三途ノ川
風香と昌幸が2人で大泣きをしている頃、彩花は手術室の中に入り麗奈のもとへと静かに近寄っていた。
……もちろん、麗奈の手術中である医師や看護師は誰1人彩花の存在には気づいていない。
手術室の中は医療器具の一定のリズムと、医師や看護師の定期的な会話と息遣いしか聞こえる事のない静かで殺風景な空間。そのなか、手術台で寝ている麗奈の隣に陣取った黒い動物が彼女の様子をじっーと眺めていた。
『あら、あなた今までどこにいたのよ』
自分よりも先に先客がいたことに驚く様子もない彩花は麗奈の横に近づき彼女の顔を覗いた。
…この様子なら心配なさそうね
…まぁ、私のパパが手術してるから絶対大丈夫だろうと思ってたけど…。
…だとすると後は麗奈しだいか。
ひと通り彼女の容体を見た彩花は、次に手術をしている担当医師の顔を覗き微笑んだ
『パパ、久しぶり…元気してた』
話す声はもちろん父親に聞こえる事はなかった。彩花の声だけが虚しく室内に響く……。
『…会いたかったよ。ずっと、ずっと会いたかった…』
まだ自分が死んでから半年ほどしか経っていないのに、何故かもう何年も会ってないほどの懐かしさが彩花に込み上げてくる。
『パパ……………パパ………』
涙で声がまともに出せない彩花は、気持ちを少し落ち着かせる為ゆっくりと深呼吸をする……が、
次の瞬間に今まで感じたことのない頭痛が彼女を襲いはじめた。
『痛、イタタ…』
思わず叫んでしまったが、それは彩花にとって忘れていたほどの激痛だった。
あまりにひどい頭痛。自分の目の前がうっすらとぼやけて意識がなくなりそうになってきた彩花は急いで手術室から出た。
…なんだろう?私が幽霊になってから痛みとは無縁だったのに?それに生きている時だってこんな頭痛はなかった…。
手術室から出ると今までの痛みがまるで嘘だったかのようにすぐに消えてなくなっていた。
少し落ち着いてから麗奈の元に戻ろうと考えていた彩花は二人の方へと目をやった。
だからといって別に心配で覗くつもりではなかったのだが。
その薄暗い廊下では長椅子に座った風香が先生にもたれて寝ていた。先生も目を閉じて寝ている。
『…今日だけは許してあげるわ…ゆっくんのバカ、人の気持ちも知らないで』
彩花はその光景を複雑な思いでしばらくの間眺めていた。
『さてと、麗奈を叩き起こしてくるかな』
『あなたにも手伝ってもらうからね』
そう呟くと彩花はいつの間にか自分の隣に居座っていた動物に話しかけた。
『ワン』
それが合図だったのか一人と一匹はもう一度手術室の中へと入っていった。
…ここは、どこなんだろう?
真っ直ぐと伸びる広く大きな舗装された道を大友麗奈はひたすら歩き続けていた。
…私の他には誰もいないの?
かなり長い間歩いているのだが誰とも会わない。
…でもこの格好じゃ誰かに会わない方がいいかな
麗奈は改めて自分の格好を確認する。裸に腕時計をして白いコートを羽織っただけの姿、コートのおかげでかろうじて裸を隠す事が出来ていた。
…まるで私、痴女じゃないの。こんなの男が見たら絶対に襲われるわ。
そんな事を考えつつ太陽が煌々と照りつける中、彼女は1人歩く。裸なのに何故か身につけていた自分の腕時計を見るがやっぱり時計の針はとまったままだ。どれだけの時間をこうして歩いているのかも分からない。それでも彼女にはこの道を歩く事しか選択がなかった。
何故なら、彼女の左右には大きな崖で出来た壁がずっと続いていたので前に進む事しか出来なかった。
…道を間違えたかしら?後ろに行けば良かったのかな…
最初に現れた大きなな道。
自分の目の前が前方で後ろが後方と勝手に位置づけた事が正しかったのか後悔をしていた。
それに、かなり長い時間歩いている気がする筈なのに疲れてもいなかった。
…どこに向かっているんだろう、私?
彼女が悩んでいるのも当然だった。自分が気がついた時はすでに歩いていたのだから目的もなく…。
そんな麗奈の心の叫びが誰かに届いたのだろうか、歩き続けていた彼女の前方が急にひらけ左右に分かれた道が現れた。
「わぁ、綺麗」
そこは永遠に続くかと思われた一本道の最終地点。堤防の様な場所に立った麗奈は自分の眼下に広がる景色に思わず叫んでいた。
向こう岸が霞んで見えるほど広く輝いた綺麗な川、その川岸から続く真っ白な百合の花の群生。その群生は麗奈が立っている場所まで続いていた。
大きなその川から爽やかで心地の良い風が吹きあげてくる。久しぶりに感じるその風に麗奈はしばらくの間そのゆっくり流れる時間を楽しんだ。
…さて、今度はどっちに進むべきなんだろう?
