Int.17: Rain;

「この後に少し、私に付き合ってはくれぬか」

 突拍子もなく瀬那がそんなことを言い出したのは、週も終わりの金曜、日課の剣術稽古が終わった直後のことだった。

 一度寮に戻り、一真はシャワーをサッと浴びて汗を流してから私服に着替える。瀬那の方はいつもの道着から着替えるついでに武道場にあるシャワー・ルームで浴びていたから、先んじて私服に着替えた彼女を待たせる形になってしまった。

「そういや、どこ行くんだ?」

 黒のブラウスの上からジャケットを羽織り、下は多少短いかぐらいのスカート。脚に膝上ぐらいまでの黒いオーヴァー・ニーソックスを履き、そしてスカートのベルトには相も変わらず刀を差す瀬那に一真がそう訊けば、彼女は「ん?」と振り返り、

「大したことではない。ちょっとした散歩程度だ」

 と言えば、「こう、また雨が降らぬ内に」と一真を急かしてくる。

 寮を出た二人は、夕暮れを迎えた雨上がりの街の中を歩く。稽古をしている最中に降ってきた唐突な通り雨は過ぎ去ったが、しかし街はまだ濡れていた。

「雨上がりか、きものであるな」

 隣を歩く瀬那が濡れた街並みを眺めながら、ふとした時にそんなことを呟く。

「瀬那は、雨が好きなのか?」

 そんな彼女に一真が何の気無しに訊いてみると、瀬那は「嫌いではない」と言う。

「雨は何もかもを洗い流してくれる。穢れも、よこしまな気持ちも、何もかもを」

「洗い清める、ってか」

「そういうことだ」一真の方に軽く視線を流しながら、瀬那は小さな笑顔を作ってみせる。

「雨音を聞いていると、常日頃の些事なぞ段々とどうでもよくなってくるのだ。そして、気持ちを入れ替え別の視点から改めることが出来る。

 ……其方は、どうなのだ?」

「俺も、嫌いではないかな」一真が言った。「といっても、傘を出さなきゃならんのは面倒極まりないけど」

「左様か」

 なんてことを交わしている内に、瀬那は「この辺りでかろう」と言って立ち止まった。

 瀬那が入っていったのは、ちょっとした公園のような所だった。住宅地の真ん中にある、取り立てて言うこともない平凡な公園。士官学校から歩いて五分かそこら程度の距離にある、ごく近い公園だ。

 そんな公園の中で良い具合に腰を落ち着かせる場所を見つけると、瀬那と一真はそこに横並びで座った。真四角の少し広いベンチだが、上には東屋あずまやのような木造りの屋根めいた構造物が覆っているから、雨で濡れたりはしていない。

