第19話 同情と怒りと

 日が経つにつれ、顕錬が後宮に戻ってくる時刻が段々遅くなっていった。

 それとともに、勤めの最中にも落ち着かなげな女官――特に若い女官に多かった――が増えてきたように宝余は思った。

 自分の前でこそ平静を装っているが、概してそうした女官達は取り繕うのが下手で、回廊のそこかしこでひそひそと囁き合いがなされ、またごく小さく畳んだ手紙や覚書が女官から女官の手へ渡されていることも宝余は知っていた。

 おそらく彼女達の実家も政争に加わっており、実家の盛衰は、後宮での自分の立場のありようにそのまま直結するのだろう。そうした、浮足立つ女官達を陰で叱りつける百桃の声を遠くに聞きながら、彼女は眉をひそめた。


 ――困ったこと。


 顕錬とはたまさか顔を合わせ、形ばかりの挨拶をするだけであったが、それでも彼の憔悴の色は宝余の眼にも明らかだった。ごく断片的に自分が知り得た情報と、目の前の夫の様子からしても、臣下達の政争に絡んで、顕錬の旗色は悪いように見えた。しかし、自分が外朝の問題に立ち入ることはできない。


 一日いちじつ、彼は珍しく早く外朝から坤寧殿に戻ってはきたが、宝余とは顔も合わせず、殿庭で夏玄章を相手に剣術の稽古を始めた。宝余はその様子を殿の軒先から眺めていたが、見る限り王も決して下手な剣の遣い手ではなさそうだった。

 ただ、やはり玄章は烏翠でもっとも腕の立つ男との評判通り、主君よりも明らかに技量は上だった。顕錬は荒々しく何度も近衛総管に打ちかかって行き、また玄章も主君を相手に驚くほど容赦せず、顕錬の剣を思い切り叩き落とした。

 とうとう最後の打ち合いでは、玄章が剣の柄で相手の右手をいささか強く打ち据えたようで、王は顔をしかめて手首を押さえた。そこで玄章は、即座に剣を置いて跪き頭を垂れたが、顕錬は「良い」と答えて彼を立たせ、おそらく宝余に見られていることを知っていても彼女の存在を完全に無視し、さっさと東書房に消えて行った。


 そのそっけない態度にまた宝余は腹も立てたが、稽古での彼の様子を見る限り、袋小路に入り込んでいる自分に苛立ち、その怒りを剣にぶつけているかのように見えた。とし二十ばかりの若い君主として、老獪な臣僚、自分に敵対する者達を相手にせねばならぬ彼の施政を考えると、いささか気の毒にも思える。まんいち王とその味方が敗れた場合、一体この国の政道はどうなるのであろうか。


 ――まさか、王の廃位などはあり得ないだろうが。


 だが、楽観が悲観に代わるのは瞬時のことで、宝余は首を横に振った。

 我が子ながら顕錬を不思議なほど嫌う太妃は、いざとなれば山号を持つ王族のなかから傀儡となりうる男子を選び、王を挿げ替えることも辞さないだろう。いや、太妃につながる進善党は、それを前提に動いているのかもしれない。

 

 では大義名分があるのは王を支持する紫霞党かといえばそうでもなく、特にその領袖で、百官を統べる宰領の地位にある呉一思は、かつて太妃と先王の側に立って二つの山房を滅亡に追いやり、来州の大乱を容赦なく鎮圧した経歴の持ち主であったから、進善はもとより、紫霞の一部からさえも「弐臣じしん」――つまり二心を持つ臣下として、蛇蝎のごとく忌み嫌われている。

 とすれば、下手をすると両党の争いは王宮を巻き込み、本格的に干戈を交えることになるのではないか。これでは顕錬も呻吟せざるを得ないだろう。


 ――思えば、大旗も気の毒だわ。先王が善政を敷いていたか悪政であったかで、即位前から随分と差が出てしまう。


 しかし、夫に対する怒りと同情の間を揺れ動く宝余の複雑な思いは、ある事件によって粉砕されてしまうこととなる。

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