風の爽やかな心地よさと白百合の群生に目を奪われていた彼女はしばらくして我に返り悩んだ。
…右に行くのがいいのか左の方が正しいのか。
右の道も左の道も真っ直ぐと続いていて前方に何があるのかはまったくわからない状態だった。
いい加減もう歩き続ける事に嫌気がさしてきたのか彼女は目の前に向かって大きく叫んだ
「もうわかんないわよ。神様がいたら教えてよー」
麗奈の声だけが響いて反響している。もちろん誰からの返事もない。
「もぉー、神様の意地悪!」
勝手に神様にお願いし八つ当たりをする麗奈。
「…あ?」
神様に願いが通じたのだろうか、…ここに来てようやく自分に何があったのかを思いだした。麗奈はその場に座り歩くのをやめた。
「……私、そういえばお腹を刺されたんだった」
慌てて羽織っていたコートの中を覗く麗奈、お腹のあたりを触ってみたが刺し傷もなく血がでている感じでもなかった。
「あれ?…………」
目の前を流れる川を見つめ少し無言になる麗奈。
「…そっか、私死んじゃったのか。」
「…昌幸、大丈夫だったのかなぁ…。」
あの夜、学園で昌幸に偶然出会い抱き合った事。そして、自分が刺された後も最後まで彼が内包して抱きしめてくれていた事の記憶が鮮明に蘇ってきた。
「…昌幸に会いたいなぁ」
自分が死んでしまったのだと思ったら急に寂しくなり麗奈はボソッと呟いた。
彼女の頬に一粒、また一粒と涙が流れ落ちてゆく。
「まさゆき、まさゆき」
流れる涙をそっと手で拭う。
……もう会えないんだろうなぁ
突然と襲ってきた寂しさと空しさ悔しで耐えきれなくなってきた彼女は、目の前を静かに流れる大きな川を再度見つめた…。
…たぶんあれが三途の川なのかな
…随分と私のイメージとは違ってるけど。
太陽の光が水面に反射し、まるで鏡の様に輝くその川が死への境界線だとは誰も思わないだろう。
…だとするとどこかに向こう岸に渡る為の橋か、舟があるのかしら?
その時だった。右の方角からとても懐かし場違いな音が聞こえてきたのは…麗奈は音のする方向を振り向く。音は徐々にこちらに近づきそして姿を現した。それは麗奈にとって見慣れた白いベンツだった。
「重雄!」
麗奈は驚きと喜びで大声をだしたがベンツは彼女の横を通り過ぎ走り去っていく。
「ちょっとぉ、待ってよ重雄。私を迎えにきたんじゃないの?」
これには麗奈も唖然とした、死に別れた昔の彼が同じく不遇の事故で死んでしまった彼女を迎えに来たとものだ当然思っていたのに、完全に素通りされ無視された事にイラついた。
…あれは、別の人?…そんな事は絶対ないあれは間違いなく重雄のベンツだ
麗奈は遠ざかっていくそのベンツを走って追いかけた。
「待ってよ、どこに行くのよ。私も乗せて頂戴よ」
彼女は大声で叫び続けるがベンツはどんどん遠ざかっていく。
「停まってよ、重雄」
全然、止まる気配がない。走り続けていた彼女の息が徐々に上がってくる。
「はぁ、はぁ。もう、どうして停まってくれないのよ?」
困惑する麗奈…。
「……!もしかして重雄、昌幸の事怒ってるの?あれはね、ごめんなさい私も少し気の迷いがあって…」
自分が浮気した事を怒ってるのではと思い謝ってみたものの、もうベンツはほとんど見えなくなっていた。気のせいか今の麗奈の言葉を聞いて車の速度が余計に早くなったような気がする。
「もう!大人なんだからそれぐらいは許せる心を持っててもいいじゃないの。重雄のばかー」
完全に見えなくなってしまったベンツに向かって麗奈は叫び走るのをやめた。
「バカ、バカ。甲斐性なし…もう絶対に許してやんないから重雄なんか」
走り疲れ息も上がっていた彼女はゆっくりと歩みを進めた。堤防の下の景色はさっきの場所と何も変わっていない。
…どこなのかしら、ここ?
重雄のベンツを追いかけて無我夢中で走ってきてしまったが本当にこっちの道であってたんだろうか?何にも変わらない景色に少しばかり不安を麗奈は感じはじめた。
そんな気持ちでまたゆっくりと歩き始めていると急に強い風が吹き荒れ始め、さっきまで太陽が出ていた景色が一変する。
…何も見えないじゃないの
白い霧が行手を遮り1メートル先もまともに見えない。麗奈は霧が晴れるのを待つしかなかった。
どのくらいの時間が経ったの正確にはわからないけど、たぶん5分はたってないだろう。真っ白だった霧が晴れると、それは忽然と麗奈の前に現れた。
…何これ、こんなものさっきまでなかったはずよ。
アーチのかかった赤色の大きな橋が目に飛び込んできた。向こう岸が霞んで見えているがどうやらあちら側まで繋がっているこの橋を渡っていけば到着できそうだ。麗奈は迷わずその橋を渡り始めていた。
…もう、これでみんなとは本当にお別れか、私が死んで誰か真剣に泣いてくれるのかしら。
…昌幸と風香だけは泣いてくれるかなたぶん
…二人だけでもそんな人がいてくれれば私はそれだけで幸せかな。
麗奈はゆっくりと確実に向こう岸へと向かっていく。橋の上はときおり強い風が吹き彼女の髪の毛をなびかせていた……。
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