「流石に、誰も居ないな」

「うむ」閑散とした公園内を見回す一真の一言に、瀬那が頷く。「雨上がり、それも陽が落ちようとしている頃合いだ。人がらぬのも致し方ないであろう」

「此処に、来たかったのか?」

「いいや」しかし一真の予想とは裏腹に、瀬那は首を横に振ってその問いを否定した。「ちょっとした散歩だと、先程も申したであろう」

「いや、てっきり言葉の綾かと思ってな」

 ちょっとだけバツが悪そうに視線を逸らした一真が言えば、瀬那は「ふっ」と小さく笑う。それから眼を伏せ、ポツリと呟くようにこんなことを言った。

「……其方は、私の家柄が如何様いかようなものか、何となく察してはくれていると思う」

「何となく、だけどな」

「そのような私の家を、邪魔に思っておる者がる。この間の者共のように、刺客を差し向けてくるやもしれぬ」

「…………」

 腰から抜き、己の右側に置いていた刀にそっと指先を触れさせながらの瀬那の言葉に、一真は黙ったまま静かに聞き耳を立てる。

「この間のように、いつ何時なんどき、誰が私の命を狙ってくるやもしれぬ。故に私は、不用意に独りで出歩けはせぬのだ」

「だから、俺を連れて来た?」

「うむ」頷き、瀬那が肯定した。「付き合わせてしまった其方には悪いとは思うが、しかし少しだけ、こうしてみたくなったのだ」

「気にすんなよ」

 申し訳なさげに言った瀬那に、一真は至極気楽な声色で言い返した。「大体、見当は付いてた」

「左様であったか。……しかし、嫌ではないのか?」

「別に?」一真はわざと大げさに肩を竦めて、そう言ってみせる。「嫌だったら、最初から付いて来てない」

「……そうか。其方はそういう男であったな」

 安堵したように、瀬那はふぅ、と息をついた。

「前みたいに、霧香が助けに入ってくれるとも限らないしな。幾ら瀬那が免許皆伝のウデだっつっても、独りじゃ限界があるだろ?」

「故に、其方は私に付いて来てくれたと?」

「そんなんじゃねーよ」

 照れるようにぷいっとそっぽを向いた一真の反応に、瀬那は「ぷっ」と小さく噴き出す。それに一真は「わ、笑うない!」と言って、

「……俺に出来ることがあるのなら、そうしたい。俺の手の届く範囲に居る限りは、出来る限りのコトはしてやりたい。

 ――――単に、それだけだ」

 一秒ごとに暗くなっていく日没の空を見上げながら、一真がまるで独り言でも言うかのようにそんな一言を紡ぎ出す。

「…………"楽園エデン派"」

 そんな風な一真の横顔をチラリと見て、決心が付いた瀬那はポツリ、と、一真にとっては聞き慣れぬ単語を呟いた。

「なんだ、それ?」

「先日、我らを襲った者共の雇い主――――と見られる一派だ。無論、確たる証拠はないのだが、しかし私の命を狙う者共となると現状、彼奴あやつら以外に考えられぬ」

「その、"楽園エデン派"って連中は、一体?」

 一真は瀬那に食い入るように訊くが、しかし彼女は「私の口から、大したことは其方に申せぬ」とはぐらかす。

「詳しいことは、舞依に訊くといい。彼奴あやつならば、其方の期待通りの答えを提示してくれるはずだ」

「……そういや、前から気になってたんだけどさ」

 唐突なまでに話題を変えてきた一真の何気ない一言に、瀬那は「ん?」と思わず彼の方を振り向く。

「瀬那、西條教官のこと前々から下の名前で呼んでるだろ? そこがちょっと、前から気になってて」

「うむ……」

 ――――正直、痛いところを突かれた。瀬那にとってはあまり突っついて欲しくない所だ。

 とはいえ、無意識の内に彼女のことを舞依と呼んでいたのも、また事実だ。一真と二人で話すときばかりは、どうしても気が緩んでついつい出てしまう。

「……隠しておるつもり、だったのだがな」

「言いたくないのなら、それで良いよ。言いたくないことを無理に聞き出そうとする程、俺は悪趣味じゃない」

「いや、い」一真が気遣ってくれているのは分かっていたが、しかし瀬那は首を横に振っていた。

「他でもない、一真のことだ。其方にならば、話してもよかろう」

 そう言って瀬那は、己と西條との関係をざっくりとだが、一真に話した。自分と西條とが幼少の折よりの付き合いなこと、家を飛び出し京都士官学校に入る際、彼女の力添えがあったことを。

