第4話 鯉の餌にもなれない
心臓が早鐘を打っている。
机の周辺の床を見た。何もない。
ベッドの上を見た。何もない。
クローゼットを開けてみた。分かってはいたが何の変化もない。
教科書や参考書の間もすべて確認してみたが挟まってはいない。
書棚にある本の間もすべて確認したがそちらにも挟まっていない。
鞄類をすべて開けて引っ繰り返した。入っていない。
ない。
どこにもない。
暑さによるものとは違う汗をかく。
他に文庫本が紛れ込めそうなところ、と考えながら顔を上げたその時、開け放たれた窓が目に入った。
窓を開けたのは確かに祐自身だ。祐自身の意思で開けたままにしている。山の空気は涼やかで、冷房などないこの部屋でも窓を開け放っていれば充分だからだ。
けれど、どうしても、それが何か大きな過ちだったような気がしてならない。
おそるおそる、窓へと近づいた。
自分が開けた時よりも、角度が広がっている、ような、気がする。
気のせいだといい――頭の半分ではそう願っているというのに、頭のもう半分ではすでに何かを察していた。
窓から身を乗り出すようにして、窓の下を見た。
祐の部屋の窓からは、屋敷の庭が見えた。池があり、鯉が泳いでいた。
鯉が何かを避けるようにして泳いでいる。
何かが池に浮いている。
窓をそのままにして、祐は再度駆け出した。階段を駆け下り、玄関へ走った。玄関の扉を蹴り開け、池まで急いだ。
鯉が避けている障害物を、池の縁で視認した。
全身の血が頭に集まっていくのを感じた。
自分が読んでいたはずの、机の上に置いておいたはずの、文庫本だった。
文庫本が、池に浮いている。
震える手を伸ばした。文庫本を拾い上げた。
水を吸っていて重かった。完全に広がり切っていた。藻が纏わりついて部分的に緑色をしている。もはや重石を載せたところで元に戻る状態ではない。
両手で抱えたまま、池の縁に座り込んだ。
級友から借りた本だった。さらに別の級友へ貸すことになっている本だった。学校で共有されていた本だ。自分個人の本ではない。
もはや書籍としての体裁を失っている。この状態では返すことも又貸しすることも適わない。
机の上から風で飛んで池に落ちるとは、思えなかった。
影が落ち、祐の全身を覆った。
目の前が急に暗くなり、祐の肌を焼く太陽の光は失われた。
「そのように野蛮なものなど読んではいけないわ」
女の声が、背後から、纏わりつく。祐の背中から耳へと、粘度の高い声が這いずってくる。
「暴力的なお話。貴方の情操教育には好ましくないと思ったの。もう二度と読めないようにしてしまわないといけないと思った。屑入れに捨てるだけでは、貴方は拾いに行くでしょう。貴方は賤しい」
振り向くことさえ、祐には、できなかった。女の声が重たくて、全身が動くことを拒否していた。
「どうしても本が読みたいのなら私の本を貸しましょう。私のお部屋にはたくさんあるのよ。私のお部屋へいらっしゃい」
何とか振り向こうと努力した。首が、油の切れた、錆びついた機械のように、ぎこちなく回った。
本当は顔を見たくもなかった。
だがしかし、今度ばかりは、祐は見過ごせなかった。
この本は祐の本ではない。
学校の友人が、みんなで読もうと言って、まずは祐にと貸し出してくれた本なのだ。
「……これは、」
錆びついた喉を震わせる。
「俺の本じゃないんだ」
日傘を差した佳也子が、祐を見下ろしたまま、小首を傾げた。
「学校の、友達、が。貸してくれた、もの、で。また別の、友達に、貸さないといけない、もの、だった」
こんなものを渡すわけにはいかない。
「俺の私物だけならまだいい。お前、俺の友達のものまで、こんな風に扱うのかよ」
佳也子が瞬いた。睫毛もまた、長かった。
顔色と肉付きが良ければ美しかったであろう彼女の容色は、白さと細さでおどろおどろしいものになっている。
佳也子は、この屋敷に憑いた化け物だ。
「名門校が聞いて呆れるわ。そのような本を読む生徒が複数名いるのね」
「どんな本だって本は本だ」
膨らんだ文庫本を抱き締める。
「あと、そんな言い方するな。ただのハードボイルドものだろ。ベストセラーだぞ」
「知っているわ。インターネットで見掛けた表紙だもの」
屋敷に憑いた化け物の口からインターネットという現代の現実を象徴する言葉が出てきたことに、祐は違和感を抱いた。佳也子には似合わない。この屋敷から一歩も出ずに数え切れないほどの本を所有しているということは、このご時世ではインターネットによる通信販売が一番手軽だということも、知識としては分かっているというのに、佳也子にはどうしても似つかわしくない。
「だからこそどんな内容か分かったのよ。それで処分したの」
「俺に断りもなく」
「貴方に断りを入れる必要があるの」
佳也子が、しゃがみ込んだ。池の縁に座り込んでいる祐と、視線が、近づいた。
佳也子の口角が、上がった。
「貴方のものはすべて私のものよ。貴方のすべてが私のもの。まだ分からないのかしら」
「だから。これは、俺のものじゃないって――」
「貴方の教養になるものも私とお父様で選ぶわ」
佳也子は、笑っている。
佳也子は、嗤っている。
足掻く自分を嘲笑っている。
自分はこの屋敷で飼育されているだけの、
「私とお父様で貴方を作り上げるのよ」
二の句が継げなかった。
「そのお友達というものと付き合うこともやめなさい。野蛮なお友達。貴方に悪影響を与えるわ」
「がっ。学校の、中まで、お前が、干渉――」
できるわけがないのに、してくるような気がした。
自分に逃げ場などない。
高校に通い、高校に附属の寮で生活していたとしても、彼女とその父親の呪縛からは逃れられない。
見えない足枷が重い。
級友に申し訳なく思った。自分に貸さなければ、本を台無しにされることはなかっただろう。
自分に関わると、嫌な目に遭う。
佳也子と聡一のせいで、交友関係までもが汚染され、自分の世界が崩壊していく。
佳也子が一言、「暑いわ」と言った。祐に影を落としていた日傘をまっすぐ持ち直し、立ち上がった。
祐は、佳也子の日傘の中から抜け出ても、目の前が暗いような気がした。炎天下だというのに、何かの錯覚だろうか。
動けない。立ち上がることができない。
「それでは私は先にお部屋へ戻るわ」
「いつでもおいでなさい」と彼女は言った。その声は明るく弾んでいるように聞こえた。楽しいのだろうか。
楽しいに違いない。ずっと聡一と二人きりで過ごしてきた彼女にとっては、祐は良い玩具だ。
このまま彼女に従い続けなければならないのだろうか。知識や思想さえ彼女に支配されて生きていかなければならないのだろうか。
どれくらいの時が経過した頃だろう。祐は、重い身体をどうにか持ち上げた。
このままでは、自分が腐ってしまう。
どうにかしなければならない。
シャツの腹が、文庫本の吸った池の水で濡れていた。気持ちが悪かった。
それでも、祐は本を部屋に持ち帰った。題名と作者名、出版社名を控えてから、泣く泣くごみ箱に葬った。
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