Int.03:飛べる空、飛びたい空

「――――風見」

 一週間後に控えた淡路奪還作戦の概要を通達されてから数時間後。基地の片隅にぼうっと座り込んで玲二が独り黄昏れていれば。玲二の頭の上に差した大きな人影から、聞き慣れた低く渋い声音が彼へと降り注いだ。

「少佐」

 影の差した方に振り向き仰ぐと、傍に立っていたのは飛行隊長の津雲真少佐だった。差し込む強い日差しで焦げ茶の短髪の色を更に刻していて、「よう」と手振りでラフな挨拶をする、皺の刻まれた顔には、何処か不敵にも思えるようなニヤッとした笑みを湛えている。

「考え事かあ? 風見よ」

「……あんな話を聞かされた後ですからね。考えたくもなりますよ」

「だろうな」

 頷きながら、津雲は玲二のすぐ横へ同じように腰を落とした。コンクリートの地面に構うことなく尻を付け、二人並んで格納庫のトタンっぽいような外壁にもたれ掛かる。

 二人が背中にした格納庫、その壁の向こう側では、彼ら第307飛行隊≪レイピア≫に与えられた四機のF-16JA戦闘機が今も翼を休めていることだろう。先日出撃した風見と美希の機体も、既にアラートハンガーからこちらに移され整備が行われている。

「こんな時代だ、いつかこういうことだって起きる。決して不思議なことじゃない」

 手の中にある小振りな缶を傾けて、安っぽい珈琲を啜る津雲が言った。玲二の方には視線を向けず、頭上にある青々とした蒼穹そらを仰ぐ眼で。

 そんな津雲の言葉から、何処かただならぬ重みを玲二は感じ取っていた。それもそのはずだと思う。四十を超える歳な津雲は、この307飛行隊に宛がわれた機体がF-16Jに更新されるより以前、古いF-4戦闘機が飛行隊の戦闘機だった頃からのベテラン・パイロットなのだ。常に戦時下とも云える今の時代、自然とその実戦経験も馬鹿に出来なくなってくる。津雲の言葉に異様なまでの重さが伴っているのも、その為だろう。

 そんな津雲のTACネームは"サイファー"。英語にすれば暗号、ヒンドゥー語ならば零を意味する言葉だ。きっとその言葉に大した意味は無いのだろうと、飛行隊の誰もが思う。何せ語感が良く、何処か格好良くも聞こえるTACネームなんてのは、津雲のようなベテランの飛行隊長の特権のようなものだからだ。きっとその名前は、間違いなく津雲の趣味だろうと玲二は思っていた。

「少佐は、確か関門海峡の戦いにも」

「ああ」玲二の言葉に、津雲は頷いた。「懐かしいな、もう二十年ぐらい前か?」

 関門海峡の戦い、第十六次瀬戸内海防衛戦に於ける最大の戦闘だ。もう随分と前の話になってしまったが、しかし陸軍T.A.M.S部隊のとあるスーパー・エースの活躍と逸話もあって、未だに語り草になっている伝説の戦いでもあった。

 玲二は、次の戦闘がその伝説の一戦に匹敵する規模になると踏んでいた。だからこそ、前にあの戦いを経験したと言っていた津雲に、ふと訊いてみたくなったのだ。

 こんなことを訊くだなんて、自分でもおかしいことだと思う。しかしそれでも、玲二は何故だか訊きたくなったのだ。緊張しているのかもしれない、未だ嘗て経験したことのない規模の作戦に。先達の経験を訊くことで、自分は何処かで安心したいのかもとすら思う。

「心配することはないぜ、風見。俺たちは空を飛んでる限り、滅多に死ぬようなことはない」

 津雲はニッと人懐っこいような笑みを向けてくれながら、玲二を安堵させるように、諭すように彼へと言った。そしてそれは、玲二とて認識している確かな事実でもあった。

 ――――幻魔に対し、制空権という概念は存在しない。

 奴らには、空を飛ぶ種族は存在しないのだ。今までの四十年あまりの戦いでアーチャーβやγのような亜種、新種が出現する機会は度々訪れたものの、それでも空を飛ぶ種族が現れたことは一度としてないのだ。

 つまり、人類は幻魔に対し、常に航空優勢を取った状況で戦い続けられてきたということだ。四十年以上もこうして戦えているのは、きっとそういう理由もあってのことだろう。もしこれで空を飛ぶ敵が最初から現れていたとしたら、人類はとうの昔にこの地球上から消え去っている。

 そういう意味で、玲二たち飛空士は特に生存率の高い職種だった。補給なんかの後方職種を除けば、最前線に出張る中で一番生存率は高いかもしれない。更に高空での戦いが多くなるF-16戦闘機ともなれば、尚更のことだった。低空での近接航空支援(CAS)が多いA-10D攻撃機と違い、撃墜されることは殆ど無いと云っても良い。変な話、陸軍の歩兵や戦車部隊、T.A.M.Sなんかとは比べものにならないほどだ。

