Int.40:夏影、待望の刻は近くて遠くに

 見送ったあのセンチュリーの車内でそんな不穏なやり取りが為されていたとはいざ知らず、一真と瀬那の二人はそれからすぐに士官学校の校門を出て、この刺し殺すような日差しと熱気の中を歩いていた。行く先は、案の定というべきか東海道本線・桂川駅だ。

 雲ひとつ無い空はこんなにも清々しく澄んでいるというのに、降り注ぐ日差しは肌を焦がし、アスファルトの路面から容赦無く照り返す輻射熱は身体を駆け巡る真っ赤な血を干からびさせんほどの勢いで沸騰させてくる。しかも盆地という立地だけあって強烈な湿気までオマケに付いてくるものだから、この暑さは有り体に言っても地獄の釜の中のようだ。

 そんな情け容赦の一切無い真夏の日向を延々と歩いていれば、息は自然と荒くなり、汗はじっとりと滲み出る。そうやってやっとこさ桂川駅に辿り着いた二人は冷房の効いた駅の構内に入るなり、思わず二人揃って「ふぅ」なんて息をつけば、切符を買うのも忘れて適当なベンチに腰掛けてしまう。

「あー……生き返る……」

「文明の利器というものの素晴らしさ、身に染みることであるな……」

 わざわざ天井に埋め込まれた冷房から吹き出る冷気が直撃するような位置に陣取り、一真と瀬那の二人がぼーっと天井を仰ぎながら涼む。冷媒で強烈に冷やされた冷気が顔に身体に吹き付けば、肌にじっとりと纏わり付いていた汗と熱気の不快感も、少しぐらいは和らいでくる。

「ったく、京都の夏がこんなに暑いなんてな……」

 そんなことをひとりごちながら、一真はジーンズの尻ポケットから引っ張り出したハンカチで額や首の汗を拭う。

「……あ」

 纏わり付いていた汗をハンカチに吸わせ、何気なしにそれへと視線を落としてみれば。今更気付いたが、今一真が持っているそのハンカチは前にエマから借りっぱなしだった物だった。

 あの後そのまま持って帰り、後日返そうと洗ったっきりすっかり忘れていた物だ。何の気無しに引ったくって尻のポケットに入れて持ってきたが、まさかそれが失念していた彼女の物だとは…………。

「む?」

 そうしていれば、そんな一真の様子が気になったのか、軽く首を傾げながら瀬那が横目を流してくる。勿論、その視線が向かう先は、一真が手に持つエマのハンカチだ。

「あー……っと、これはだな」

 今自分が手に持つそれは明らかに女物で、とても己のような粗暴で大雑把な男が持つような代物には見えない。

 だから、どう言い訳というか釈明をしたものかと、そんな風に一真が悩んでいると。すると瀬那は「ふっ」と何故かおかしそうに小さく表情を綻ばせ、

「さては、エマから借りた物か」

 なんて、多少悪戯っぽくも見えるような顔をして、今度は横目で流す視線を一真の横顔に向けながら言ってくる。

「まあ……そんなところだ」

 こうなっては、もう言い逃れは不可能。自分でも何でか分からないままに瀬那に対して妙な負い目を感じつつ、バツが悪そうに視線を斜め上な方向へ流しながら一真が一応頷く。

 すると、瀬那はまた「ふふっ……」と小さく微笑んでみせれば、

「構わぬよ、私は気にせぬ」

 なんてことを、にこやかな笑顔をして言ってみせた。

「……しかし、多少の嫉妬心のようなものばかりは、覚えても仕方のないことではあるがな?」

「…………?」

 ふふっ、なんて小さく笑ってみせながら続けて言った瀬那の言葉の意図がよく分からず、一真は頭の上に疑問符を浮かべながら首を傾げる。だがまあ、別にどうこう言い訳をする必要もなさそうなので、とりあえずはホッとした。

「とはいえ、その辺りも含めて男子たる者の器量というわけだ。其方は其方の思う通りにするがよい」

「お、おう……?」

 一真の方を向きながら、何故か微笑みながら瀬那がそんなことを告げてくる。

 しかし、一真は相変わらず言葉の真意がどうにも掴めず。とはいえ反応しないのも彼女に対してアレなので、戸惑いつつもとりあえずそうやって頷いてみせた。

「……其方は、それでいのだ。それでこそ、この私が――――」

 続けて呟く、そんな瀬那の呟きがどうにも聞き取れず。首を傾げながら一真が「俺が、どうかしたか?」と問いかければ、しかし彼女は一瞬俯いていた顔をまた一真の方に向け。そうして再び笑みを浮かべると、「なんでもない、ただの些事だ」と瀬那は答えた。

