第2章 汚辱

第3話 食事への感謝

 階段を上る。

 唇を引き締めて溜息を堪えた。口から悪いものが出ていくのを喰い止めたかった。

 自分の考え方が良くないと、自分をたしなめる。出される食事の何に文句をつけるつもりか。家政婦の渡辺が誠心誠意腕を奮って用意してくれた昼食だ。栄養価も考えられている。使用された食材はいずれも施設にいた頃の自分では考えられないほど高級なものばかりに違いない。

 しかし、味を感じられない。

 自分の舌がおかしくなっているわけではなかろう。渡辺の腕が悪いわけでもなかろう。

 佳也子と聡一と三人で何の会話もなく黙々と口に運ぶだけの食事が、自分には合わない。

 学校の食堂での食事は良い。後輩たちを牽制しつつ級友たちと他愛もないことで騒ぎながら掻き込む三食はさながら動物園の給餌であり、とても名家の子息が集っているとは思えぬ品のなさだが、この秋で十七の祐にとっては身の丈に合っている気がした。勢いに任せ腹を十二分に満たすまで食べても、叱られるどころか、周囲も煽り合ってともに食べてくれる。

 祐が十四の秋までを過ごした施設での食事は、さらに味わい深く感じられたものだった。

 毎食前に祈りを捧げた。食事ができることを神に感謝した。食材を作ってくれた人々に感謝し、食事を作ってくれた人々に感謝し、食事代を与えてくれた人々に感謝した。神から人々の輪が連なって親のない自分たちの食卓まで繋がっていることを、素直に感謝できた。一口一口を確かめて味わった。

 この世のすべてが、神の御業によって自分に繋がっている。自分を生かしてくれている。目の前にある食事は、そのために存在している。

 そう感じられる食事こそ、祐にとっては何よりものご馳走だった。

 野秋邸の豪勢な食事にも、感謝しなければならない。分不相応な高級食材を食べている。ありがたく思わなければならない。

 『せねばならない』と思っている時点で、自分は不信心になってしまったのかもしれない。

 結局、溜息をついた。

 祐を十四まで育てたのは、キリスト教系の児童養護施設であった。園長先生と呼ばれていた責任者は神父で、他の世話役たちも皆敬虔なキリスト者だった。カトリック教会の付属施設で、信者たちからの善意の寄付で運営されていると聞いたことがあった。

 祐は実の両親を知らない。祐がまだ二歳の頃に交通事故で亡くなったのだそうだ。どうやら家族で出掛けた時の話だったようで、祐自身の身体にも、背の上部、肩の下辺りの、自分ではどうしても見えないところに、その時の傷痕が残っているらしい。

 信者からの寄付だけで運営される施設だ。古着を初めとした使い回しの物品に事欠いたことはなかったが、当然、暮らしは豊かではなかった。しかし、子供たちは皆清貧を教えられて育ったし、祐自身は近所の公立の学校へ通っている間に不自由を強いられた記憶がないので、それに不満を抱いたことはない。

 幼い頃は、ただ一点だけ、不条理だ、と思っていたことがある。人間の子供も、犬猫と一緒で、小さければ小さいほど貰い手がつきやすい。施設には常に入れ代わり立ち代わり十名と少しの子供がいたが、年に一、二度家族になってくれる大人が来て、物心がつく前の子ばかりを引き取っていった。幼い祐にとっては羨ましいことだった。

 それでも、祐はいつからか信じられるようになっていた。

 施設にいるすべての子たちが兄弟だ。施設の外にいる、血縁のある子たちもまた、自分の兄弟だ。神の前では、すべての人間が兄弟であり家族なのだ。祐が幼い頃に抱えていた孤独は、そうしていつの日か癒された。

 癒されてしまった。

 いつの間にか施設で最年長となり、誰も彼もが自分を『祐兄ちゃん』と呼ぶようになった頃、祐は、神が自分に示している導きを感じ始めた。

 自分はこのまま施設にい続けるべきだ。司祭となり、いつの日か園長の跡を継いで教会や施設の導き手となって、親のない子などいないと、すべての子が神に愛され望まれて生きているのだということを、語り続けるべきだ。

