Int.54:アイランド・クライシス/夏夜雨嵐、孤独な夜に影法師ふたつ④
「私の家が
最初の言葉をそんな風に切り出して、瀬那は独り、眠り続ける一真を地蔵代わりにして、そう言って話をし始めた。
「――――綾崎財閥。その名は、其方も知らぬはずがあるまい」
そう、知らないはずがない――――。現時点での日本に於いて政治・経済、その他諸々と文字通り中枢に食い込む一大財閥、綾崎財閥のことを。この国に於いてその名を一度として聞いたことのない人間といえば子供か、或いは余程の世間知らずぐらいには存在しない。それぐらいに巨大な財閥の名を、瀬那は口にしたのだ。
「私は綾崎が血族、その直系の子なのだ」
フッと自嘲めいた笑みを浮かべながら、瀬那はそんな衝撃的なことを、しかしさも当然のように言い放っていた。
綾崎一族の直系――――。即ち財閥の現当主にして、軍需産業やコンピュータ関連企業など数多の企業群を統括する綾崎グループの現会長・
「私は、その存在を出来うる限り隠されてきた。何故か? 理由は簡単だ。其方も良く存じておるはず」
――――そう、
「生まれ落ちたその
…………奴らは、邪魔なのだ。反・
「…………」
そんな瀬那の言葉に、寝息を立てる一真は答えない。答えるワケがない。
しかし、瀬那はそれを承知の上で話していた。聞いていなくても構わない、答えてくれなくても構わない。ただ……彼の横で、一度でいい。この話を、しておきたかっただけのことだった。
「故、私は私という存在を、極力公に晒さぬようにされてきた。殆ど表沙汰にはなっておらぬ故、其方らが気付かぬのも当然のことだった。……だから、私はここでだけは肩肘を張ることなく、単なる一人の人間として振る舞うことが出来た。それが……楽しく、嬉しかった」
途中途中で軽く水を口に含みながら、喉の渇きを潤しつつ。瀬那は独り、眠る彼に向けて話し続ける。遠く、降りしきる雨の音を聴きながら。
「あの家に居れば、きっと今でも安穏とした暮らしが送れていたのだろう。軍に入ることもなく、人並みの苦労もすることなく、何一つ不自由なく過ごせていたはずだ。
――――だがな一真、私はそれが、どうしようもなく嫌だったのだ」
おかしい話だとは思わぬか? 世の中には、戦うのが嫌で徴兵逃れする者だって、大勢居るはずなのに――――。
何処か自嘲じみた笑みを浮かべながら、瀬那は続けてそう言い。「ふぅ……」と小さく息をつくと、今一度水を口に含む。
「それ故、私は舞依に頼み込み、こうして此処に来た。そして、其方らと出逢うことが出来た…………。
故に私は、私自身の選択に後悔はない。例えこの身が朽ち果てようとも、構わぬ。あのまま血族の中で安穏とした、代わり映えのない日々を送るより、ずっと良い選択だと。私は今でも、胸を張って言える」
だがな、一真。私にはひとつだけ、負い目があるのだ――――。
「それは、其方たちにこれを話せぬことだ。私がどういう人間で、どういう出自で。どんな人生を送ってきたか……。それを話せぬのが、どうしようもなく辛いのだ。
私の人生の片鱗でも知れば、きっと其方らは畏れを抱くか、或いはまた別の反応か……。とにかく、今までとはまるで変わってしまうと思い、私は怖かったのだ」
だから、今まで話せなかった。話すわけにはいかなかった。自分はあくまで綾崎瀬那という一人の人間として、対等に接したいだけだったから――――。
「だが――――其方にだけは。一真にだけは、いずれ話そうと思っていた。其方は私が信頼するに足る男だと、そう思ったから。
…………尤も、こんな妙な形になってしまったがな」
また小さく笑みを浮かべながら、瀬那はそんなことを呟いた。そして、こう続ける。またいずれ、別の形にて其方にはこのことを話すと約束しよう、と。其方にだけは、これを知っていて欲しいのだと――――。
「――――ああ、これですっきりした。胸のつっかえが取れた気分だ」
