第50話 琵琶を抱く女

 次に宝余が覚醒すると、水とも剣とも全く縁がない、ただの高い天井が目についた。そして自分は、暖かなふすまにくるまれて寝台の上に寝かされており、耳には琵琶の音が響いている。身じろぎをすると肌に触れたのは、滑らかな絹の寝衣であった。


 ――目の覚める前が夢だったのか、それとも今が夢なのか。


 旋律がぷつりと途切れ、宝余は我に返った。琵琶を抱えた若い女性が一人、窓辺に佇みこちらを見ている。身体の節々の痛みに顔を顰めながら起き上り、ついで声を出そうとしたが、喉が渇いてそれもできない。


「お目覚めのようね。お茶が欲しいの?」

 女性は琵琶を卓に置き、小さな鉄瓶から湯を急須に入れるとしばし待ち、翡翠色の椀に液体をついだ。

 近づいてきたその女性はとし二十になるかならぬかといったところで、烏翠の服ではなく、天朝の人々が着る薄地で華麗な地模様の衣装を身につけ、艶めく髪には幾本もの簪を刺し、耳飾りが顔の左右にきらめいていたが、彼女自身の持つ華やかさには、手の込んだつくりの服も金銀宝石もとうていかなうところではなかった。切れ長の目尻に緑を含んだ瞳が映え、鼻梁の通り具合といい、紅に彩られた形の良い唇といい、まさしく蘭のような秀麗さだった。


 ――この方は。


 女性は椀を差し出すと微笑み、片膝をついて敬礼をした。

小妾わたくし、青黛楼の燕君が卑賤の身を顧みませず、貴人にご挨拶を申し上げます」


 宝余はぎこちなく頷き、挨拶を受けた。目の前にいるこの女性は妓女であるらしかったが、傲岸不遜にも見えて気品もあり、すでに名妓の風格を漂わせている。

「…ここはどこですか?私は何故ここに?そして…班の皆はいずこに?」

 燕君と名乗る少女は眉を上げた。

「ここは北城の楼ですよ、私のような者がいる」

「楼?でも――」

 妓楼はもっぱら南城にあり、北城で店を開くことは許されていないはずだった。宝余は烏翠の地理志に眼を通したことがあるので、このことくらいは知っている。妓女は声を立てて笑った。

「私のご贔屓の方々は、登楼するのにいちいち蔡河を渡るのが億劫なのですよ。そこで別墅べっしょを密かに楼として使い、日々私達を呼び寄せ酒席を囲むのです」

 宝余は、市井の苦しみをよそに見た高官のやりたい放題に呆れてしまったが、燕君は涼しい顔だった。


「それで、河では一体何が起こったと思し召す?実は、あなた方は空から降ってきたのです。大風と大雨に煽られてね。実は私はこの邸の高楼で、あなた達の舟が沈められるのを偶々見ていたのですよ。まさか、人が風に吹き飛ばされるとは――しかも何人もね。それがこの邸の庭に次々と落ちてくるのですもの、心底びっくりしました」


 宝余は半ば上の空でそれらを聞いていたが、ふと気になったので尋ねてみた。

「――高殿の上から、龍もご覧になりましたか。白く大きな、赤い眼を持つ龍です。私達を吹き飛ばして」

 燕君はけげんな顔をした。

「龍ですか?いいえ。あれはたしかに竜巻でしょうが、龍などでは…」

 そうですか、と宝余はつぶやいた。あの龍は、父の琴についていたものとよく似ていたが――。


「そうそう、それであの一行に弦朗君さまがいらっしゃいましたでしょう」

「ご存じですか?」

 驚く宝余を前に、燕君は扇で口元を隠した。

「私が王妃のご婚儀でご無礼を致したとき、お助けいただいたのですよ」

「あの藤の?――では、あなたでしたか」

 藤の枝を王に投げつけた大胆な女の話は、宝余も聞いて知っていた。

「して、いま弦朗君さまはいずこに?」

「山房にはお戻りにならず、そのまま王宮に何とか辿り着こうと、密かに班から抜けられました。その弦朗君さまが、あなたをここに預けていかれたのです」

 

 でも――。宝余はすでに決心していた。

「班の皆はどこに?一緒にいなければ――」

「班は曹大人のお邸に連れて行かれました。私は光山さまからあなたをお預かりしたけれども、もしあなたの気持ちが班にあるなら、ここを出て後を追ってもいいと存じますよ――涼国の公主さま」


 宝余は一驚して妓女を見つめたが、燕君は相手の顔つきがおかしかったのか、無礼にも噴き出した。

「私はこういう商売をしておりますからね――さっき茶碗を受け取られたとき、左手の二本の指を揃えて高台を丸く一撫でされましたでしょう?あれは宮中の作法ですね」

 宝余は我知らず顔を赤らめた。

「しかもあなたと同じお年頃の、輿入れなさったばかりの王妃が、長きのご不例で姿をお見せにならず、街にはいろいろ宮中に関わる噂が流れている。かばかりか、弦朗君さまはあなたを私にお預けになるとき、一言もあなたのことをご説明にならず、くどいほど余人に会わせてはならぬとお命じになりましたので」

 宝余は溜め息をついた。

「さすがですね……藤を王の懐中に投げてみせただけのことはあります」

 燕君は衣の裾を払い、琵琶を再び取り上げた。


「でも、お妃さまには、ぜひ一度お目にかかりたいと思っておりましたから、叶わぬ願いがかなって本望でございます」

「私に?」

「そうです、賤しい私と貴いご身分の公主様、世にも不思議なご縁があるのですから――」

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