第2章 二つの相を持つ女

第6話 国婚

 さて、あの輿の乗り手であり、もっか烏翠で最も耳目を集める人物――すなわち涼国の公主である宝余ほうよは、このような一連の騒動を全く知らぬまま、夕刻までには瑞慶宮内に無事に担ぎこまれた。


 居並ぶ文武百官に迎えられ、輿は真っ直ぐ進み、まず宮城で最も大きく重要な建物である堯政殿ぎょうせいでんを抜け、後宮の入口に至った。ここで涼からの護衛兵はすべて離任し、あとは同じく涼からの女官十名のみが輿に随従する。通り道には烏翠の女官達が頭をたれてかしこまり、輿を待つ。輿は平衡を崩さぬよう殿の階を一段、一段と登り、そこで輿を乗り捨てた宝余は、殿の松明に照らされて、初めて姿を烏翠の者に現した。


 彼女はとしのころ十七、本来ならば桜色の頬に濃い桃色の唇を持つ若い娘だが、あまりの緊張ゆえか、いまは顔を青ざめさせている。秀でた額の下には深い茶の瞳がきらめき、ほんのわずか栗色を帯びた黒髪を頭上にまとめている。白地に銀糸で刺繍したかつぎを被り、その下に着ているのは烏翠の王妃が危急の際に纏うことが定められている、白と朱の火事装束である。この国で王妃となる者は、宮中に入るにあたって初めにこの火事装束を身にまとうのが御法ごほうであった。

 坤寧殿の階に並んだ女官のうち、階上に立つ女官長が無事の来着の賀詞を言上し、宝余はそのまま女官長に導かれていくつもの回廊を抜けて殿を渡り、ついに新婚の洞房ともなる赤鳳殿せきほうでんに至った。そこの房室は大小いくつもの雪洞が設けられて昼のように明るく、婚儀の衣装が置かれていた。いくつもの黒塗りの箱に納められた衣装は、その持ち主に纏われるべく出番を待っている。


 宝余は女官の手を借りて火事装束を脱ぎ、肌着の上に常服を一枚だけ羽織らされ、つぎに椅子と茶を勧められた。彼女はそこで初めて、自分の喉がひどく乾いていることに気がつき、茶碗を受け取ってひと息ついたが、見守る女官達はいずれも暗く固い表情だったのでおよそ休憩する気分には程遠く、茶を飲むのもそこそこに、再び着せ替え人形となるべく立たざるを得なかった。


 着せられたばかりの常服は宝余の体から取り去られ、代わりに用意された襟の高い衣は、その筒袖には色鮮やかで幅の細い布が縞模様のように付けられている。またその上に、圧縮された毛織物に鳳凰と山川、花々を刺繍した葡萄色の上着、肩口の打ち合わせには蝶をかたどった碧玉と銀の肩飾り。筒袖、上着、毛織物――銀の耳飾は涼のものより大きく、首に下げられたのはこの国では貴重な真珠と翡翠が連なる首飾り、頭に載せられたのは銀と毛織でできた冠、そして象牙や玉の簪を何本も髷に差し込まれ、最後の仕上げは花嫁の頭から顔にかけてを覆う薄赤色の絹布で、それが宝余にかぶせられたとき、玉と絹糸でできた房飾りがしゃらしゃらと音を立てた。


 身支度ができると、王妃冊封おうひさくほうの儀式のため、今度は赤い輿に載せられ堯政殿に向かう。殿庭では官僚が位に応じて班を作って整列し、輿の入庭とともに一斉にひざまずく。輿の後ろには涼から随従してきた押送使と副使が歩む。

 輿が四爪の龍の彫刻が施された龍陛を登って止まると、盛装の宝余が群臣に姿を現し、殿の東側で西を向く。かつぎに視線を遮られて宝余には見えないが、東側には、夫となる烏翠の国君が立っているはずであった。異国からの納妃であり涼は烏翠よりも国格が上なので、王と妃は君臣を意味する南北ではなく、東西の軸に立って相対する。階上の卓には、供え物が色も麗しく並べられ、群臣は拝跪を繰り返し、王と妃も先導官に従い、互いに拝礼を繰り返す。そして、宝余を妃に封じる冊文が読み上げられた。


「……かたじけなくも烏翠の国君は天朝の勅許を賜り、涼国の公主に冊と宝を授け、ここに王妃と為したもう。謹んでお受けなされよ」


 かつぎを被った宝余は左脇を女官に支えられて拝礼し、右脇の女官が本人にかわって、恭しく冊と宝璽の載った盆を拝領した。王妃の金印には鮮やかな赤紫の紐がつけられ、玉製の冊は松明の光をうけてきらめいている。

旗君きくんの盛名が万年の栄えあらんことを!旗妃きひの慈愛が万里に及ばんことを!」

 その場の臣下は千歳を叫んで平伏と起立を繰り返し、その歓呼の声のなか、王妃はゆっくりと正殿の敷居を踏み越えた。

 その刹那、ざあっと凄い音を立てて、風が正殿の基壇から沸き起こった。風は渦を巻いて龍陛をあっという間に駆け上がり、正殿の扉を叩いた。扉を固定していた掛け金がたやすくはずれ、扉は内側にたわんだのち、今度は反動で外に開いた。

「わあっ」

 殿上に居るものも、殿下に立つ者も、みな息もできなくなり、顔を袖で覆うのが精一杯だった。

「お妃さま!」悲鳴を上げたのは王妃の脇を支える女官である。というのも、風に煽られて花嫁のかつぎがふわりと浮き、ほとんど鼻梁のところまで煽られたからである。その下に見える、赤く塗られた唇はわずかに開いたが、声が漏れることはなかった。

 だがつむじ風は、それが起こったときと同じように、ほとんど一瞬で姿を消した。したがって、王妃は素顔をあらわにすることなく、かつぎもまた元通り垂れ下がった。皆は互いに顔を見合わせ、王妃付きの女官は、みな一様に安堵のため息をもらす。夫が取り払う以前に花嫁のかつぎが落ちることは、大変不吉なこととされていたからである。


 動揺が過ぎ去った後は耳が痛くなるほどの静寂が訪れ、その場の者は居心地の悪さを隠しきれないようだった。静けさを破ったのは、王妃の立てる衣擦れの音だった。彼女は冊封を謝すため二度深く王へ向かって拝礼して立ち上がると、今度は本人に代わって押伴使が涼語で上啓した。

「烏翠の国君よ、この婚姻により、貴国とわが国とが世々友誼を伝えていかんことを」

 若い国君はわずかに頷き、言葉を発した。烏翠語であった。

「役目大儀である。我がえい姓と貴国の姫姓きせいと、二つの国姓がよしみを結び、この婚姻により永久の和平が訪れんことを願う」

 王と王妃は婚儀が終わると堯政殿を退出したが、二人とも知るよしもない。王宮のそこかしこで、既にかつぎの件を指して「凶兆」と囁かれていることなど――。

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