第2話化け物

「ただいまー」


「お兄おかえりー。うわ、にんにく臭。こっちくんな!」


「あらお帰りなさい。ごめんねー、ご飯ちょっと遅くなっちゃうかも」


「へーきだよ母さん、気にしないで。アズサ、後で覚えてろよ」


 えー、もう忘れたーと足をばたつかせる生意気な妹を尻目に、僕は自分の部屋に入った。

 部屋の中は、夕焼けの明かりに照らされてほのかに明るかった。僕はあまり明かりをつけるのは好きじゃないので、電気は付けずそのままにすることにした。

 僕の部屋は、同級生と比べたら少し異質なのかもしれない。シンプルなベットに勉強机、クローゼットに、少し多めの本棚。ここまではまあ、対して他とは変わらないだろう。だが、部屋の窓の前には大きなカンバスがある。部屋にカンバスのある奴なんてそうそういないだろうし、ここだけは他とは違うだろう。

 カンバスの前に置いた椅子に座り、筆を執る。僕は絵を描くのが好きだ。絵を描いている時間が、一番安心する。パレットから絵の具を筆先ですくい、色を重ねて行く。

 外は完全に暗くなり、月明かりが窓から差し込んでいた。窓の外を見ると、星が暗い夜を彩っていて、おとめ座が僕を見下ろしていた。大好きな星空を見ながら、絵を描く。この時間が、僕にとって最も充実した時間だ。

 白い下地に少しずつ、少しずつ色を乗せていく。僕が書いている絵は、星空の中で月に向かって飛んでいく、大きな二枚の羽根を持った一匹の虫の絵。題名は、まだ決めていない。描いている途中に浮かんだらそれでいいし、終わってから考えるのもいい。僕は、このひと時を堪能していた。


 時々星空に目を移しながらカンバスと向かい合っていた僕の耳に、玄関の鍵の開く音が聞こえた。この時間に帰ってくるのは、父さんだ。僕はお帰りと言うために扉を開け、廊下から顔を出して__


「あら、あなたおかえゲェッ! ……え? ぁ……」


 僕の足元に、ボールのようなものが転がってきた、黒くて、何か細いのがついてい__違う、これは。く、び? 待て、誰のだ? いや、そもそも何で首だけ!? この顔、まさか!


「あーあー、なんだ。一瞬見た時は若いのかと思ったけど残念、おっさんの次はババアか。もっと若くておいしそうなのはーっと」


 ドアの向こうでうつ伏せになってるのは……あの、センスの悪いネクタイは、とう……さん? 玄関の前に倒れている、あのエプロン姿は。母さんなのか? なんで父さんの脇腹にでっかい穴が開いているんだ? 母さんの首から上がなくなっているんだ!? 何なんだ、何なんだ、何なんだ!?


「お? 若い男か。ふむ、悪くはなさそうだな。それにその顔なんかマジで最高! お前、いいなぁ!」


 だ、誰だこいつは!? 服装は黒いマントでわからないけど、僕より大分背が高い。百八十位だろうか? その目は純血したのなんかとは比べ物にならないほどに真っ赤に染まっていて、血まみれの顔は口が裂けそうなほど口角をあげて笑っている。そしてその口の端からは、長く鋭い八重歯が突き出していて……! 違う! 今はそんな冷静に観察してる場合じゃない! きゅ、救急車! いや、警察!? それよりも、に、逃げなきゃ……!


「もーうるさいなー。どうし……っ! お母さん! お父さん!」


 最悪のタイミングで、アズサが部屋から出てきた。また首にかけたヘッドフォンで音楽を聴いていたんだろう。なんでよりによってこんな時に出てくるんだ! ダメだ、アズサ、あっちいけ!


「お? おーおーおー! 若い女の子はっけーん! じゃあお前はメインディッシュだな、まずは前菜!」


「え? あ、あ、ああああぁぁぁぁ! おにいいいぃ! た、たずげっ! ああああぁぇぅっ、くぁ……」


 人の形をした化け物が、アズサに襲い掛かる。身体中がきしむほど震えて、喉からは嗚咽すら出ない。なぜか伸ばした手の先には……首を裂かれて手を突っ込み、取り出された拳大の何かがあった。ピンク色で脈打つそれは、確かそれは……!


「はあー、綺麗な心臓だなあ」


 やめろ……


「それじゃぁぁ! このアズサちゃんの可愛い心臓をぉぉ!」


 やめろ……!


「いっただっきまーっす!」


「やめろぉぉ!!!」


「やだよ! やめねぇよばぁーか!!!」


 化け物は、まるでハンバーガーにかぶりつくようにまだ脈打つ心臓に牙を突き立てた。拳大だった大きさのそれは、下品な音を立てながら一瞬で大きさを縮めると噛み終わったガムのように床に吐き捨てられた。


「あ、あぁ……」


 アズサの首に大きく空いた穴に顔を突っ込み、血を貪る怪物。こちらに投げ捨てられ、受け止めたアズサの身体は。まだほんのりと温かくて、ひどく軽かった。


「そーそー、お前いい顔するじゃんか。百二十点!」


「う、うわぁぁぁ!!!」


「お? なんだぁ、追いかけっこかぁ!? いいねぇ、すごくいい! お前は本当に俺を楽しませてくれるなぁぁ!!!」


 ユリを抱え、無我夢中で自分の部屋に入った。鍵を閉めたドアは、まるで最初からそこになかったように破壊され、化け物が入ってくる。


「ほぁー、面白みのねぇ部屋だなぁ。ん? なんだそれは……蝶、か? へぇ……!」


「やめろ! 僕の……僕の絵に触るな!」


 絵に延ばされた手を、無意識のうちに払ってしまった。僕は、何をしているんだ!?


