【お題:月が綺麗ですね】


 ことり、とフェークライト鉱で鋳造された枠の窓を開いて見上げる、大都市の真夜中の空。その紺碧の西にはパンのような形をした月がぼんやりとした光を放ちながら浮いている。満月は数日前に過ぎていた。高い塔の天辺近くは強い風が吹いており、窓からその冷たい風が吹き込んできて、彼は思わず身を震わせる。厚手のガウンを持ってくるべきだったかもしれない。眼下には、灯りが大通りを照らす眠らない街、シルディアナ。

 イークは満ち満ちた月よりも欠けた月の方を好んだ。何故かはよく分からない。反皇帝家勢力が勢力を強め跋扈するこの時代と、自身の辿るであろう運命を何とはなしに重ねているのかもしれない。自分でその考えに思い至り、誰も知らぬ、見えぬ場所で彼は苦笑した。

 と、そんなことを考えている時に聞こえるのは、風力発動機の回る微かな機械音。

「月が綺麗ですね、陛下」

「――誰だ?」

 彼は身構えた。こんな時間に、こんな所まで登ってくる酔狂な者はいない……自分は置いておいて。声は窓の外、視界の端に映るのは小型飛行機サヴォラ、空中停止させている操縦者は優雅な笑みを口元に浮かべ、目を保護する半透明のラウァを額にぐい、と上げた。

「私ですよ、イークライト皇帝陛下」

「……アーフェルズ!」

 柔らかな笑みに掠る結んだ長い髪の色は、自分と同じ淡い金。イークは思わず大声を上げていた。

「おっと、しいっ」

「……どうして、ここに?」

「月下、眠らない街との間にサヴォラで、空中散歩ですよ」

 アーフェルズは、彼が幼い頃にこの宮殿の一角で出会った小間使いだった。顔を合わせたその日に仲良くなり、それから暫くの数カ月という短い間、事あるごとに遊び相手となってくれた者だ。ある日を境にどういう訳か姿を消してしまったが、イークはこの物腰の柔らかい男のことをはっきりと覚えていた。そして目の前、同じ顔だ。

「また帰って来てくれたのか? この宮殿で働くのか、アーフェルズ?」

「……いいえ、陛下。お伝えしたいことが1つあるのです」

 イークが矢継ぎ早に質問を浴びせかけるも、相手は口元に優雅な笑みを浮かべたまま首を振った。月光に照らされる翠の目はしかし笑っておらず、その口から発せられるのはとんでもない台詞だった。

「私はここに帰ってきたのではありません、寧ろ宣戦布告をする為に馳せ参じました」

「……どういうことだ、アーフェルズ」

「私がこの帝国を覆してみせましょう、陛下」

 彼は驚きに双眸を瞠った。これがこの者の歩む道なのはどうだろうといいが、己自身が、と何故宣言しに来たのだ?

「……何故、私に言いに来た」

 問えば、アーフェルズは人を食ったような笑みを口の端に浮かべてああ、と呟く。次いで懐から取り出すのは小さな黒の印、逆さ竜の紋章が彫り込まれている指輪。

「アルジョスタ、反皇帝家を謳うものの紋章ですよ。彼らは、皇帝家なんてどうでもいいのです、貴方様が頂点に立つことをやめてしまえば……宰相が、事実上の支配をやめてしまえば。降伏の為の印です、これを持っていらして頂ければ、私達は貴方様を歓迎致しますよ、陛下……イークライト・シルダ皇帝」

 イークは差し出されたそれを反射的に受け取ってしまった。小さいくせにずしりと重たい鋼だった。

「……アーフェルズ」

「何でしょう」

「やはり、そなたもそう思うか」

 相次ぐ植民地戦争と征服活動、経済活動が行き詰るが故に行われる小型飛行機の為のフェークライト塔建設、低賃金に喘ぐ民、治安悪化。シルディアナは疲弊していた。こうやって宮殿の高い塔の上から見下ろすだけでは決して分からない人々の表情を、イークは独りで街へ忍び、幾度も見てきた。

 もう限界だろう、と。

「……どのように、ですか?」

「私は先ず、宰相をどうにかするつもりだ。それからなら、やっていける」

 アーフェルズがほう、と唸った。きらり、と翠の目は月光に煌く。

「覚悟がおありで?」

「……やってみせる。皇帝は、私だ」

「17歳にも満たぬ若造が、どうやって?」

「……機を窺う。印には頼らない」

 びゅう、と風が吹き込んできて2人の髪を弄び、攫おうとする。発動機の小さな機械音がやけに煩わしく感じたその時、相手がにっこりした。意図はわからなかった。まるで見透かされているようで、彼は内心気味の悪さを覚え顔をしかめた。

「それは是非とも楽しみにしておかねばなりますまい、陛下。しかし、機を窺っている間に私達の時間も同じだけ過ぎて行くということを、どうぞ……お忘れなく」

 歪な円を描く月は何も言わない。欠ける時も満ちる時も変わらぬその美しい光は塔を照らす。

 しかし隠された秘密がまだ影の中に在ることは月さえも知らない。



『夜半、月は照らす』

新シルダ歴1179年、2の月/シルディアナ帝国帝都、宮殿の塔にて

2012.11.1


Sirdianna一章ラストシーンのプロトタイプです。

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