動き始めた時間
その夜、昌幸がマンションへ戻って来たのは、もう午前0時を回っていた。
「ただいま…」
恐る恐る玄関から覗くと、部屋は真っ暗に静まりかえっている。
「何だ……。誰もいないのか」
彩花と風香はもう寝たのだろう。妙だな。風香はともかく彩花が先に寝たとも思えないのだが、やっぱりよほど怒っているんだろうか…。
「…彩花、おーい」
暗がりへ小さな声をかけて靴を脱ぎかけたとき、いきなり後ろから呼ばれた。
「ゆっくん、おかえり」
彩花だった。慌てて身体を身構えようとして、脱ぎかけた靴に足がひかかってひっくり返ってしまった。
『なにもしないわよ』
彩花は特に怒っているようすでもないが、それが昌幸には逆に怖かった。
『少しお話しましょうか。ゆっくん。』
「はい…。」
なんだか、旦那(昌幸)と愛人(麗奈)の浮気を目撃した嫁(彩花)にこれから鉄拳制裁されるシチュエーションが頭の中を巡っている。
昌幸は覚悟を決めて部屋へと上がった。キッチンの明かりをつけると彩花がコーヒーメーカーからコーヒーを取り出しカップに注いだ。
『はいどうぞ、外は寒かったでしょう』
「寒かったけど今日はまだ暖かいほうかな」
『今年は暖冬ってニュースで言ってたものね、雪も全然降らないし。』
「俺は雪が降らないおかげで助かってるけどな」
『でも残念、さっき風香と天気予報見てたら来週から降るってお姉さんが言ってたよ』
「やっぱり今年も降るのか、暖冬とか言ってもこの辺りって絶対毎年1回は降るよな雪。」
『そうよね。でも私は雪が好きだけどね。降ってるのを見てると神秘的な感じがしない?』
「神秘的か…やっぱり彩花はそう言うところ可憐で可愛いな」
『褒めても何もでないわよ。』
ーー素直な気持ちを述べただけなんだけどな…。
『ねぇ、…ベランダにでましょうか。隣の部屋で風香が寝てるから』
ーーまるで夫婦だな、彩花が嫁に見える…
「わかった」
昌幸は彩花に従った。
ベランダに出ると外は思いの他寒くなかった。夜空には星がその輝きを誇示している。
ーー冬の夜空はやっぱりいい
そんな事を思っている昌幸に彩花が同調した。
『わあー星が綺麗、やっぱり冬の空はいいよね。星が澄んで見えるから』
ーー何だろう、彩花は俺の心が読めるのだろうか?
「そうだな、この辺りはまだ高い建物もないから余計に綺麗に見えるな」
………。お互いに無言になってしまった。気まずい時間だけが流れる…。
何分経っただろうか?最初にこの流れを止めたのは彩花だった
『ゆっくんあのね、どう言えばいいか分からないけど、私の事はあまり気にしなくていいからね。どうせ私は幽霊、ゆっくんは私に触れる事は出来ない。今、こうして話ができているのがすでに奇跡に近い事だから』
「どうしたんだ、いつもの彩花らしくない」
隣にいる彩花を心配になり覗いてみるが彼女は意外にも普通だった。声のトーンは低いが。
『悩ませたくないの、好きな…ひ』
「何を悩ませたくないの?好きなって何が?」
『…やっぱりいい』
「そこまで言ったんなら話してくれよ」
『…いや』
「すっごい気になるけど」
『…だめ』
「話が進まないけど」
『ああもう、うるさいなぁ。それじゃあ言うよ。ゆっくんも私がいるおかげで性処理に困ってるでしょう!私じゃ裸みせる事はしてあげられるけど、その後の事はしてあげられないから。だけど麗奈だったらそれが出来るし、あの子だったらゆっくんも全然問題ないでしょ。』
「だからって…」
『ゆっくんだって男だからセックスしたいに決まってる。相手が麗奈だったら尚更よ。美人で綺麗、スタイルよくて胸もある。おまけに若くてエロイんだから、躾けたらきっと何でも言う事聞くよ、こんな好物件な女の子なんて他にいないでしょ』
ーー確かにそうなんだけどな…言い過ぎだろ彩花
「さっきも思ったけど彩花、本当にお前麗奈の親友だったのか?褒めてるのかけなしてるのか分からないぞそれ」
『大親友よだから、だから、だからだよ。麗奈の性格を知ってるから。本当は嫌、絶対嫌なんだよ、でも私じゃ何も出来ないの。だったらせめて好きな人が1番幸せになれるのにはどうすればって、だったら麗奈が1番安心してまかせられるって。』
彩花は泣きながら風香の寝ている部屋に引きこもってしまった。昌幸は追いかけようとしたが、
