第56話 神々の加護

「その前に……そなた、胸元に何を持っている?」

「え?」

 気が付くと、着物の合わせ目の辺りがやけに温かい、おまけにぼんやりと光っているようだった。手を入れて引き出すと、いつも胸元にしまっている、海星の銀の笛と、それをくるむ烏神の護符が出てきた。笛は海星が弦朗君に託したもの、護符は銀細工職人が簪とともにくれたものである。しかし、紙を開いた宝余は眼を疑い、呻くように呟いた。

「…いない」

 神の姿は、消えていた。では、先ほど、小雲にまとわりついていたものは――。

「紅鸞も報いを受けたな。人を呪わば穴二つ、じゃ。あれほどみだりに力を使ってはならぬと言い聞かせたのに――」

「大班主さま、紅鸞のことをご存じで?」

 老人は頷いた。

「そもそも華の土地で紅鸞を拾い、この班に預けたのは、何を隠そうわしじゃからな。といっても、彼女は儂に会うたび、儂の警告を聞き入れるどころか、まるきり無視していた。芸人として生きるより、いっそ死んだほうがましだったという目をして。ましてや、忠賢を大班主に選んだ儂など、仇のように思っていたであろう。そして、この人形。強い呪詛を止められるのは、より強い力、すなわち神の力だけじゃ。――烏神よ、その御加護に感謝申し上げる」

 大班主は宝余を促し、ともに烏神の住まう西方を遥拝した。


 そうこうするうち、忠賢が戻ってきた。

「とりあえず、ここを出よう。皆に紅鸞のことを知らせねばな。――立てるか?」

 宝余は彼の介添えによって何とか立ち上がり、そのままよろめきながら戸外へと出る。大班主も扉を閉めて、後に続いた。

中庭を横切って柳の下に置かれた石にたどり着くと、忠賢は彼女を座らせ、自分は飲み水を取りに行った。外はまだ暗かったが、焚かれた松明はあかあかと燃え、宝余には心強かった。

 差し出された椀を口に運ぶ。冷たい水が喉を通りすぎて、宝余はやっと人心地がついた。

「大丈夫か?」

「ええ」

 とはいえ、彼女にはまだ悪夢から醒めた気がしない。震えている両手を、そっと忠賢が握り、二人はしばらくそうしていた。

「落ち着いたか?さあ、……そなたの申し出通り、紅鸞の荷を改めてみよう。夜が明ければ忙しくなるゆえ、今のうちに」

 大班主の咳払いに我に返った二人は、顔を見合わせて赤らんだ。


 大班主の立ち合いのもと、忠賢と宝余は紅鸞の私物が入っている大きなつづらを開けた。化粧道具に衣装、傀儡を操るときにつかう紐―――それらを全て取り出すと、底の隅に小さな包みが見えた。

 その包みのなかからは、銀の塊が二つ転がり出る。それは馬蹄銀ばていぎんで、鮮やかな桃色の封で取り巻かれている。単に芸の身入りにしては多すぎる額だったし、もし現に稼いだものであったとしても、これほどの額なら個人で持つのではなく、班に預けるものだ。


 大班主は仔細に検分し、

「これは烏翠で鋳造されたものだな。蹄のなかの紋様のでき方からして、とても品質の良い銀だ。烏翠でもっとも腕の良い職人が鋳したものだろう。裏の刻印は、先王の三年に作られたことを示しているが…だが、私もこれ以上はわからぬ。もっとも、烏翠のお役人あたりに見せれば、より詳しいことがわかるだろうが」

と言った。だが、宝余は銀本体ではなく、むしろ桃色の封に眼が釘付けとなっていた。桃色の紙に青鷺の紋章。王宮の、しかもどこの封か特定できる代物である。宝余はこの紋章に見覚えがあった。烏翠で最も美しい殿舎に住まう御方の――。


「私怨だけではない――この銀を報酬にして、私を殺そうとしたのでしょうね。いいえ、それだけではなく、河で我等の舟を転覆させたのも、おそらく同じ手が働いているかと」

「銀がどこから来たものか、わかるか?」

 忠賢が問うた。

 宝余は頷いたが、沈鬱な表情でつぶやいた。

「ただし、それを明らかにすればこの班は皆殺しにされましょう」

 そしてもう一つ、彼女にわかっていたことがある。なぜ、見る者が見れば立ちどころに出所が分かってしまう封を、堂々と銀に巻いているのか。


 ――どうせ取るに足りぬ賤しい芸人だ、用が済んだら始末すれば事足りる。


「あの場所」の人々の侮りと嘲笑が宝余の耳にまで届いたような気がして、彼女は唇を噛んだ。

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