Int.38:不穏の気配、しかしてその足音は未だ彼らに聞こえることはなく
一方、そんなことがあったとは知る由も無く。訓練生寮・203号室では、一真と瀬那の二人が今まさに部屋を出ようと、玄関先で靴に足を通しているところだった。
「一真、戸締まりはどうか」
「問題なし」
「ガスの元栓」
「確認済みだ」
「忘れ物はあらぬな?」
「当然」
「体調は?」
「オールグリーン、いつでもいける」
「うむ、では参るとしよう」
そんな
「…………」
玄関扉の鍵を掛けながら、一真が瀬那にバレないように横目をチラリと配らせると。廊下の隅、丁度柱の陰に隠れるようにして、霧香がこちらを覗き込んでいるのが見えた。
「…………」
無言のままに、小さく頷き合う一真と霧香。瀬那には二人でと告げてあるが、彼女の身の安全を考慮し、今日はこうして影ながら霧香に付いて来て貰うことにしたのだ。無論、一真の頼みでだ。
今日の霧香の格好はこの間と打って変わり、格好は薄手ながら、背中に大きなリュックサックを背負った旅行者風の格好だ。ベースボールキャップみたいな帽子を目深に被り、出で立ちも出来る限り目立たぬような没個性的なものに留まっている。このクソ暑い時期に何故か長袖なのが気になるが、恐らくあの中にはこの間調達してきた例のトンファーが仕込まれているのだろう。
「む。一真、どうかしたのか?」
そんな一真の様子を怪訝に思ったのか、首を傾げながら瀬那にそう声を掛けられる。それに一真は「いや」と返しながら扉の鍵穴より鍵を抜き取り、そうしながら瀬那の方に向き直った。
「まさか、まだ寝ぼけておるとは言うまいな」
珍しく冗談っぽく、腕を組む格好で小さく微笑みながらそう言う瀬那の格好は、当然ながら私服のそれだった。
――――下が中程度のスカートに、膝上までの黒いオーヴァー・ニーソックスとちょっとしたブーツという格好は前とあまり印象が変わらないが、しかし上は袖の無い薄手の、襟首を大きく開けた黒いブラウス。そしてその上から、また薄手で半袖のジャケットを羽織るといった具合だ。
流石にこの夏場だけあって、前よりも涼しげな格好だ。ちなみに、スカートのベルト部分の左腰には相変わらず例の刀をぶら下げている。瀬那が刀を下げているのは毎日のことだから、もう一真にとっても自然すぎて、今更どうこうも思わない。
「寝ぼけてるっつーか、暑さで頭が茹だってそうだけどな」
冗談めいたことを言う瀬那に、一真も半笑いで冗談を返しながら、「んじゃま、行こうぜ」と言って先に歩き出す。
「うむ」
瀬那もそう頷いて、一真の後を追って歩き出す。
そうやって二人並んで歩きながら、一真は何気ないような仕草で一瞬後ろを振り返ってみたが、そこにはもう既に霧香の姿も気配も、まるで最初から無かったかのように影も形も無かった。
(流石は忍者、ってワケか)
普段があんな調子だからどうにも信じられない話ではあるが、しかしこの辺りはやはり霧香も本物の忍者ということなのだろう。流石に普段はあんなかなりアレな部類の奇人変人の類だとしても、腐ってもプロフェッショナル。やはり、締めるところはキッチリ締めるらしい。
(これなら安心だな、今日一日)
安堵するように小さく息をつきながら、一真は自然な素振りで前に視線を戻す。
とはいえ、油断は出来ない。霧香に頼りっきりじゃ駄目なことぐらい、一真自身が一番良く分かっていることだ。
(イザとなったら、覚悟決めるっきゃねえよな)
そう思いながら、右手は無意識にジーンズの右腰に触れてしまう。
一真が袖を肘上まで折り曲げた格好で羽織る、割と丈の長い黒のジャケット。その長すぎる裾と、更に覆い被さる白いTシャツの裾に隠れるようにして、そんな一真の右腰にはカイデックス樹脂のホルスターが差さっていた。
そこに収まるのは、グロック19自動拳銃。護身用と万が一の瀬那の護衛用にと西條から託された、9mm口径の優れたポリマー樹脂フレーム・オートマティック拳銃だ。
