Int.10:月下の二人、過ぎ去りし日々は既に遙か遠く④
「ふいー、満腹満腹」
「相変わらず、四ッ谷殿は一真にだけは馬鹿みたいな量を盛るのだな」
「全くだ、腹が爆発しそうだよ……」
「それを当然のように完食してしまう其方も、大概ではないか?」
「へへっ、違いない」
無事に夕飯を食べ終わり、食堂を出た二人はそんな他愛もないことを言い交わしながら、訓練生寮へ戻ろうと、士官学校の敷地内を割かしゆっくりとしたペースで歩いていた。
「……暑いな、もう夜だというのに」
「だな」一真は相槌を打ちつつ、フッと軽く笑みを浮かべる。
本当に、暑かった。もう夜も更けてきたというのに、昼間の蒸し風呂のような凄まじい暑さと湿気の残滓が未だに漂っている。吹き付けるそよ風に揺れる木々の葉音はこんなにも涼しげだというのに、肌に纏わり付くのはどうしようもない蒸れた暑さばかり。真夏だから仕方ないといえばそうなのだが、しかし辟易する気持ちは隠しきれない。
とはいえ、良いものでもあった。夏の夜というものは、ただ意味も無く歩いているだけでもそれなりの風情があるというものだ。そこら中で鳴き喚く虫の鳴き声に、漂い抜けていく生温い空気。光を求めて引き寄せられた夜行性の羽虫たちが群がる街灯のぼやっとした淡い明かりに視線を移してみれば、その更に頭上に見えるのは満月と、そして無数の星々が瞬く真夏の夜空。なるほど、どうしてこう、注意深く見てみれば風情があるらしい。
「もう、夏なのだな」
そんな真夏の夜、満月の浮かぶ漆黒の天蓋をぼうっと見上げながら歩く瀬那が、何の気無しにそんなことを呟いた。
「ああ」頷き、相槌を打つ一真。「早いもんだな、ホントに」
「こうして思えば、一年などあっという間に過ぎ去っていってしまうのやもしれぬな」
「ホント、今年は特に一日が早い。嫌になっちまうぜ、全く」
「私は、そうでもない」
そんなことを口走る、凛とした瀬那の横顔を横目に見ながら「そうか?」と一真が訊けば、瀬那は「うむ」と頷き、
「それだけ、意味のある日々を我らが送れている、ということだ」
「へえ……?」
「無為に過ごす一日というものは、嫌になるほど長すぎるものだ」
そう言う瀬那の言葉を、一真も痛いほどに理解出来ていた。同じ、似たような境遇――といっても、綾崎財閥と比べるのはあまりにもスケールが違いすぎるが。しかし瀬那とある程度似通った境遇で日々を過ごしてきた一真にとっては、そんな瀬那の口振りには痛いぐらいに共感できる節があった。
「――――私はな、一真。ここに来るまでは、其方たちと出逢うまでは。明日という日が来るのが、どうにも怖くて仕方がなかったのだ」
すると、瀬那は凛とした横顔のまま。しかしその声音にどことなく影色を織り交ぜながら呟いた。まるで、この黒に染め上がる夏夜の空に、吐露する己の胸中を霧散させていくかのように……。
「明日が、怖い……?」
「ああ」頷き、一真の問いに瀬那が肯定の意を示す。
「毎日、その日が終わるのが、どうしようもなく怖かったのだ。明日という日が、新しい一日が始まることに……どうしようもなく、私は怯えていた」
「……分かる気はする、それ」
そうやって一真が呟くと、瀬那は彼の方に振り向きながら「左様か?」と訊いてくる。
「なんて言ったらいいか分からないけど、具体的な理由があるワケじゃねーけど……。とにかく、今日が終わって明日が来るのが、どうしようもなく怖い。
――――そういう、ことだろ?」
「うむ、其方の申した通りだ」
うんうんと頷く仕草を見せる、そんな瀬那の横顔は――――何処か、嬉しげでもあった。
「だが、ここに来て、其方たちに出逢えて……。私は初めて、明日という日が怖くなくなったのだ」
「……俺もだ、瀬那」
フッと小さな笑みを浮かべながら一真が同意すると、瀬那は「左様か」と、彼女もまた口元を綻ばせながら言葉を返してくる。
「故に、私は一日が早く過ぎようが、構わぬのだ。いや、寧ろ早く明日が来て欲しいとすらも思ってしまう……」
「…………」
瀬那の紡ぐ言葉を、一真はそんな彼女の真横を歩きながら、ただ黙って聞いていた。無言のままに耳を傾けながら、チラリと横目で見た瀬那の横顔は――――実に、清々しい横顔だった。
「私がそう思えるようになったのも、全て其方のお陰だ。一真よ、改めて礼を言わせて欲しい」
「俺は、何もしてないさ」
「そんなことはない」フッと笑いながらやんわりと首を横に振った一真に、しかし瀬那はそう言う。
「ステラやエマ、美弥に白井……。あの者たちとも出逢えたからこそ、私は明日を迎えられるのだ。
―――――そんな
「俺が居なくても、瀬那はきっとそうなってた」
「いい加減、要らぬ謙遜は止すが
「…………そうか」
そんな瀬那に、一真は小さく頷くと。歩きながらふと、頭上を仰いでみた。
そこに浮かぶのは、星々の瞬く暗い天蓋の中に浮かぶのは、まん丸とした大きな満月。絶えぬ月明かりを降り注ぐその満月が、歩く二人の姿を見下ろしていた。
「明日、か……」
一真は何気なしに、そんな独り言を呟く。当たり前にやって来る明日が、明日という日が、何故だか無性に愛おしく感じてしまっていた……。
いずれはここを卒業し、自分たちは前線に送られる。いつ死ぬとも分からない日々の中、果たして今のように、自分は明日を愛おしく感じられるのだろうか……。
そんな先のこと、分かりはしない。だが――――そうであれば良いと、一真は思わざるを得なかった。そして願わくば、明日という日を、当たり前に迎えられる世界を、再び取り戻せるようにと…………。
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