよなぁ、もう何十年も前の話なのに、まだしっかり覚えてるんだよ。

 俺、カッコつけてコーヒーなんて頼んだけど苦くて飲めなくて、後で聞いたらあいつも紅茶なんて飲んだことなくて。喫茶店を出て二人で笑ったなぁ……」


 またコーヒーを一口すする。俺のグラスで氷がひとつ溶けてカランと音がした。


「高校を卒業して、当たり前みたいに結婚して、夫婦になって。

 それなりに楽しい結婚生活だった。二十年以上……人生の半分以上はあいつと一緒にいたんだと考えると、変な感じだけど。

 あっという間だったからね。でもさ、俺が後また二十年くらい生きるとして、俺が死ぬ時にはあいつと過ごした期間は、一人で生きた時間よりも短くなっちゃうんだよなぁ」


 彼が、俺や秋心ちゃんが生きてきた時間よりもずっと長く一緒にいた相手は、もうこの世にはいないのだ。


「二年くらい前から妻は病気でね、先週亡くなったんだ。葬式やらなんやらで結構忙しくて、悲しむ暇もなかったけど、何故だか不意に思い出してこの店に足を運ぶようになったのが一昨日からか……そうか、まだ一週間しか経ってないんだよな……」


 息を飲み込むようにまたカップを手に取る。


「仕事であんまり見舞いにも行けなかったなぁ。申し訳ない事をした。

 今更謝ったって許してもらえるわけじゃないし、あいつが生き返るわけでもないけど、後々考えたら色々と伝えとくべき事とか、しとけばよかった事とか、あるんだよね。

 最後に話が出来たのもひと月以上前で、それっきり逝くまでずっと意識もなくて、そこでやっと俺はつきっきりで病院に寝泊まりで看病……なんの役にもたちやしないんだけど……遅すぎたんだよ」


「あの……」


「病気って色々あるんだろうけど、うちのやつのは結構しんどかったらしくて、薬で延命するんだけどそれがまた体の負担になるんだって。

 辛そうでさぁ、もう早く逝ってしまえば楽になれるのになんて考えてたんだけどさぁ……いざ本当に死んじまったら、悲しくてさぁ……。

 喋る事出来なくたって、俺のことわからなくたって、意識なんかなくったって生きててくれた方がまだ良かったなんて、今はそう思えるんだな。自分勝手だろ?

 喧嘩もしょっちゅうしてたんだけど、最後に見たのも苦しそうな表情だったのに……思い出せないんだよ、笑ってる顔しか……」


 顔を伏せながら言う。


「まだ五十だよ? 早すぎるだろ、老後の計画とか話しすることもあったのに。あいつを連れて、今まで行けなかった旅行とか行きたかったなぁ。

 俺達、子供もいないから、今家に帰っても誰もいないんだよ。

 でもさぁ、あいつがまだ家の中にいる気がして……いないんだけど、別にここに来ればまた会えるなんて思っちゃいないんだけど……耐えられなくてさぁ……懐かしくてさぁ……」


 大人の男が泣くのを見たのは、あの日以来だった。

 彼女の母親が遺体に縋りながら泣くのを、声を殺しながら見つめていた彼女の父親以来だった。

 耐えきれなくなって病室を後にした彼が、待合室のベンチで肩を震わせていた後ろ姿は、さっき見たこの男性の背中によく似ていた。


「……すみません、失礼な事を聞いてしまって」


 言葉は見つからなかった。その全てがおこがましいと思ったから。何を言って慰められたって、そんな言葉にはどんな意味も重みもないのだと知っていたから。

 俺はそうだったから。


「……いや、良いんだよ。辛気臭い話をはじめたのは俺の方なんだし、寧ろ申し訳なかったね。

 思ってること吐き出したら、少しだけ楽になった。

 ありがとう」


 男性は袖で顔を拭った後、笑顔を見せた。それが強がりであることくらい、俺にもわかる。


 楽になんてなるはずがないのだ。

 いくら思いの丈を吐露したって、傷は深くなるだけなのだ。

 時間が解決してくれるなんて嘘だ。薄いかさぶたはできても、ふとした拍子に思い出して剥がれてしまうんだ。

 今日みたいに、思いがけない出来事で。


 カランカランと入口のベルが鳴り、彼は足早に去っていった。

 冷めたアールグレイティーだけが静かに揺れていた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「ありがとう火澄」


 雪鳴先輩はそう言って俺達のお代は受け取らなかった。

 秋心ちゃんも、何が起きていたのかは聞かずに黙って俺の後を付いてくる。


「今回はあんたやないとダメやったんよ。うちが出て行ってもどうしようもなかった」


「わかってます。ヒント、ありがとうございました」


 雪鳴先輩は全て知っていたのだ。どう言う理屈かはわからないけれど、彼女は意味の無い事はしない人だから。

 今思えば『火澄は死んだ事として扱おう』なんて笑えないジョークも、俺が今回の件に気付く糸口だった。

 雪鳴先輩が俺達を呼んだのも、あの男性について調べさせたのも面白半分なんかではなく、彼と、そして俺の為なんだろう。

 確かに不謹慎極まりない方法ではあるけれど、それでもその手段を用いた雪鳴先輩の意図はわかっているつもりだ。


「死んだ人間のことを、いつまでも嘆いていては先に進めないですからね」


 雪鳴先輩の悲しそうな顔が映る。

 いつか先輩の言った言葉。

『残された人間の悲しみは、死んだ人間が遺した呪いだ』

 忘れたわけじゃない。


 忘れてはいけないのだと、それは俺が一番わかっている。


「あっきーも、わざわざありがとうね」


 秋心ちゃんは黙ってお辞儀をした。

 それを見て雪鳴先輩は優しく微笑む。


「……火澄のことを、よろしく頼む」



おわり

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