「――――この刀とて、幼子おさなごの頃に舞依がくれたものだ。私の守り刀として」

 瀬那は薄い笑みを浮かべながら、右側に置いた己の刀を手に取りながら言った。

 つかに手を掛け、鯉口を切り少しだけ、鞘から抜く。緩やかに波打つ波紋と、刀身の根元に彫られた火を吐く昇り龍の筋彫りが、一真の位置からでもハッキリと見て取れる。

「この刀を私に授けた時、舞依は申しておった。その刀は人を斬る為のものではなく、清き人の心を護る為のものだと」

「人の心を、護る為……」

 反芻するみたいに一真が呟けば、カチン、と小気味の良い音を立てて刀が再び鞘に収まる。それを再び自分の右側に置きながら、瀬那は言った。

「私とて、人より多くのものを見てきたつもりだ。しかし、舞依は――――私の比にならぬほどの者を見聞きし、経験してきた女だ。殆ど、私の親代わりと言ってもい」

「でも、瀬那には本物の親御さんが」

「いや、らぬよ」

 瀬那はそう、冷静な声色のままで即答する。

「母は私を産むと同時に亡くなり、父は多忙故にらぬのと変わらぬ」

「だから、西條教官が親代わりだと?」

「うむ」瀬那が頷いた。

「無論、爺や侍従の者共が私を支えてくれた。しかし、真の意味で私の親代わりといえば、やはり彼奴あやつ以外には考えられぬ」

「……そうか」

 一真は小さく、相槌を打つ。

「一真よ。其方は私を、信じてくれるか?」

 そう瀬那に問われ、一真は「ああ」と即答した。すると瀬那は「ならば」と続け、

「私を信じてくれるのなら、舞依も信じてやってはくれぬだろうか。私を信じると思って、彼奴あやつも」

「…………」

 一真は少しの間、押し黙った。すぐに答えを返していいようなものではないと、そう思ったからだ。

「――――分かった」

 そして、一真はやはり首を縦に振る。今の自分にとって最も信頼できる女が信じてくれという相手ならば、信じてやるのが筋というものだろう。

「……ありがとう、一真」

 すると瀬那は安堵したように肩の力を抜きながら、小さくポツリとそう呟いた。

「…………おや、また雨か」

 ともしていれば、暗くなっていた日没の空を再び暗雲が覆い。土砂降りの雨があまりに唐突に降り注いできた。

「あっちゃー……。傘、持ってくれば良かったぜ」

いではないか、また通り雨であろう。今日ぐらい、雨が上がるのをゆっくり待つとしようではないか。どうせ、他に人は来ぬ」

「だな」

 至極リラックスした様子の瀬那に同意しつつ、一真は「んー」と大きく伸びをし、小さく欠伸あくびをかく。

「む? 疲れたか、一真」

「まあな」そんな一真の仕草に気付いた瀬那に言われ、一真は頷き返す。「ハードな稽古だったし、ちょっとな」

「ふむ……」

 それを聞いた瀬那は腕組みをしつつ顎に手を当てると、少しの間思い悩み。

 ――――そして。

「であるのならば、こうするのが一番か」

「おわっ!?」

 唐突なまでに一真の手を取ると――――何を思ったか、その身体を自分の方へと引き倒してきた。

「よっと」

 そうして、一真の頭を自分の太腿の上に乗せる。「な、なんのつもりだぁ!?」と素っ頓狂な声で、顔を真っ赤にしながら慌てて一真が訊けば、

「折角だ。どうせ雨で帰れぬのなら、少しだけ眠るがい」

 と、一真の顔を見下ろしながら静かに、しかし何処か優しげな声色で諭すように瀬那は告げる。

「で、でもな……。瀬那に悪いし、それに人目って奴が……」

「そのような些事、其方のような男が気にすることではなかろう。それに陽も落ちてきたし、この雨だ。我らを見咎める無粋な輩など、誰もるまいて」

「つっても、なあ……?」

 ――――何というか、その、小っ恥ずかしい。

 どうにも気恥ずかしさを覚えてしまい、一真は視線を逸らす。しかし瀬那は自分の膝からどうやら離してくれなさそうで、一真とて力づくで逃げるような無粋な真似、彼女に対して出来るはずもない。

「……まあ、いいか」

 それに疲労と眠気がドッと襲いかかってきたせいで、一真は何だかんだ言いつつも諦めた。

「うむ、それでい」

 瀬那は満足したように言って、見下ろす顔で一真に笑みを投げ掛けてくる。

「ならば、其方は眠るがい。何も気にせず、何にも囚われず。ただ自由に、眠るがい。今だけは、其方は私が護ろう。

 だから、ゆっくりと眠るのだ。雨が止む、そのときまで。其方は、安らかに……」

 スッ、と、瀬那の華奢な長い指が一真の瞼を閉じさせる。

 ――――降り注ぐ雨音と、頭に感じる微かな温もり。肌と肌が触れ合う感触の中で、微かに彼女の鼓動すらもが伝わってくる。

「……なあ、瀬那」

「なんだ、一真」

「君は、そこにいるのか?」

「ああ、私は此処にいる。其方も、此処にる」

「そうか――――」

 ――――なら、安心だ。

 静かに弾ける雨音が、伝わる彼女の温もりが、聞こえる鼓動が。その全てが疲れた一真を眠りへと誘い、やがてその意識を落としていく。

 そんな風に、安らかな寝息を立て始めた一真の寝顔を、瀬那はその金色の双眸で見下ろしていた。心地よさそうな寝息を立てる彼の顔を、その瞳で瀬那が見下ろす。

「其方は――――」

 そして、右の掌で彼の額をそっと撫でた。前髪を掻き分け、肌と掌とを触れ合わせる。僅かに彼の方が基礎体温が高いのか、伝わるのは柔らかな暖かみだった。

「其方だけは、此処にいてくれ。其方だけは、私と共に在ってくれ」

 祈るようなその言葉は、彼の耳には届かない。しかしそれでも良かった。ただ、言っておきたかっただけだから。

 雨は、絶え間なく降り注ぐ。その雨が止むまで、そこには安穏とした確かな安息があった。出来ることなら永遠に続けばいいとすら思える、安らかな場所が。

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