第10話 微服

 瑞慶宮での二日めの夜も終わろうとしていた。湯浴みの後の夕餉ゆうげ――これもまた味が濃く、小麦粉の蒸かしが主食であった。外朝から戻ってきた顕錬もほとんど言葉を発さず、宝余も疲れのため黙り込んだままだった。

 何となく気まずい雰囲気は坤寧殿じゅうに漂っており、百桃も、副女官長の海星かいせいもすでに国君夫妻の心の懸隔けんかくは察しているようだった。それでも百桃は無表情を崩さなかったが、海星は言葉には出さずとも気遣わしげである。


 海星はもとの名をレツィンといい、実のところ烏翠人ではなくラゴ族という、烏翠に従う北方の部族の出身であり、かつ烏翠人と結婚しながら若くして未亡人となった経歴を有する。そのことは宝余も知らされており、海星が控えめながらも宝余に同情的な視線を送っている理由と思われた。


 こうして長い一日が終わり、床に入る時分になったところで、意外なことが起きた。顕錬は寝衣に着替える前に女官達を下がらせてしまったのである。さらにいぶかしむ宝余に、

「これから二人で出宮致すゆえ、支度せよ」

 と言い、床の傍らに畳まれた男物の衣を指さした。

「…微服びふくでございますか?」

 婚儀の翌日にお忍び、しかも妃を連れて行くなどと――宝余は夫の意図を全く解することができなかったが、言われた通り、おとなしく寝台の帳のなかで男物の衣装を身に着けた。衣は顕錬のつけている香と同じ香りがしたが、おそらく彼の持ち物なのだろう。彼の香りに包まれていると、彼の腕の中に包まれているような気がして、我知らず顔が赤らんだ。


 顕錬は帳の外で、やはり着替えをするため王の常服を脱ぎ、肌着も取って裸の背中をこちらに見せている。おぼろげな蝋燭の明りに照らされたその背を一瞥して、宝余は思わず「あっ」と声を上げた。

 彼の背中にはそこかしこ、長い擦過傷が十文字に走っていたのである。よく目を凝らせば、背中だけではなく腕にもである。宝余の声に顕錬は振り向き、歪んだ笑みを浮かべた。

「――何の傷だと思うか」

 宝余は見てはいけないものを見てしまったかのように目をそらしたが、はっとして恐る恐る問うた。

「まさか、涼で――?」

 顕錬が涼の人質として暮らしていた間に、何らかの虐待を受けた傷としか思えなかった。でなければ、仮にも烏翠で王弟の体に傷をつける者がいるなどあり得そうもない。

「そう、半分は当たっている。だが実はな、この傷には二種類ある。一つはそなたの答え通り、涼でつけられた傷だ。そしてもう一つは――」

 顕錬は笑みを打ち捨て、宝余から顔を背けた。


「先王、すなわち兄上が私に賜った傷だ」


 着替えが終わり、顕錬と宝余は坤寧殿を出た。人払いをしているので女官達の姿も見えなかったが、ただ一つめの回廊の曲がり角には百桃が、二つめには海星がそれぞれ雪洞を持って立ち、二人を誘導してくれた。さらに後宮の最北の門に至ると、門の脇で誰かが膝をついて待っていた。松明に照らされたその若い男は軽い武装姿で、しかも大柄だった。


「…この男は近衛総管の夏玄章かげんしょうと申し、私の身を守るとともに、私の剣術の師でもある。そなたも今後は彼に接することがあろうから、よく覚えておくがよい。現に、これから外城に出るのに供として連れて行くのだから」


 玄章は無言のまま頭を下げた後おもむろに立ち上がったが、顕錬の頭一つ分よりも背が高い。眉が濃く堅牢そうな顎を持ち、堂々たる美丈夫ではあるものの、その瞳には百桃以上に表情というものがなく、宝余は岩石か金剛を相手にしているかのような錯覚を覚えた。


 ――猛獣と、猛獣使いといったところかしら。


 細身で身軽な服装の顕錬に、山のような武装の大男が従っている様は、宝余の眼に何故か滑稽に見えた。普段であれば気にもとめぬつまらぬことでも、笑いや陽気さが不足している今の宝余にはたまらなくおかしい。宝余は笑いをこらえて下を向いた。幸い、他の二人は彼女の変調に気づいていない。


 門を出てこれから宮城の外壁を回り、蔡河を渡って南城のほうに出なければならないが、外壁沿いに立つ兵を避けて脇の路に入る。そこは貴族や官僚の邸の並ぶ区域で、夜中の禁鐘きんしょう――夜間の通行禁止を告げる鐘――が鳴るまでは通行が自由であり、まだ若干の人通りがあった。顕錬と宝余は馬に乗り、玄章が宝余の馬の手綱を引いた。見た目には、若い貴族の夫婦と用心棒といった体である。


 外城を東西に遮る蔡河に出ると、顕錬は馬から降りて宝余をも抱き下ろし、二人は玄源に導かれ船着き場にたどり着いた。石段を下りて行くと、舟が一艘泊まっていたが、すでに今夜の微行びこうに備え、あらかじめ準備してあったのだろう。

 玄章が自ら梶を取り、舟はゆっくりと蔡河の流れをかき分けて対岸を目指す。すでに宵闇は深かったが、それでも河の両岸に迫る甍の波は見えた――貴族や官僚の住まう北城は立派な甍、庶民の住まう南城のそれはおしなべて低く、瓦あるいは藁で葺いてあり、高さも材質も不揃いである。


 舟を対岸で捨てて徒歩で歩き、狭い小路に入っていくつかの角を曲がった末、顕錬は一軒の家の前で足を止めた。若干傾いた幅の狭い門といい、ところどころ崩れた壁といい、何の変哲もない庶民の家である。

 顕錬は宝余をちらっと見やって門の扉を押すと、それはぎいっと嫌な音を立てて開いた。ごく小さな中庭を挟んで、正房の一角にだけ灯りがついているのが見える。顕錬が正房の扉を五回叩くとそれが何かの合図だったのだろう、返事のかわりに内側から四回叩きかえす音がした。


「…ようこそおいでくださいました」


 扉の陰から滑るように現れた人影は、年七十ほどの老人であった。彼は顕錬と宝余の二人のみを招じ入れると、うっそりと立つ大柄の見張りに頷き、外を注意深く見まわして扉を閉める。

「ご無事のお着きで何よりです。実のところ少々案じておりましたでな」


 そこは手狭な部屋で、壁際の書架には一面の書物、そして卓上には筮竹と羅盤らばんなどが置かれている。蝋燭の明りに映じる黒衣の老人は、白い眉毛が端で垂れ下がり、目尻を隠すほどになっていた。

 老人はうやうやしく一礼すると上座の、古ぼけた衝立を背にした二つの椅子を顕錬と宝余に勧め、自身は下座の椅子に腰かけた。老人は茶を客人に進めることはしないが、それは相手がうかつに飲食しない身分の者であることを正確に知っていたからであった。しばらくの沈黙ののち、先に口を開いたのは顕錬のほうである。


「師父よ、久しぶりだな。私が納妃の慣例となっている占卦せんかを拒み、騒動となったことは存じておろう。だが、私は今、あえてそなたに二人の占卦を頼みたいのだ」

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