「……? ま、瀬那がそう言うなら、別に良いけどよ」

 それよか、切符買っちまおうぜ切符――――。

 続けてそんなことを半分独り言のように言いながら、一真が立ち上がると。そうしてクルッと踵を返して今まで座っていたベンチの方に振り返ると、今まで背にしていた壁に貼ってあったとあるポスターに何故か一真は眼が留まってしまった。

「納涼……花火、大会?」

 そのポスターに書かれていた文字を何の気無しに口に出せば、瀬那も「む?」と言ってポスターの方に振り返る。

「なんか、お盆の時期にやるんだってさ。これ、士官学校からすぐ近くの寺じゃないか?」

「の、ようだな」

 じぃーっと眺める一真と、それに相槌を打つ瀬那。そんな二人の視線を釘付けにしているポスターには、確かにお盆の時期に花火大会を行うと書かれていた。

 花火大会といっても、近所の子供会とかでやるような、線香花火を持ち寄ってやる小さなものではなさそうだ。どうやら花火職人に造らせた本物の花火を打ち上げる本格的なものらしく、しかも祭りの当日は露店なんかがズラッと並ぶそうだ。

「本格的だな」

「そうなのか?」一真の呟きに、瀬那が首を傾げながら彼の方を見上げて訊いてくる。それに一真は「ん? ああ」と頷いて、

「花火も上がるし、盆踊りも屋台もある。縁日としちゃあ、これ以上無いぐらいに本格的じゃないか?」

 そう答えてやれば、瀬那は「ふむ……」と、何故か深い思案を巡らせるように唸る。

「もしかしなくても、瀬那は行ったことないか、こういう縁日みたいなのは」

「恥ずかしながら、な」

 瀬那はアッサリと認め、フッと半分自嘲するような笑みを小さく浮かべる。一真はそれに「家柄が家柄、しかも事情がアレだからな。無理もないさ」と言って、

「じゃあ、行ってみるか?」

 そう、瀬那の方を見下ろしながら提案してみた。

「これに、か?」

 目を丸くした瀬那の言葉に、ああ、と一真は頷く。すると瀬那は「左様か……!」と途端に嬉しそうな顔になり、

「其方が、連れて行ってくれるのだな!?」

「他に誰が瀬那を連れてけるってんだよ」

 眼をきらきらと輝かせた瀬那に苦笑いしながら一真が返すと、彼女は「そうか、そうであるか!」と、何故か腕組みをしながら独りで勝手にうんうんと激しく頷く。

「であるのならば、他の……エマやステラたちも誘おうではないか」

「アイツらを?」

「もしや、嫌であったか?」

「嫌ってワケじゃないさ」即答するように首を横に振り、一真は言葉を続けた。

「でも、意外だった」

「意外?」

「こういう展開って、大体俺が皆誘おうぜとか言い出して、瀬那の方が膨れるパターンだろ? だから、瀬那の方からそんな提案が飛んでくるのが、意外だったってだけさ」

「そ、そういうものなのか……?」

 戸惑い首を傾げる瀬那に、「いや、俺もヒトからの又聞きだけどさ」なんて苦笑いしながらフォローを入れつつ、一真は「じゃあ」と言って、

「なら、瀬那の言う通り誘うか。こういうのは、折角なら多い方が楽しい」

「うむ」瀬那が力強く頷く。「ふっ、い夏の予定が出来たというものだ」

「だな」

 一真も頷きながら、ベンチに座ったままで見上げてきていた瀬那にスッと手を差し出した。

「待ち遠しいな、この日が」

 そんなことを言いながら、差し出された一真の手を握り返した瀬那が、彼の腕に引っ張り上げられながらベンチより立ち上がる。

「何、別に遠いわけじゃない。すぐにやって来るさ」

 小さく笑みを浮かべながら、一真がそんな瀬那の一言に軽く言葉を返す。

 ――――そうだ、まだ夏は始まったばかり。夏はまだまだ長い。夏は、まだこれからなのだ。

 暑い日差しの中、遠くで鳴き喚く蝉の鳴き声が、二人以外に誰も居ない桂川駅の構内に遠く響いていた。

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