すると、瀬那はふぅ、と息をつきながら、そんなことを口走った。そんな瀬那の顔は今までと違い、何処か清々しさも垣間見えるみたいに明るい色をしていた。
「済まぬな、一真。眠っておる身といえ、
そう言った瀬那が、自分も眠ろうと思い、一真の傍に座っていた格好から漸うと立ち上がろうとした――――そんな、時だった。
「…………俺も、同じさ」
低く呟く、男の声が。そんな一真の声が聞こえれば、瀬那は驚いて。立とうとしていたのも忘れて彼女が振り返れば、いつの間にか一真は寝息を立てておらず。閉じていた瞼は左眼だけが開いていて、彼の瞳は振り返った瀬那の顔をじっと見据えていた。
「起きて、おったのか」
「……悪いな、眼が覚めちまって」
何処かバツが悪そうに言いながら、しかし一真はその視線を彼女から逸らさない。真剣そのものな、しかし何処か眠気の残滓も孕んでいるような一真の瞳の色は、彼が瀬那の独り言を聞いてしまっていたことを、暗黙の内に瀬那へと教えてくれていた。
「……ふっ」
すると、瀬那は小さく笑みを浮かべて。そうすれば、「なら、余計に私は其方に詫びねばならない。済まぬな、長々とこんな話に付き合わせてしまって」と、彼の方に振り返りながら告げる。
「いいさ、そんなことは」
それに一真は寝転んだ格好のまま、左眼だけを開けたままで首を横に振る。
「なんとなく、そうなんだろうなとは見当付いてたさ」
「
目を丸くした瀬那が訊き返せば、「ああ」と一真は頷いた。
「綾崎といえば、俺の頭で真っ先に出てくるのは綾崎重工。俺たちの≪閃電≫や他の国産TAMSを造りまくってる、一大軍需産業だ。
――――そんなところを仕切ってる
ニッと不敵に笑いながら、瀬那の方に向けた視線を少しばかり冗談の色に染めた一真がそう言えば。瀬那もまた、フッと頬を緩ませてしまう。
「そうか……其方は、そうであったな」
「あたぼうよ」口角を緩ませながら、一真が言う。「マニア嘗めんなって話だ」
「――――俺もさ、瀬那に言えてなかったことがある」
すると、一真は突然顔色をシリアスな色に染めて。いきなり核心を突くようなことを言い出すと、瀬那の反応を待たずして言葉を紡ぎ始めた。
「俺の家も、瀬那と似たような感じだって前に言ったっけ」
「うむ」頷く瀬那。「前に、其方の口から聞き及んでおる」
「なら、話は早い。といっても、流石に綾崎財閥には遠く及ばないけどさ……」
「分かっておるよ、そんなことは最初から」
瀬那は小さく笑いながらそう言うと、しかしその笑みをすぐに霧散させ。その表情に影を落とすと、「……其方が言いたくないのであれば、構わぬ」と、一瞬だけ一真から視線を逸らしながら言った。
「いつ、誰が、言いたくないなんて言った?」
しかし、一真はすぐにそう言い返すと。未だに瀬那の掌が触れ続ける左手をくるりと器用に裏返し、己の掌で瀬那の掌を握り返してみせる。そして、
「俺が言いたいから、言うのさ。こんな時でもなけりゃあ、永遠に言う機会を失っちまいそうだ……」
再びニッと笑みを浮かべ直しながら、瀬那の顔を見上げ一真はそう言った。
「――――俺の家は、俺の家族は。本当の家族じゃない」
「っ……」
あまりに衝撃的なことを、あまりに当然のように軽く口調で言われてしまったものだから。瀬那は言葉を詰まらせたまま、何を言っていいものか分からなくなる。
すると一真はそれを察してか「良いよ、何も言わなくて。聞いてくれてるだけで、それでいい」と、そんな瀬那をフォローするようなことを付け加えれば、その後で続きを話し始めた。
「どうやら、俺は何処からか預けられた養子らしいんだ。ま、誰が本当の親なのか、幾ら聞いたって答えちゃくれなかったが……」
「……それが、其方が私に言っておきたかったこと、か?」
「まあな」にひひ、なんて妙な笑い方をしながら、茶化すように一真が頷く。
