第3章 脱獄

第5話 異国の聖母

 野秋邸前の停留所よりバスに揺られること四十分、市街地の中心、駅のターミナルに着いた。

 野秋家の支配する集落も、この駅のある地域も、同じ市内ではある。しかし、雰囲気はまったく違う。険しい山林と断崖の向こう側にある集落と、開けた平地にあり電車も通っているこの辺りとでは、明るさがまるで違っていた。

 山奥の施設から山奥の野秋邸に引っ越した、普段は山奥の寮で生活している祐の目には、駅周辺は眩しい。けれど、

「たっすくー!」

 祐を呼びながら近寄ってきたこの男に言わせると、この駅近辺でさえ田舎も田舎で、何もないように見えるらしい。

 どこにでもある、何の特色もない、少しずつ人口の流出している残念な地方都市だと、彼は言う。祐は彼を、贅沢者だと思う。

「ボンジュー!」

 能天気な声で歩み寄ってきたのは背の高い青年だ。細かく波打った肩までの金髪に、緑色の瞳をしている。

 祐は思わず顔をしかめた。

 つい数日前別れた時の彼の髪と瞳は栗色をしていたはずだ。

「何だそれ。髪の色、また、抜いたのか」

 バスを降りて第一声そう問うた祐に、彼は「やっだぁ」と跳ね上がるような声音で答えた。

「いいじゃない、だって夏休みなのよ?」

「お前な」

「似合うでしょ? アタシ、かっこいいからぁ! よりいっそうおフランスの香りがしてこない?」

かおるも生徒会役員だろ? うちの品性を穢す気か」

「アンタさえ黙っててくれれば学校に迷惑がかかることはないのよ」

「俺が黙っててもその辺うろついてたら補導とかされて即刻バレるんじゃないのか?」

「されないわね。アタシ、未成年に見られたことないもの」

 そんなことで胸を張ってほしくない。校則と言えども法は法だ。染髪を初めとする華美な装いは禁じられている。

 祐は、彼――藤曲ふじまがり薫を見るたびに、自分たちの通う学校は名家の子息にこういう不良行為をさせないために全寮制を採っているのだ、と思う。朝から晩まで見張っていれば、多感な少年が道を踏み外すことはない。

 朝から運動させ、たらふく食わせてはひたすら勉強させ、夕方からまた運動させてはすぐに寝かしつける。そういう、動物を飼育するような管理体制の下で自分たちは養われている。保護者たちはそんな躾を目当てに高い学費や寮費を払って不良息子を生み出すまいとしているのではないか。

 藤曲家に関しては、薫の躾には失敗している。しかし薫の言うとおり、祐は休みのたびに遊ぶ薫を見ているが、薫が警察や不良集団に目をつけられたことはない。

 金の髪は脱色か染色だろう。緑の瞳もカラーコンタクトに違いない。しかし、彫りの深い顔立ちや、全体的に薄い肌の色素は、彼の持ち前のものだった。だから、不自然でないのだろう。黙っていれば、外国人の青年に見える。日本国籍の十七歳には見えない。自分の容姿に関しては、当人が一番よく分かっているということだ。

 通りすがる少女たちがこちらに視線を送ってくる。薫が目立つからだろう。通り過ぎてから聞こえてきた「かっこよくない?」という囁きに対して、薫が目配せをした。少女たちから黄色い悲鳴が上がった。

「あーもういいとりあえず家に連れてけ」

「何様よアンタ」

「お前と歩くと目立つんだよ……」

「アタシがかっこいいからしょうがなくない?」

「いいからこっちを向け」

 シャツの胸倉をつかんで自分の方を向かせる。薫が不満そうに口を尖らせる。

「俺は、一刻も早く、避難したい」

 祐の真剣な訴えに、薫は折れたようだ。溜息をつきつつ、「ハイハイ」と言って祐の手を振り解いた。

「あ、例にもよってウチぜんぜん掃除してないから。よろしくね!」

「例にもよってじゃねぇよ、ちょっとは反省しろよ」


 薫の住所は駅から徒歩三分もしないところにあるマンションにある。この地方都市では珍しく、全部で十二階建てのマンションの十一階だ。当然周辺に遮るものはないので、日当たりも風通しも良く、年中過ごしやすい。