「はぁ、なるほどなぁ。その絵がお前の、一番大事なもんか……いいねぇ、ますますいい! そういうのを見ると……ぶち壊したくなる!!!}


「っ!」


 あれ? 僕は、今何を……?


「はっ! お前、たかがそんな絵のために自分の命を捨てるってか。わかんねぇなあ、芸術家気取りかよ。かっこいいねぇ!」


 膝から力が抜けて、床に倒れこむ。なんだかよくわからないけれど、胸のあたりが変な感じがする。何も入ってない、空っぽみたいな。

 床に倒れたことで、寝かせていたアズサと目が合った。光の無い、真っ黒い目だ。アズサの頬に触れ、そっと目を閉じてやる。生意気言わなければ、可愛いのになぁ。

 ふと視線をあげると、僕の絵が見えた。血がかかったりはしているが、傷はついていない。無事のようだ。


「はぁ、クソつまんねぇ。意識のはっきりしてるうちにぶっ壊して、そんで泣き叫ぶところを殺すのが楽しいのによぉ。ムカつくし、この蝶の絵はぶっ壊すか」


 違う、違うんだ。それは、蝶の絵なんかじゃない。それは__


「その絵は蛾、なのかな?」


 柔らかく、少ししわがれたおじいさんのような声だった。僕にもし、おじいちゃんがいたらきっとこんな声なのかもしれない。


「は、ぃ……」


 やっと、わかってもらえた。その喜びから、自然と声が出た。本当に、微かな声だ。お年寄りには聞き取りづらいだろうか? だけれど、もう声を出せる気がしない。


「そうかい、そうかい。君は、とても素敵な絵を描くんだねぇ」


「あぁ? おい、クソジジイ。これが蝶でも蛾でもこの際どうでもいいんだよ。俺はこれを壊してから、そいつの血を吸い尽くして帰る。邪魔すんじゃねえよ。アンタは帰って、入れ歯でも磨いて寝な」


「邪魔?私は彼とその絵について話をしているんだ。邪魔なのは君の方じゃないかね? それに……その絵を壊すといったかい? 君には悪いんだが……そうはさせない」


「がはぁっ!?」


 視界がぼやけて、何が起きているのかは理解できない。遠くなっていく意識の中、かろうじで何かが硬い物にぶつかる音が聞こえた。


「ごはっ! ってんめぇ……! なにし、やがる……!」


「ただ少し足を振るっただけなのだがね? どうかしたのかな? 私は、芸術が好きだ。中でも絵は最も美しい。そんな絵を尊ばず、挙句破壊しようとすらした。君はもう少し、痛い目を見るべきだね」


「っぐぁ! はぅ……ぁ……」


 先ほど聞いた……そう、何かが飛び散るような音がしてから、声が一つ聞こえなくなった。そして、足音が僕に近づいてくると。


「さて、これで邪魔者はいなくなった。だがこれでゆっくり話ができる……と言うわけでもなさそうだね。手短に話そうか」


 先ほどと変わらない、柔らかい老人の声。だが、その声をなぜか一言一句聞き逃してはならない気がした。なけなしの意識をかき集め、その声に耳を傾けると。


「少年よ、私は芸術家には敬意を払う。君の絵に、私は魅了された。そこで、だ。もし君が、まだ絵を描くことを望むのなら……私はその望みを叶えよう。決して楽ではない。今まで通り、平凡にはもう生きれない。それでも、どんなに辛くても、まだ絵を描きたいと。筆を執りたいと、君は望むか?」


 もう、意識は無くなりかけている。自分が、少しづつほぐれてなくなって行くような。だが、最後に一つ。どうしても言わなければいけないことが、まだ残っている。


「最後まで、描きたい……」


 眼なんてもう見えない。周りのことも分からない。だけれど、何故か一つだけ分かることがある。僕は、その絵に向かって指をさし、そう言った。


「よく言った、少年よ」


 自分の中に、何か温かいものが流れ込んでいくのがわかる。無くなりかけていた自分が、手を引かれて戻ってくる。心地よく、まどろむ意識の中老いた声は言った。


「これは、さながら悪魔の取引と言ったところか。悪魔は、何か一つ大切なものを奪っていく。だが、私は我欲のためもう一つ奪うとしよう。一つは、君の日常。そしてもう一つは、この絵だ。時が来たら、私の元にこのどちらかを取り返しに来ると良い。その時を私は、楽しみにしているよ」


 そう言って遠ざかって行く足音を聞きながら、かすれかけていた僕の意識はプツンと切れた。

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