これが腰にあること自体が、一真の覚悟の現れのようなものだった。万が一の事態になれば、これを抜いて立ちはだかる敵を撃ち殺すという、覚悟。瀬那を護る為に、一切の容赦無く己の手で他人を殺すという、覚悟の現れだった。
この手が血に濡れるのは、まるで構わない。というか、そんな些事はどうだっていい。それよりも一真にとっては――――何が何でも、再び瀬那を生きて、傷ひとつ無しでここに帰してやることだけが、何よりも重要視すべきことだった。
(まあ、そんな事態が起こらないのが、一番ベストなんだけどな)
「……む?」
そんなことを思いながら、一真が小さく、自嘲めいた笑みを浮かべていると。隣を歩く瀬那がそれに気付いたのか、振り向かないままで横目の視線を一真に投げてくる。それに一真は「なんでもない」と言って、
「ちょっとした、思い出し笑いだ」
なんて風なことを言ってやれば、瀬那は「左様か」と小さく微笑みながら頷くのみで。それ以上のことを訊いてこようとはしなかった。
そんな具合で二人並んで訓練生寮を歩き、そして一階ロビーの戸を軽く開ければ、その途端に凄まじい湿気と物凄い熱気を孕んだ嫌な熱風が吹き込んでくる。
完全に戸を開けて、陽の下に出れば。刺し殺すような勢いで降り注ぐ強烈すぎる真夏の日差しに、この一瞬で一真は既に辟易しそうになった。遠くでやかましいぐらいに蝉が大合唱みたいに鳴き喚くせいで、余計に暑く感じてしまう。
「暑すぎるだろ、これ……」
「う、うむ……」
これには、流石の瀬那も眉をひそめる。例えるなら、不快指数充填120%といったところ。夏は暑いのが当然で、それが風情なのも分かってはいるが……。しかし、明らかにこの暑さは二人を焼き殺しにきていた。
「と、溶ける……」
そんな風にぼやきながら、しかし足取りだけはしっかりしつつ、一真は瀬那を連れて士官学校の出口に向けて歩き出す。
「ん?」
そして、少し歩いた頃だろうか。徴用校舎が見えてきて、何気なくそちらの方に視線を向けた一真は、そこに何やら見覚えのない車が停まっているのに気付いた。
「一真、どうかしたのか?」
「いや、瀬那あれ」
「む。……あれは」
視線だけで示してやると、瀬那もその車の方を不思議そうに眺める。
停まっていたのは、黒塗りの如何にもといった風な高級車だった。ナンバープレートから察するに、明らかに公用車。それも国防軍関係の公用車だ。車種は最高級のトヨタ・センチュリー。
そんなセンチュリーを眺めていると、校舎から陸軍の制服を着た将校らしき男が出てくる。そうすると運転席から運転手が降りてきて、白手袋なんて嵌めた運転手が恭しく後部座席のドアを開ける。
すると、「うむ」なんて頷いてその男は尊大な態度でセンチュリーの後部座席へと乗り込んでいった。バタン、と扉が閉まれば、運転手はいそいそと運転席に戻っていく。
「かなりの高級将校だな、アレ」
「で、あるな」立ち止まったまま、瀬那が隣で頷く。「低く見積もっても、将官クラスと見受ける」
「でも、そんなのが何でまた、こんな士官学校なんかに」
「それは分からぬ」
瀬那は即答するみたいにそう言うと、「大方、視察か何かではないか?」と続けて一真に言ってくる。
「そう、なのかなあ」
そんな風に肩を竦めていると、一真たちの視線の中。少し離れた遠くを、例のセンチュリーが校門の方に向けて走っていく。
「…………」
そのセンチュリーから漂う気配というか、雰囲気が妙に不快で。それでいて寒気のようなものも覚えてしまうものだから、一真は自分でも知らず知らずの内に渋い顔を浮かべていた。
「一真、
一真がそんな顔をしていると、横顔を覗き込みながら瀬那が心配そうにそう呼びかけてくる。恐らくは体調不良か何かを疑い、案じてくれているのだろう。
しかし、それに一真は「いや」と首を横に振る。そして、
「…………なんか、嫌な気配がしたからさ」
そう、過ぎ去っていったセンチュリーのテール・ランプを遠目に眺めながら、小さく呟いた。
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