「俺としちゃあ、今更どうだっていいことだ。でも、瀬那にはこれ、言ってなかったからな。瀬那の事情に比べりゃあ、些細なことだとは思うが……」
「そっ、そんなことはないっ!」
突然血相を変えながら、瀬那は一真の方へ振り返り。必死の顔で一真の左手を両手で包み込むと、そんな彼の手をぎゅっと強く握り締める。
「些細などと……! 寧ろ私の方が、一真に比べればよっぽど些細な――――」
「――――ならさ、瀬那」
必死に言葉を紡ぎ出そうとしていた瀬那だったが、しかしその紡ぐ口をそんな一言で、そして視線だけで制すると、一真は言う。
「これで、おあいこってことで。それで構わないだろ?」
「し、しかし……」
戸惑う瀬那に、一真は両手で握られた左手で瀬那の手を軽く握り返しながら、至極落ち着いた顔と声で、諭すようにこう続ける。
「俺は瀬那の独り言聞いちまったし、瀬那も俺の隠してたこと聞いちまった。だから、これでお互い痛み分け。フィフティ・フィフティってことで、とりあえず貸し借りゼロって感じで良いんじゃないか?」
「ううむ……」
尚も苦い顔で唸る瀬那に、一真は「ったく……」と多少参ったように小さく肩を竦めると、「じゃあさ」と言いながら漸うと上半身を起こし始める。
「――――ほれ」
未だに自分の左手を握りっぱなしな瀬那の肩を、もう一方の空いた手で掴めば――――ひょいと、彼女の身体を横倒しに引き倒した。
「ほ、ほわぁっ!?」
そんな素っ頓狂な声を上げる瀬那を、しかし頭を打たないように配慮しつつゆっくりと一真は寝かせてやる。今まで一真が枕代わりにしていた雑嚢に頭を預けると、瀬那は「な、なんのつもりだ……!?」と、何故か顔を赤くしながらあたふたと一真に問いかけてきた。それに一真はフッと小さく笑えば、
「瀬那、寝れないんだろ?」
そう訊けば、瀬那は戸惑いながらも「う、うむ……」と頷き、それを認める。
「なら、今度は俺の番。――――俺が傍に居てやるから、今の内に寝ておきな」
「……しかし、其方は怪我人で…………」
「この程度のこと、怪我なんて言わないさ。それに、今はそんな野暮なこと抜きだ」
言いながら、一真は小さな笑みを浮かべて。そうして今まで握られていた左手を瀬那の方に伸ばすと、彼女の目元に掛かっていた前髪をそっと、指先で払ってやる。
「最近やられてばっかりだからな。たまには俺にやらせてくれたって、バチは当たらねーだろ?」
柔らかな笑みを浮かべながら、藍色の髪を指先で弄くりながら一真がそう言うと、瀬那は「……そうか」と安堵の表情を浮かべ、
「しかし、ひとつだけ間違っておるぞ、一真」
そんなことを、口走る。意味が分からず、一真がそれに「ん?」と訊き返すと――――。
「其方も共にでなければ、意味など無い」
きょとんとしていた一真の腕を掴んで――――その身体を、いきなり自分の方に引き倒してきた。
「うおっ」
驚きながらもなんとか上手いこと身体を倒し、一真もまた枕代わりの雑嚢に頭を預ける。すると、寝転がった格好のまま、至近で瀬那と顔を見合わせる格好になり。どうにも小っ恥ずかしくなった一真は、思わず視線を逸らしてしまった。
それこそ、互いの息が掛かるような距離で、二人は顔を見合わせていた。それがどうにも居づらくて、一真が視線を逸らしていると。瀬那は「少し、腕を借りるぞ」と言って、一真の左腕を掴む。
「お、おう……?」
戸惑っていると、瀬那にされるがままで左腕を伸ばされ。すると瀬那は一瞬だけ柔らかな笑みを浮かべ――――伸ばした一真の左腕の、二の腕辺りに自分の頭を引き寄せてきた。
「……っ!?」
一真が驚き戸惑うのも知らず、瀬那はそのまま、一真の胸元に顔を埋めてしまう。「ふふっ……」なんて微かに微笑む声が聞こえてくるが、しかしそんなことに構っていられる余裕など、今の一真にはなかった。
