第51話 鼓腹撃壌の国
燕君は窓の縁に座り、琵琶の撥で弦を鳴らしたが、蔡河を見やりこちらを向かぬままだった。力強く、しかし悲しみも秘めた音色が、その手元から紡がれていく。
「――では一つ、昔話をいたしましょうか。まだ国君が王弟の御身分であられ、そして涼に赴く前、ある高官の娘と結婚を約しておりました。二人は幼馴染でしたがむろん本人達に否も応もなく、大人同士の取り決めに過ぎません。ですが大禍が起こり、その高官は謀反の罪を着せられ
妓女は一気に語り終えると、ようやくこちらを振り向き、微笑んだ。
「そのようなお顔をなさらなくても良いのです。謀反人の係累となった女子が、妓女に落とされるのは珍しいことではありませんでしょう。いずれにせよ、今さらこのような話をしたのは、涼国の
「……」
宝余は無言となっていた。では、この妓女が――。
もし涼との小競り合いで烏翠が不利とならず、父親が処刑にもならず、また顕錬が涼に人質に取られるようなことなどなければ、王の隣りに座していたのは自分ではなく、この燕君ということになる。自分と目の前の女性は、何という運命の擦れ違いなのだろうか。
「あの方もお気の毒に。ご即位以来、名君になろうと努めていらっしゃるのに、おそらくは無理でしょう」
しかも燕君は、このように恐ろしいことをさらりと言った。
「何故ですか?なぜ彼が名君になれぬと?」
宝余はそれまでは痛々しい思いで燕君の話を聞いていたのに、話が顕錬を謗りかねぬ風に転びかけたので、思わず眉をひそめた。
「ご気分を害されましたか?」
燕君は撥を置いた。
「私は誰に対しても無礼なので、どうぞお許しくださいませ。ただ――」
「ただ?」
「王が善政をなさろうとする過程で必ず粛清が起こり、そして私どものような身の上となる者が出るのです。たとえ王が
宝余は何か言おうとしたが、黙り込んだ。燕君は宝余のただならぬ様子に気が付いたらしく、改めて無礼を謝した。しかも、王宮と曹大人の邸、いずれでも宝余の赴きたいほうに送って差し上げたいと申し出た。宝余はそれに甘え、絹の寝衣を脱いで木綿の常服に着替えた。班旗に誓いを立てた以上、彼女は班主の許しがないかぎり、班の旗のもとに戻らなければならないのだ。
楼を出て行く段になって、燕君は少し迷っていたかのようだったが、思い切って宝余にこう告げた。それまで浮かべていた微笑はすでに消えている。
「私は妓女として、お得意様のことは一言も口に出して漏らすこと、あるいはこちらから聞くことはありませぬが――」
なるほど、たとえばなぜ旗妃である宝余が班の人間に身をやつして曹の邸に行くのか、あきらかに異常なことであるのに、そのようなことは宝余に問わない。花柳界の口の堅さとはこういうものか、と宝余は感じ入った。
「しかし、気をおつけなさい。国君と呉宰領の勢いが盛り返し、いま曹大人は極めて不利な立場にあると、これは噂だけではなく本当のことです。大人のお邸に行かれても、くれぐれも御身のこと明らかになされませぬよう」
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