さすがに教え子が無防備で寝ている部屋に入るのはまずいだろと思い中には入らなかった…。
リビングのソファーに座りしばらくぼっとしていた
ーーそういえば、彩花の話には麗奈の意思は含まれてないんだな彼女には拒否権がないのか
うとうとしながら考えていた為、昌幸はそのままソファーで横になってしまった。
ーーーーーーーーーー
昨夜はあまり寝付けなかったせいもあり彼女が目を覚した時には、時計の針は午前6時を過ぎていた。
大友麗奈は部屋の明かりをつけ窓のカーテンを開けた。辺りはまだ真っ暗だった冬の夜明けは遅く日の出までにはあともう少しほどかかりそうだ。
麗奈が自宅から学園の建物を見渡すと理事長室から明かりが外へと漏れていた
ーー今日は重雄早いのね
いつもならこの時間に理事長室の照明は消えている
ーー私が早く行って労ってあげようかな
麗奈はしばらく明かりのついた部屋を見続けた
ーーそれと……ごめんね重雄、私ちょっとだけ自分の気持ちを確かめておきたいの
ーーだから、今日と明日だけは私あなたの物じゃなくなるけど我慢してね
ーー結婚の話はその後にゆっくり考えるから…許してね
窓の外を眺めていた麗奈はすぐに昨夜の昌幸との出来事を思い出し顔を綻ばせていたが、しばらくして部屋が冷え切っているのに気づきエアコンをつけて慌てて朝の身支度を始めた。
ーーーーーーーーーー
部屋の中は真っ暗で何も見えなかった。水嶋はその中手探りで部屋のスイッチを入れる。目の前に視界がひらけて彼はようやく安堵の表情をもらした。
理事長室に設置した古風な時計が午前5時をあと10分ほどで知らせようとしていた。
水嶋は自分の机に向かい書類の整理をしていた。整理と言って目を通して印鑑を押すだけの作業なのでこんなに朝早くから学園に来る必要などなかった。ただ単に寝られなかったのだ…。
彼女、島村華奈のおかげで…。
1時間ほど前まで、水嶋は華奈の隣で寝ていた同じベッドで。結局、あの後華奈に押し切られる形で彼女が指定した県内のラブホテルへ連れられ関係を持ってしまった。
華奈は麗奈ほどスレンダーで美人ではない。ただそれは麗奈が飛び抜けているだけの話で彼女もやっぱり可愛いくて綺麗だった…。
女慣れなどしてない水嶋にとって島村華奈はかなり衝撃的な女の子だった。初めはまったく乗り気でなかった水嶋だったが大人の男に抱かれ慣れた華奈の体、技術の全てにあっという間に飲み込まれた。それは麗奈と比べて歴然の差があり、何もかもが新鮮な水嶋は華奈の体に溺れ、むしゃぶりついた。華奈からは別れ際にこう言われた「理事長そんなに私の体が気に行ったんですか?だったらしばらく私が愛人になってあげましょうか。あれだけのお金をもらってるから私も売る必要無くなったし麗奈には内緒にしておくのでどうです?」水嶋は否定も肯定もせず黙っていただけだった。「もしあれだったら学園内で私に声かけてもらえばいいですよ。約束はしっかり守ります、時間と日程だけ理事長が決めてもらえばフリーにしておくんで。」
華奈はそれだけ言うと軽く水嶋の唇にキスをして彼女が指定したインターネットカフェに入店して行った。華奈はそこで時間を潰して制服に着替えてから学園に来るらしい、制服はホテルに向かう前に駅のロッカーから華奈が取ってきていた。
水嶋は煙草に火をつけ一息ついた、目の前には吐いた息が白く漂っている。
ーーしかし、華奈君も一睡もしてないのに元気だな
一服して1番最初に浮かび上がったのが島村華奈だった事に罪悪感を覚えた水嶋は煙草を灰皿に押し付け椅子を立ち窓に近寄った。
まだ外は真っ暗だが水嶋は麗奈の家がある方を眺めていた。
ーー麗奈は無事に帰ったのだろうか。昨日は彼女に悪いことをした気がする
ーー今日、朝会ったら何か欲しい物を買ってあげよう
と水嶋は考えていたのだがその想いはもう麗奈に伝わる事はなかった…。
外を眺めていた水嶋の腰の辺りに何か鋭い痛みがはしる。手で腰を押さえ振り向いた水嶋にはその後の記憶はなかった。
静かになったその部屋に壁掛けてある古風な時計だけが振り子と共に5時を知らせていた。
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