 セキュリティ万全の明るいフロントを抜け、公共の施設よりも早く上下するエレベーターに乗ると、祐は場違いなところに来た気分になる。自分は田舎者だ。こんなところを拠点に、こんな出で立ちで都内へ出入りしているらしい薫だからこそ、この街を田舎だと言い切れるのだろう。

 けれど、薫が祐を田舎者だと嘲ったことはなかった。

 薫が祐を嗤ったことはない。

「何だこれ!?」

 薫が玄関扉を開けた瞬間、祐は叫んでしまった。

 常にペンキを塗り直しているのかと思うほど滑らかな外壁、いつも磨いているのかと思うほど清潔そうな壁のクロス――とは裏腹に、数え切れないほどの靴が散らばっている玄関と衣類や何かの包装紙、空き箱とほこりで埋まっている廊下のフローリング――

「予想以上に掃除してない……! これ過去最悪じゃないか……!?」

「てへぺろー」

 靴を脱ぐためにしゃがみ込んで散らばった靴を掻き分ける。女性もののハイヒールやサンダル、男性もののスニーカーやサンダル――一応対になるよう揃えていく。何足揃えても片付け終わらない。そのうち、たたきの余裕がなくなってしまった。

「お前ら何人家族だよっ」

「ママンとアタシの二人」

 お決まりのやり取りや、薫の「あっはっはっは」という呑気な笑い声に、安堵させられている自分が嫌だった。

「その、ママンはどうした」

「さあ」

「さあってお前――」

「昨日の晩に、遊びに行ってくるー、って出てったきり帰ってこないのよね。ま、いつものパターンよ」

 「きっとフられたら帰ってくるわぁ」と言う薫の声には暗さが微塵もない。藤曲家では本当に恒例のことなのだ。祐は溜息をついた。

 ようやく靴を並べ終え、いくつかは下駄箱に押し込み、薫に「何足か処分しとけ」と吐き捨ててから、廊下に上がり込んだ。薫がまたもや今までに履いていたサンダルを放り出した。きりがない。

 廊下に転がっているものを足で脇に除けつつ、リビングまで急いだ。

 リビングの一角、白い棚の上だけは、片付けられていた。

 聖母マリアの像と十字架、蝋燭が一つだけ、供えられている。

 祐は胸を撫で下ろした。

 静かに息を吐きながら、ひざまずき、十字を切ってから指と指を組んだ。組み合わせた手を額に押しつけつつ、まぶたを下ろす。そこに広がる闇は祐を穏やかに包み込み癒す。

 無心に祈った。ただ、神の御業を、母なる乙女マリアの奇跡を尊び、主の存在を思った。そしてその主が罪を贖ってくださったことを考える。

 穢れ切った気持ちで生きる自分を、清浄な世界へ導き、お救いくださる。

 大きく息を吸ってから、ふたたび、静かに吐いていった。正座するように腰を下ろした。

 おもむろにまぶたを持ち上げる。聖母像を見つめる。その表情は穏やかで、祐を見つめ返してくださっているように感じる。

「熱心ねぇ」

 薫の声がした。祈っていた時間が長かったのか、久しぶりに薫の声を聞いたような気がした。

 見ると、薫は、リビングと廊下を隔てる扉にもたれかけ、欠伸をしながら祐を眺めていた。

 祐の祈りが終わるのを、待っていたらしかった。

 ここでなら、許される。ここでなら、赦される。そんな気が、した。

「お前の家だけだからな。こうして、ちゃんと祭壇を構えているの」

「ちゃんと、って、それしか置いてないけど? だいたい、ばあさんの遺品だからとっておいているだけよ。アタシもママンもナンチャッテクリスチャンだもの、アンタみたいに丁寧なお祈りをしたことなんてないわ」

 それでも捨てられないところに、薫や薫の母親は、聖母を通じて祖母を、あるいは、祖母を通じて聖母を見ていたのだろう。

 遠い異国の地からやって来たのかもしれない聖母像に向かって、祐は知らず笑みを返した。

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