 それが確信に至った頃、聡一と佳也子が現れた。

 聡一と園長が話し込んでいる最中、小さい子たちの面倒を見ていた自分と、何も言わず何もせずただ人形のように聡一を待っていた佳也子の、目が合った。

 次の時、聡一が振り向き、自分の顔を見た。そして一言、園長に言った。

 ――あの子を。あの子が引き取れないのならば、すべてはなかったことに。

 園長は戸惑ったようだが、その日のうちに承諾したようだった。施設に出入りする手伝いの女性たちも、すでに中学生と年長の祐を家族として迎えようという一般家庭はそうそうないだろうから、それでも一目で決めたと言うのならきっと神のお導きなのだろうからと、口々にそう言っては祐をなだめた。

 祐は気づいていた。

 佳也子は、聡一がその言葉を口にする前に、確かに、聡一にねだっていた。

 ――あの子が欲しい。

 この館に連れてこられてから、佳也子から聞いた。

 聡一はあの施設に莫大な寄付金を支払ったのだそうだ。佳也子は、貴方を買うために駐車場をまるまる一つ売ったのだそうよ、と嗤っていた。

 最初のうち、祐はそれを、佳也子のいつもの『意地悪』だと解釈していた。

 野秋家の保有する不動産は多い。聡一は企業などに勤めず資産運用だけで暮らしている。この数十年で開発され少しずつ値上がりを続けてきた土地が至るところに点在していて、管理のために不動産屋と商談するだけで彼の時間はあっと言う間に潰れてしまうのだそうだ。

 そのうちの一つを手放して得た利益を、自分を引き取る際にあの施設へ投じた。それは、紛れもなく、事実だろう。

 だが、祐は、それは十二年間自分を育て続けた施設への表敬の形式のひとつだと信じていた。菩提寺を重んじキリスト教には一般常識以上の造詣を持ち合わせない聡一だが、それでも、人の子の親として、後継者として見ていた養い子を手放す園長や最年長の兄を失う残された子たちへの気持ちがあるのだと、それもまた愛の形の一つなのだと、信じていた。

 思い込みたかっただけかもしれない。

 今となっては、聡一は本当に、五体満足の健康優良児である自分を――佳也子とは違う跡取りを、買い取ったつもりなのかもしれない。そう、思ってしまう。

 挙句の果てには――帰宅した日のことを思い出した。

 背中に触れた手の感触を思い出し、背筋が震えた。

 佳也子の母親であり聡一の妻であった女性はどうなったのか、祐は具体的なことを知らない。もっとも古参の家政婦である山本から、亡くなった、ということだけは聞いている。けれど、いつ、どこで、どういう形で亡くなったのか、については、誰もが言葉を濁し口を閉ざす。

「勘弁してくれよ……」

 堪えていたはずの言葉が漏れてしまった。

 いけない、と思った。慌てて周囲を見回してから、自分の唇に触れる。悪い言葉を口にしてはならない。ましてそれが野秋の人間に聞こえてしまってはどんな責めを受けるか分からない。

 聡一は、盆には祐を墓参りに連れていくと言う。

 そのこと自体は何の問題もない。先祖の供養はキリスト者としての祐の信仰を害するものではない。むしろ、聡一と佳也子の時代まで連綿と続いた命の尊さに、そして、そのすべてが神の御許でひとつになるであろうことに、祈りを捧げる――これは正しい行ないであり、祐の我が侭で断たれてはならないことだと思っている。

 問題は、野秋家が寺の檀家である以上、カトリックへの信仰は捨てろ、と迫られることだ。菩提寺に連れていかれるということは、聡一と祐の間では、そういう意味合いがある。

 時々、江戸時代の隠れキリシタンもこんな気分だったのだろうかと、祐は思う。

 食前の祈りさえ聡一と佳也子の怒りを買う。祐にできることは、シャツの下で密かに十字架を身につけていることだけだ。肌身離さず持っていることのできるものしか保てない。

 佳也子に庭で聖書を焼かれた日のことを思い出した。

 祐の部屋には鍵がついていない。聡一や佳也子の気紛れでいつでも入ることができる。聡一はまだ戸をノックする程度の気遣いを見せてくれるが、佳也子の手にかかれば、侵入して祐の私物を勝手に処分することなどたやすい。

 そこまで思い返して、祐は目を、見開いた。嫌な予感がした。

 昼食前、自分は読書をしていた。級友から借りた文庫本を読んでいた。

 食事のために部屋を離れた時、自分は、その本を、どこにしまっただろう。そもそも、しまっただろうか。まさか、机の上に置いたままなのでは――

 階段を駆け上がった。

 階段を上がってすぐの戸を破るように開けた。

 机の上を見た。

 何もなかった。

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