 …………それでも、玲二は何処か不安だった。

 不安な理由わけは、死ぬとか生きるとかそういう類の不安じゃあなかった。飛空士になった時から、果ては基地の滑走路から飛び立った時点で、もう二度と此処に還って来られない覚悟は、空の藻屑と消える覚悟は出来ている。

 玲二の抱く不安はそういうモノじゃなく、もっと漠然としていて……。とにかく、玲二自身にも分からないほどにぼんやりとした不安だった。

「……風見。俺は昔、例の関門海峡で死にかけてるんだ」

 そんな不安に玲二が俯いていれば、ふとした時に津雲はそんなことを口にし始めていた。

「乗ってたF-4EJ改ファントムが、運悪く直撃を喰らってな。右の主翼がもげて、燃料にも引火して。俺は危ういところでベイルアウトして助かったんだが、後席の奴は降りてすぐ、幻魔に喰われちまった」

 玲二はそれを、津雲の語る昔話に黙って聞き耳を立てていた。

「俺も喰われる寸前だった。でもな、運良く俺は助けられたんだ」

「助けられた?」

「ああ」ニッとしながら津雲が頷く。「白いTAMSだった。JS-9だっけか? あの時の最新鋭機だよ」

「関門海峡の戦いで、白いJS-9に……?」

 二十数年前、第十六次瀬戸内海防衛戦、関門海峡の戦い。脱出し地上に降りた津雲と、それを助けたJS-9≪叢雲≫……。

 玲二の中で点と点同士が線で結ばれそうになった時、津雲は「きっと、風見の思ってる通りだ」と、まるで玲二の心を読んだかのようなことを言う。

「…………俺は、死神に助けられたんだ。関門海峡の、白い死神に」

 遠い昔を思い返しながら、頭上の蒼穹そらを仰ぎながらで言葉を紡ぎ出す津雲の横顔は、本当に遠くを眺めていて。その視線はきっと、此処じゃない何処かを捜していた。

「噂には聞いたことがあります」と、玲二が言う。「陸軍の西條少佐、関門海峡の白い死神……」

 その言葉に、津雲は「そうだ」と頷き肯定した。

「俺は昔、あの死神に助けられたんだ。一歩間違えれば、俺も相棒と一緒に喰われてたところをな。

 …………俺が言いたいのはな、風見。ヒトは何処で生きて、何処で死ぬかなんて分かんねえってことだよ」

「…………」

「たった数秒の違いで、相棒は喰われて死んで。でも俺はあの死神に助けられて、今もこうして生きてる。今だってお前の横に、ここにいて。それで……幸せなことに、この歳になってもまだ空を飛ばせて貰ってる。大好きな空の中を、まだお前たちと飛んでいられているんだ。

 ……結局のところよ、風見。人間なんてのはいつ死んでもおかしくないんだ。ましてこんなご時世、こんな仕事に就いてたら、余計にさ」

 そう言う津雲の言葉は、やはり強い重みを伴って玲二の胸に突き刺さる。この狂った時代に於ける、どうしようもないほどに軽くなってしまった生命いのちの価値。それを問いかけているかのように、玲二の耳には聞こえてしまっていた。

「だから、大事なのはどう生きたか。そして、今をどう生きるかだ」

「今を、どう生きるか……?」

「今を精いっぱい生きろ、風見。今、お前が飛びたい空を精いっぱい飛んでみせろ。死んじまった後のことなんて、そうなってから、あっち・・・で好きなだけ考えれば良いさ」

 津雲は諭すようにそう言うと、よっこいしょと爺臭く立ち上がり。そうして玲二に背中を向けると、後ろ手に振りながらさっさと歩き去って行ってしまった。言いたいことだけを好き放題に言って、結局何がしたかったのかも玲二に知らせぬまま、津雲はさっさと揺れる陽炎の向こう側に消えていってしまった。

「俺の飛びたい空を、精いっぱいに飛ぶ、か…………」

 残された玲二の胸に残るのは、津雲が最後に残していったそんな言葉だった。

 その言葉の意味を考えながら、玲二はふと空を仰いだ。雲一つない、青々とした蒼穹そらの色を。もう十月も半ばだというのに、その真っ青なキャンバスの中では、未だに太陽が燦々と強い日差しを降り注がせていた。

 吹き込む風に、オールバック風に掻き上げて纏めた玲二の黒い髪がフッと軽く揺れる。甲高いターボファン・ジェットエンジンの嬌声が遠くに聞こえれば、丁度F-16J戦闘機が滑走路から飛び立つところだった。

 玲二の見上げる空に、数条の白い飛行機雲が伸びていく。お前もこっちに来いと、その翼で飛びたい空を飛んでみろと、まるで玲二を誘うかのように。お前の飛びたいように飛んでみろと、地上で黄昏れる玲二に問いかけるように。煌めく銀翼が、蒼穹そらに白く真っ直ぐな軌跡を描いていた。

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