第6話 二階の窓
片付けているうちに日が暮れた。
どうにか人が過ごせるようになったリビングのダイニングテーブルで、薫と向き合ってピザを頬張る。
視界の端には、廊下の隅に積み上げられたゴミ袋の数々と洗濯物の山々が入ってくる。幸いなことに明日が可燃ごみの日だと言うので、明日の朝には出しに行くことができる。洗濯物も、明日の朝早起きをして三回ほど回せば、この陽気ならあっと言う間に乾くだろう。
「お前のために奉仕活動か」
祐が溜息をつくと、薫が「やっだ、ピザ奢ってあげたじゃない」と声を震わせた。
この家の台所は料理ができる状態ではない。高価そうな外国製の調理器具や調味料が並んでいるというのに、皆埃を被っている。聞けば薫も薫の母親も一日三食外食なのだそうだ。不健康極まりないが、さすがの祐もこの状態の台所では料理をする気が起きない。
とは言え、本気でしようと思えば、できるのかもしれない。
祐は、本心の部分では、薫とこうしてジャンクフードを口にしたかったのかもしれない。野秋邸で食べる懐石料理のような和食に飽いていたのかもしれない。
ピザの端を咥える。噛み千切り、引く。チーズが糸を引く。強い塩気が舌の上で踊る。体に悪そうなものほど美味だと感じてしまうのは何ゆえだろう。
「大丈夫なの?」
唐突にそう問われて、祐は二口目を口にしたまま薫の方を見た。
薫がいつになく真剣な顔で祐の顔を見ていた。
「家。今日、うちに泊まってくんでしょ」
引き千切り、咀嚼してから、頷く。
「親父には許可を取ってある。まあ二泊くらいしても怒られることはないだろ」
「本当に? あの親父さん、捜索願出したりしない?」
「怖いこと言うな。そんなこと言われるとやりそうな気がしてくる」
「……真顔で答えるのやめてよ」
さらにもう一口齧ってから、「意外と親父は平気なんだ」と答えた。
「お前の家に行き来するの。無断だと発狂するんだろうけど、さっきも行ってくると言ったら普通に行ってらっしゃいと言われた」
「そうなの?」
「なんでも、学生時代の友達は大事にしろ、ってことらしい。親父もうちの学校出身だし、お前のことなら知ってるだろ? 学校の友達と遊ぶ分には大いに結構なんだと」
「あら、案外理解のあるお父さんなのね」
「佳也子はヤバい。佳也子には黙って出てきたから、帰宅した時の佳也子の反応はめちゃくちゃ怖い。でも、それも親父が間に入ってくれれば……親父の目の届く範疇でやらかすことはないからな」
目線を落とした祐の影を目敏く見つけて、薫が「佳也子お嬢様とまた何かあったんだ?」と言った。薫の前では隠し事などできないのだ。
「――明日。本屋、行ってもいいか?」
「いいけど、何買うの?」
「借りた本、買い直さないと。読み終わったらお前に廻す予定だったあれ。佳也子が池に投げ込みやがって、とてもとても読める状態じゃなくなった」
薫が「は!?」と大きな声を上げた。
「あれアンタの本じゃないじゃない!?」
「そういう理屈は佳也子に通用しない。俺の部屋にあった、それだけで佳也子にとっては手を出すのに充分らしい」
「ちょっとおかしいでしょ、なんでアンタの部屋はそんなことになってるのよ」
「俺の部屋、鍵ついてないから」
「そういう問題じゃなくない?」
「だよな。普通は、そういう反応になるよな。俺が、異常なわけじゃ、ない、んだよ、な……」
「アンタの家では、よくあることなの?」
「ある。俺の私物はな」
「と言うかまず」と、二切れ目に手を伸ばしながら祐は自嘲気味に笑った。
「俺には私物というものがない。あの家には。みんな、佳也子か親父のもの」
俺自身でさえも、とまでは、祐は言わなかった。そこまで言うと、薫を巻き込むことになるような気がしたのだ。これは自分の問題であって、薫を危険に晒すような真似をするわけにはいかない。
そう思ったのに、薫は祐の顔を覗き込んできた。
「――うちに、来たら、いいよ」
その声音には、いつもの陽気さや揶揄する雰囲気などなく、
「どうせ母さんはろくに帰ってこないから、部屋なら余る。僕の家に来たらいい」
祐には、うまく茶化すことができなかった。
「その代わり炊事洗濯全部祐の担当になるけど」
薫自身がそう言って空気を弛緩させてくれたことに助けられ、祐も口を開く。
しかし、口を開いたところで、出てきてしまったのはこんな言葉だった。
「俺は、あの家から出られない」
それも、一生、だ。
「大学を出たら、佳也子と結婚することになってるから」
薫が両目を見開いた。この男が表情で驚きをあらわにするところを見るのはどのくらいぶりだろう。
「俺は、佳也子の婚約者として、あの家にいるから。親父と養子縁組したわけじゃない、戸籍上は今も肉親の姓になってる」
「冗談――」
「だったら、俺はもっと気が楽だったんだけどな」
「知らなかったか? 俺の保険証が本名のままになってること」と問うと、薫は「病院にかかったことがないでしょうに」と言った。