心臓の鼓動が無意識の内に高まっていくのを感じる。最早それは動悸と言っても良いぐらいで、きっと全力でフルマラソンの距離を走り抜けた時よりも、今自分の心臓はバクバクと跳ね回っているだろう。きっと今、自分の顔は馬鹿みたいに真っ赤っかになっているんだろうな、なんて呑気なことを考えつつ、しかし一真は彼にしては珍しく、その頭の中を動揺一色で染め上げてしまっていた。
「……ああ、やはり此処は居心地が
「せ、瀬那……?」
恐る恐るといった風に視線を落とす一真が呼びかければ、瀬那は「ふふっ……」と微かな笑みを浮かべ、
「一真は、私の傍に居てくれるのであろう?」
なんて、何処か悪戯っぽい言い方でそんなことを言い返してきた。
「いや、まあ、確かにそうは言ったけどさ……」
戸惑いながら一真は、一応はそれを肯定しつつ。しかしどうして良いか分からないといった風に顔色を困惑一色に染め上げる。すると瀬那はまた「ふふっ」と微笑み、
「なら、
「……それに、何だ?」
一真が訊き返せば、瀬那は更に強く彼の胸に顔を埋めながら、
「…………其方は、私を護ってくれると申したからな」
そう、安らぎに満ちた声色で呟いた。
「まあ、な……」
確かに、それは真実。今も揺るぎない、一真が彼女に立てた誓いだ。だから一真は戸惑いつつも、頷いてそれを認める。
「私が其方に話せることは、話すべきだったことは、これで全てだ……。そして、一真よ」
「あ、ああ」
恐る恐る一真が反応すると、瀬那は顔を埋めたままで。しかし普段から聞き慣れた、あの凛とした声で、彼に向けてこう問うてきた。
「こんな私でも――――其方はまだ、傍に居てくれるのか? 私を……私を、護ってくれるのか?」
「…………」
そう問われ、一真は一瞬押し黙ってしまった。
――――だが、それは迷いの一瞬などではない。自分の中で、既に答えなどとうの昔に出ている。覚悟も、とっくに済んでいる。自分が今、言うべきことはただひとつ。彼女に向けて誓うべきことは、ただひとつだけだ――――。
「――――当然だ」
一真がそう言えば、断言するみたいにそう告げてやれば。瀬那はまた「ふっ……」と短く笑い、
「左様か…………」
呟き、再び彼の胸の中に顔を埋めると、静かにその瞼を閉じた。
「なら、やはり。私にとって此処が、世界で最も安らげる場所なのだ……」
「…………」
そんなことを、言われてしまえば。面と向かって、迷いのない真っ直ぐな言葉で、そう言われてしまえば。一真とてそれを受け入れるしかない。でなければ、男じゃない。
「分かったよ、俺の負けだ。好きにしてくれ、瀬那……」
「無論だ、好きにする…………」
そうして、瀬那は己の全てをこの男に預け。今日この瞬間を以て、真に己が唯一無二の守護騎士と認めた男に全てを委ね、ただ安らかに、柔らかな安堵の中に意識を堕としていく。
「一真……」
「……なんだ?」
何処かに優しさの色を垣間見させる声音で、彼に訊き返されれば。瀬那はまどろむ意識の中、うわ言のように彼に向けて囁きかけた。
「其方となら……私は、何処へだって…………」
――何処へだって行ける。何処でだって、生きていける。其方さえ共に在ってくれるのなら、何処へだって――――。
「…………それは俺の台詞だっての、この姫様は」
一真がそう囁き返した頃には、既に瀬那の意識はまどろみの中に墜ちていて。すぅすぅと安らかな寝息を立てる瀬那の寝顔を眺めながら、その寝顔を胸の奥に抱き。一真はフッと参ったみたいに、しかし何処か安心したような儚い笑みを浮かべると、彼もまたゆっくりとその瞼を閉じていった。
――――あれだけ吹き荒れていた嵐が、段々と勢いを弱め。遠く過ぎ去っていく気配がもう、二人のすぐそこまで歩み寄っていた。
吹き荒れる嵐の夜明けは。それは、もうすぐそこだった――――。
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