Int.39:深蒼の気配、忍び寄るのは甘美なる楽園の誘惑
「全く、あの女狐には骨が折れる」
走り出したトヨタ・センチュリーの後部座席。そこへ尊大な態度で座る倉本少将は、半分独り言みたいにそう毒づいていた。白髪の混ざったコールマン髭を蓄える顔は苛立ちに歪んでいて、そんな苛立ちを誤魔化そうと倉本は胸ポケットから葉巻を取り出す。
「――――ご苦労でしたね、倉本少将」
取り出した葉巻の先をシガー・カッターで軽く切り、それを口に咥えれば。そんな倉本の隣に座っていた若い男が、しかし高級将校である倉本に物怖じひとつしない態度と声音でそう言えば、シュッと火を付けたマッチ棒を倉本の咥える葉巻に近づけてくる。
「悪いな」
軽い礼を言いながら、倉本は火の相伴に
「して、少将。西條少佐の反応はどうでした?」
「今は"元"少佐だ。――――相変わらずの目付きだ、何も変わっちゃいない。だから、心底気に入らないのだがね」
葉巻を吹かしながら、隣の蒼い髪の男の問いに倉本は心の底から苛立ったような顔を浮かべて毒づく。すると隣の男はフッと小さく笑い、
「少将相手に物怖じしないとは、やはりあの人らしい。変わってませんね、昔から何ひとつ」
「変わらんよ、あの女狐は。強いて言うなら、小皺が多少増えたぐらいだ」
「……今の言葉、決して少佐の前で言わないことをオススメしますよ?」
「何故だ、マスター・エイジ」
マスター・エイジ――――。
そう呼ばれた深蒼の長髪の男はフッと小さく口角を緩ませ、「決まってるじゃありませんか」と言えば、
「女性に向かってその話題は禁句です。まして、相手があの死神ともあれば」
皮肉めいた笑みを浮かべてそう言えば、横目に這わせた双眸が倉本の横顔を捉えて放さない。
そんなマスター・エイジの向けてくる視線、その奥に見える瞳の色は、全くと言っていいほどに底が見えず。深すぎる闇を湛えたその瞳を見ていると、まるで暗い深淵を覗き込んでいるような気分になってしまい、気付けば倉本は本能的にマスター・エイジから目を逸らしていた。
すると、マスター・エイジは「ふっ」と小さく笑みを浮かべて視線を倉本から逸らし、
「そういえば、綾崎重三の娘の件、アレはどうなりました?」
「……私は直接絡んでいるわけでないから、又聞きになるが」
倉本はそう言って、苦々しい顔でマスター・エイジの問いかけに答え、話を切り出した。
「既に二度ほど暗殺部隊を送り込んでいるが、そのすべからくが消息を絶っている」
「ええ、それは存じておりますとも」
マスター・エイジはニコッと、一見人当たりの良いようにも見える笑みを浮かべてそう言う。
「確か、最初の一回は忍者部隊を送り込んだんでしたよね?」
「うむ」頷き、肯定する倉本。「裏であぶれていた没落一門だ。腕は確かな連中だった。高い金を払ったというのに……」
しかし、マスター・エイジは「金の問題ではありません」と、微笑んだままで小さく首を横に振る。
「問題は、その腕の立つ忍者部隊が消息を絶った――――まあ、全滅したということにあります」
「どういうことだね、マスター・エイジ」
「簡単なことです」フレーム・レスの伊達眼鏡を掛ける顔の前で人差し指を立ててみせながら、尚も笑みを浮かべ続けるマスター・エイジが言葉を続ける。
「それだけ、綾崎重三の娘には、強力な護衛役が傍に付いているということですね」
「護衛役?」
疑問符を浮かべた倉本の言葉に、「ええ」とマスター・エイジは微笑んだままで頷く。
「あくまで噂と憶測での話ですが、綾崎家には庭番役として忍びの者を飼っているという話があります」
「……まさか、その庭番役が?」
可能性としては高いですね、とマスター・エイジは、目を丸くした倉本の言葉を肯定した。
「保守派、しかも我々
「……!」
すると、倉本は何かを悟ったのか。一瞬驚いたような顔を浮かべると、「まさか……宗賀の者か!?」とあからさまな狼狽を葉巻を咥える顔に浮かび上げる。
「宗賀衆の者が、綾崎の庭番役と決まったワケではありません。あくまでも、これは僕らの憶測に過ぎませんから」
しかし、マスター・エイジの反応は実に冷静で。穏便な声音で諭されるように言われれば、倉本は否が応にでも落ち着きを取り戻すしかない。
「何にせよ、厄介なのは間違いありません。確か二度目は、交渉役を送り込んだそうですね?」
「う、うむ」未だに戸惑いながら、倉本は頷いた。
「しかし、その交渉役も消息を絶っている、と……。そうなれば、重三の娘を、瀬那を懐柔し、こちらに引き込むプランは失敗したと見て間違いありませんね」
「……マスター・エイジ、幾ら貴方のプランといえ、アレは無茶すぎる。綾崎の血族であることを思えば、失敗することは明らかだった」
苦い顔でそう言う倉本だったが、しかしマスター・エイジの方は「ええ、失敗も織り込み済みでしたよ?」と至極にこやかな顔で、さも当然のような態度で言葉を返してくる。
「あくまで、成功すれば御の字程度なプランでしたからね。かといって、暗殺は乱暴すぎますから、これからは極力控えた方が
「しかし、次の暗殺部隊は既に動き始めている。マスター・エイジ、幾ら貴方に言われたところで、今更中止は出来ない」
「ええ、分かっています。その暗殺が成功すれば僥倖、ぐらいにしておいて。まあ捨て駒程度に思っておくことですね、今回の暗殺部隊は」
「ううむ……」
難しい顔をして唸る倉本に、しかしマスター・エイジはニコニコと笑みを絶やさないままで彼の方に振り向く。
「これ以上無駄な暗殺部隊を送り込んでも、いたずらに戦力と金を浪費するだけです。瀬那の暗殺に関しては、一度ここ辺りで控えた方が宜しいかと」
「……しかし、奴の戦死は積極的に狙っていく。これは私の権限でも出来ることだ。その為に、わざわざあの女狐の所まで出向いてお膳立てをしたのだ」
「構いませんよ?」ニコニコとしながら、マスター・エイジは苦い色な倉本の言葉を二つ返事で了承する。
「僕は僕で、別のプランを進めさせて貰います。恐らく瀬那には、ひいては綾崎財閥にとって最も効果的なプランになると思いますが」
「だが、こちらの計画は止めぬぞ、マスター」
「ええ、倉本少将は少将で、貴方の計画を進めていてください。どうぞご自由に、貴方の思う通りにして頂いて結構です」
それが、我らのエルダーの、ひいては
ニコニコと人当たりの良い、しかしその不気味な微笑みを浮かべながら、マスター・エイジはそう宣言した。
「何なら、こちらからナイト、或いはパラディンの位にある腕利きを派遣しますが?」
「要らぬ世話だ、マスター・エイジ」
マスター・エイジの提案を一蹴し、倉本は疲れたように紫煙を大きく口から吐き出す。
「ふふ……」
そんな倉本の横で、マスター・エイジはドアの窓枠に頬杖を突きながら、サイド・ウィンドウの向こう側で流れる景色を眺めつつ、小さく不敵な笑みを浮かべていた。
「さあ、瀬那? 君は一体、この僕の前でどんな踊りを見せてくれるのかな…………?」
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