「二階の窓から飛び降りても特に怪我らしい怪我はせず保健室でお前の体は超合金なのかと言われまくっていた祐が」
「そう言えばそんなこともあったな……あの頃俺は若かった。って、教室が二階だったのは去年の話か」
「どんな健康優良児でも、その環境にい続けたら、病む」
ピザの耳を、こね回す。薫は「そんな祐を黙って見ていられるほど薄情じゃないつもり」と継ぎ足す。
「大丈夫だ何とかなる、さっきも言ったけど、佳也子は親父の目の届く範囲内なら何もできないんだから」
「でも――」
「どちらかと言えば。俺としては、親父の方が怖くなってきた」
「どういう意味」
問われてから、口を滑らせたことに気づいた。
真正面を見た。カラーコンタクトを外してもなお色素の薄い薫の瞳が、硝子細工のようでいて、祐を確かに見据えている。視線を逸らしてしまう。
「部屋で着替えてたら入ってきて、急に背中を撫でられて……綺麗だ、疵があるのがもったいない、って。鳥肌が立った」
突如、薫が立ち上がった。
「性的虐待で訴えよう。通報してやる」
慌てて薫の手首をつかんだ。
「よせ」
「どうして? そこまでされてどうして庇うんだ」
「庇ってるわけじゃない」
「だったら――」
一度、まぶたをきつく閉ざした。
薫の前でそれを口にするのは、苦痛だった。
薫が真剣に、親身に受け止めると、分かっているからこそ、祐は嫌だった。
「野秋家を出たところで、俺には行くところがないから」
もう施設に戻ることはできない。あの施設は厳しい経済状況の中でどうにかやり繰りしていた。そこに高校生の自分が戻ることなどあってはならない。
「学費だって寮費だって親父が出してる」
仮に野秋家を出て、公的機関に保護されたとして、その先に待っているのは公立高校への編入だろうか。卒業したら働くことになるのだろうか、進学を希望した場合は、どれくらいの借金を背負うことになるのだろう。
聡一の一言で祐の将来が決まる。
怖い、とは、言えなかった。
「それって、身売りとどう違うの」
薫の問い掛けに、祐は答えられなかった。俯いたまま、「頼む」としか、言えなかった。
もしも学校を辞めさせられたら、薫とともに過ごす時間もほぼ消滅するのだ。携帯電話も取り上げられたら、薫との連絡手段も消滅するのだ。
祐には、その方が、恐ろしい。
築き上げてきたすべてが瓦解するその一瞬が、恐ろしい。
無論祐も今のままで良いと思っているわけではない。だからこそ今日薫の家まで逃げてきた。だが一時的な逃避行であり効果が持続するものではない。
たかだか一泊や二泊分の安寧のために佳也子の不興を買う危険を冒した。
それでもなお、
「もう、今夜は、このまま。ここに、いさせてくれ」
ふたたびこの試練に立ち向かえば、いつかは何らかの形で救われる。
苦しいのは今だけだと、祐は信じている。
試されているだけなのだ。神はお救いくださる。乗り越えてこそ、キリスト者としての自分は確立されるだろう。
薫が、息を吐いた。同時に、握り締めていた拳を開いた。
「ちょっと、油で超汚れてるんですけど」
「あっ悪い」
慌てて手を離す。薫が「やぁねぇ~、もう~」と口を尖らせながらウエットティッシュで自分の手首を拭く。
祐は安堵して、次の一切れに手を伸ばした。
不意にポケットの中が震えた。ピザをつかむことなくポケットに手を差し入れた。
出てきた携帯電話が、メールの受信を表示していた。
「親父だ」
薫が「えっ」と顔をしかめたが、内容は何ということもなかった。
『無事についたのか? 連絡するように。』
祐はすぐ返した。
『今薫と夕飯食ってる。大丈夫。』
「何だって?」
「いや、無事についたのか連絡しろって」
「過保護ねぇ。子供じゃあるまいし」
「まあ、そこは、一応十八歳未満だからな。そこだけは、お前の基準の方がちょっと違うと思うぞ」
さらに次が来た。
『明後日の午後旅行に出るから、それまでには帰ってくるように。』
「あ。遠回しに二泊してもいい雰囲気の返事が来た」
「えっ、ホントに?」
「明後日の午後出掛けるから、それまでに帰れ、って。ということは、明後日の午前中までは自由の身なのか」
薫が「んー」と伸びをする。
「何て言うか……、分からないわね、親父さん。男子高校生に変態行為をはたらくクソ親父なのかと思いきや、こういうところでは自由」
「俺も親父のこういう匙加減がいまいち分からないんだよな……まあどうでもいいけど。とりあえず執行猶予が延びたことは間違いない」
携帯電話を閉じた。
「――にしても、あんまり使わないようにしないとな。充電器持ってくるの忘れた」
「アタシの使ってもい――って言おうと思ったけど、それガラケーよね……」
薫に「もうそんな化石替えちゃいなさいよ」と言われたが、どうせ聡一と薫を初めとするごく一部の級友としかやり取りしないものである。祐は「気が向かない」とだけ答えて、今度こそ次のピザの一切れを食べ始めた。
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