第9章 眠れる俑

第57話 最後の芝居

 紅鷺の死は班に衝撃を与えたが、薄々皆は死の真相にも気づいていたから、彼女の芸を惜しみこそすれ、あまり嘆き悲しむ者もいなかった。


 彼等は詳細を知らぬとはいえ、彼女が班の和を大きく乱したばかりか、仲間を殺めようとしたための死であることは諒解されており、その裏切りは班としては許しがたいことであった。ゆえに、班ではごく淡々と通夜を営んだ後、明け方近くにそっと遺体を荷車に積んで邸の裏門から出した。荷車には忠賢と旋一が付き添い、蔡河のほとりで火葬にするのである。


 自分を殺しかけた女とはいえ、宝余は荷車を拝礼して、紅鸞を見送った。哀れなことに、傀儡を操っていた身の上が、最後は傀儡となって死んでしまうとは――。


 だが死の感傷は一時のもので、翌日も班は曹家での芝居の支度に追われていた。そのようななかで、宝余一人が落ち着かなげだった。何か、大変なことが差し迫っているように思えて仕方がない。


 ――どうか、何事もありませんように。あまねく慈悲深い烏神よ、どうか烏翠と班をお守りください。


 彼女は帯に挟んでいた銀細工職人の簪を取り出し、押し戴くと自分の髷にきりりと刺した。護符の代わりのつもりだった。


 昼下がり、宝余が衣装のほつれを繕っている同じ部屋で、忠賢と藍芝は諸事打ち合わせに余念がなかった。

「…あとの問題は、今夜の宴だな」

「さっさとこのいまいましい家を出て、あんたが大班主になるのに立ち会わなくてはね。まさか私の生きている間に、この班から大班主が出るなんて思わなかったけれども」

 忠賢は苦笑して、外題の目録を藍芝に手渡した。明け方近くに曹の寝所から戻ってきた藍芝は疲れの色も濃く、午前は背骨がまるまる抜けたようだったが、さすがに午後はいつもの藍芝に戻っていた。


「…でも何やら、閨でも大人は様子が変だったわ。で、私が目を覚ましたとき、誰かと書房でお話しなさっていたのよ」

「何だって?」

「あまり良くは聞こえなかったけど――何しろ立ち聞きじゃない?お行儀が悪いことだし――でも、攻め手がどうのとか、城門での兵の配置がどうの、とか」

 忠賢ははっとした。

「曹が兵を動かすのか?」

 藍芝は鼻をならした。

「そんなの私の知ったことじゃないわ。でも、曹大人は追い詰められているみたいよ。蔡河で私達を沈めてくれたあの兵ね、軍将の鄭三良は進善党一派の軍のかなめなんだけれども、あの事件以来おつむがいかれてしまったらしく、白い龍に化身した河伯かはくを見たとか何とか、自邸に引きこもってぶつぶつ言い続けて使い物にならず、とうとう進善を離脱して行方不明なんですって。しかも昨晩、側近が何人も瑞慶府治に連行されたというから、今晩にでも王さまが自らこのお邸にまで兵を繰り出すかもね。でも進善党はどう対抗するのかしら?」

「おいおい、芸人が客の閨で聞いたことを、そんなにぺらぺらとしゃべるものではない」

「あんたが水を向けたからじゃない」

 女形はむくれて、忠賢の足を軽く蹴とばした。

「…いずれにせよ、危険だな」

 忠賢はつぶやいたが、雇い主から中止の沙汰が下らぬ限り、班は芝居を打つしかない。


 夕の刻、予定では宴が始まることとなっていた。すでに大庁は飾られ、色とりどりの食器には、抱えの厨房師が腕を見せびらかすように作った山海の珍味が山と盛られている。

 いっぽう、班も準備を整え、あとは銅鑼を鳴らして引子いんしを歌い上げるだけである。しかしいくら宝余達が待っていても誰も大庁に現れず、邸の召使達も怪訝な顔を隠さない。

 宝余が窓の外を見ると、がらんとした邸内とは裏腹に、そこかしこに雇い入れた私兵や進善党一派の軍兵がたむろし、おもわずその一人と目が合ってしまった宝余はすぐに窓を離れ、壁際に引っ込んだ。


「――曹大人はまだ書房におられるのか」

 かしこまっているばかりの曹家の家令に焦れた忠賢は、

「無礼は承知だ、お迎えに上がる」

 と言い放ち、宝余に目配せしてついてくるよう命じた。

「…私がお供でよろしいのですか?」

 小走りで忠賢の後について宝余は問うた。

「何もなければ良いが…万一の場合、我等は曹大人を説得せねばならんぞ」


 そこへ、わあっという声が邸内の門のほうから上がった。

「…王の御出駕だぞ!」

 班主と宝余は顔を見合わせた。

「既に遅かったか!急ごう!」

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