第15話 舞う女官

 西書房での書見に疲れた宝余は、気晴らしに後苑こうえんを逍遥していた。烏翠では紫陽花も涼より遅く咲き、今が見ごろとなっている。青紫の毬が連なったような眺めに宝余が心を躍らせていると、遠くのほうで誰かの歌う声が聞こえた。


 その澄んだ声の主を探し、山に模した岩を回り込んだ人気のないところで、海星が剣を片手に舞っているのが見えた。彼女が口ずさんでいる歌の歌詞は聞き取れないので、きっとラゴ族のものであろう。緩やかに円を描く剣が陽の光を反射し、すらりと肢体は伸ばされ、その華麗で美しい舞いに宝余もつい見入ってしまった。ややあって、海星は王妃の姿に気づき、急ぎ跪いて頭を垂れた。


「拙く、お見苦しいものをお目にかけまして…」

 宝余は随従の女官達に頷くと、ひとり海星に歩み寄り、免礼の仕草をして立たせた。

「いいのよ、あなたは非番の筈だから……今のはラゴ族の舞?」

 海星は剣を鞘に納め、頬を染めて首肯した。

「婚礼の舞にございます。昔、私が女官見習いとして光山さまのお邸に預けられていたとき、夫と二人でこれを舞ったことを思い出しまして――」


 宝余は、海星が顕錬の祖母に仕えた有能な女官であったこと、そして光山府での同輩だった海星の夫が先王に剣を向け、いっぽう海星の機転で王の命が救われたことを知っていた。それから、二人は駆け落ち同然に烏翠を離れひっそりと暮らしていたが、もとより病勝ちだった夫の死後、王となった顕錬に乞われて再び瑞慶宮に入ったという。

 ただ、先王は度し難い暴君として知られてはいたものの、大逆罪人の妻でもある海星の再出仕はひと騒動で、結局のところ永久に夫の名誉回復をせぬことを条件に認められたという。しかし夫のこと、自身の境遇について海星が自分から口にすることはなかったので、それ以上のことは宝余にもわからない。


「きっと仲が良い夫婦だったのでしょうね、あなた方は。いまの舞にも、情愛が籠っているのがありありと見えましたよ」

 海星は眼を見開き、ふふふ、と微笑を洩らした。

「ああ、旗妃きひの御前で失礼いたしました。でも、仲が良い夫婦と聞いて思わず……。むろん、短い間でもともに暮らすことが出来て、この上もなき幸福を享受したと思っておりますよ。とはいえ、私達ラゴ族はもともと夫にとっては仇同然、出会った当初は犬猿の仲でしたし、一度など刃傷沙汰の喧嘩まで起こして、弦朗君さまにきつく叱られたこともございます」

「あなたが?」

 宝余は眼を丸くした。次代の女官長との呼び声も高く、武芸の達人かつ宮廷人としての能力も持ち、しかも沈着冷静な彼女が、そのような争闘を起こしたなどとは考えられない。思わず「自分達も…」と、夫に剣を向けられた初夜のことを言いそうになったが、さすがに自重した。

「意外にお思いになりますか?山育ちのとんだ跳ねっ返りが光山府に上がったため、随分と弦朗君さまのお手を煩わせました」

 弦朗君――宝余は、彼を含め男性の王族とは御簾越しで対面しただけで言葉を交わしたこともないのだが、顕錬が厚い信頼を寄せる人物だということは百桃から聞かされていた。

「私はもともとせっかちで激しやすいのですよ。人は変わりますね。でも、変わらぬこともあります――」

 海星は声を落とし、だが優しさの籠った眼差しで宝余を見た。


「大旗は、あの紫瞳のゆえにご苦労を重ね、今も乱れた国の立て直しに懸命になっておられます。ご即位前のご様子を拝見した私が申しますが、その頃からご聡明で、しかもお優しいお方です。これは衷心からあえて率直に申し上げますが、いまは十全とはいかなくとも、いずれ王妃さまとは仲睦まじくお暮しになり、お二人して烏翠の国運を盛り立てると私は信じています」


 ――王と王妃として、お二人ともに運命をまっとうすることはございますまい。


 占い師の言葉を思い出した宝余だが、首を振って不吉とも思える予言を頭から追い払った。無理に微笑み、「出過ぎたことを申しました」と、恐縮の態で頭を下げる海星の手を取る。異郷から来た者同士、共感といたわりがそこにあった。

「ありがとう。あなたの言葉通りになるべく、私も王妃として努めましょう。さあ、あの舞の続きを見せて下さる?夫君を想って舞うあなたは、後苑の花よりも美しいから」


 それから海星の舞を堪能し、礼を言って引き返した宝余は、池に臨む四阿あずまやとうに座り、疲れた足を休めていた。鯉はまどろみ、池の端の海棠は桃色の花びらを水面に映している。

 後苑はいままでも何度か散歩したことがあるが、いつにもまして色鮮やかに、美しく見えた。それは単に夏だからではなく、宝余が今まで抱えてきた心の強張りが、雪が解けるように緩んできたためであろう。


 ふと、彼女は人の気配を感じて振り返った。

「――大旗」

 珍しいことに、日のあるうちに顕錬は政務を終わらせて戻ってきたらしい。

王は妃の顔を見て、一瞬驚いたようだったが、すぐにそれを押し隠した。立ち上がって拝礼しようとする宝余をとどめ、自らも彼女の横に腰かける。そのまま、ぎこちないような、くすぐったいような沈黙がしばし二人の間を支配する。だが、口火を切ったのは妻のほうだった。

「さきほど、私の顔を御覧になったとき、どなたかとお間違えでしたか?」

 顕錬は無言のうちに、紫の瞳を揺らめかせた。

「あなたは、嘘がつくのがお上手ではない。お顔は無表情でも、そのおん眼が全てを語っていらっしゃる」

 微笑んだ宝余に、顕錬は俯き加減となった。

「――すまない」

「謝ることではありません。九宝娘の姉上とお間違えになったのでしょう?…不思議なものですね、姉と私、顔だちは全く似ていないのに」

「――すまない」

 宝余は思わず噴き出した。つられて、顕錬も微笑を浮かべる。

「お忘れにならずとも、良いと思うのです。姉は優しく教養もあり、烏翠の王妃となるにふさわしい女性でした」

「だが、それではそなたに――」

 妃は首を横に振る。


「私が大切に思っている人を、あなたもまた大切に思っている。私はそれで充分です。身代わりとして嫁いできた私が、それ以上を望んではいけません。王妃としての務めは果たしますが、これでも分はわきまえているつもりです」


――本当は、身代わりであることは、少しばかり寂しいけれども。

だが、それを相手に言う必要はない。宝余はそう思った。

「……」

 顕錬も口を開きかけたが、ふっと息をついて宝余の手を取る。二人は何も言わず、互いに重ねた手をそのままに、鯉の跳ねる音に耳を澄ませていつまでも座っていた。


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