第5話 嵐を連れ来る藤
思ってもみなかった相手の出現に、みな一斉に下がって道をあけ、床に膝をつく。驚いたのは弦朗君と呼ばれたその男も同じで、あわてて免礼――すなわち礼の免除を示すしぐさをした。それにならい、またぞろぞろと人々が立ち上がるのを待って、彼は額をかいた。
「あれ、一体これは何の騒ぎかね」
それはよく言えば鷹揚せまらざる口調、悪く言えば緊張感に欠ける物言い、といったところである。
「光山さま、このようなむさくるしいところにご光臨賜り、恐縮の極みにございます」
こころなしか、挨拶をする女将の声も上ずっていた。それもそのはず、暢気そうな顔をしたこの男こそ、現王の従兄にして
この国の直系王族男子は「
「楼の人間が王の行列に無礼を働いたと報告を受けたので、様子を見に来たのだ。私は前職の縁があって、この一旬ほどは府中の警備を手伝っているのでね、騒ぎを放置しておくわけにもいかないから上がらせてもらったのだが――うん、私のような家格ばかりで金もない山房にとっては、こういうことでもなければ登楼できないからなあ」
光山弦朗君はきょろきょろと物珍しそうに部屋のしつらえを眺め回している。それからおもむろに燕君に向き直り、にっこりした。それは、この歳の男の笑い方とは思えない、あどけなさすら感じるものであった。
「ああ、そなたが燕君か。かねがね噂には聞いているよ、烏翠いち歌舞音曲に優れて美しく、烏翠いち
こうまで先手を打たれてしまってはさすがの燕君も矛を収めざるをえず、つつましく顔を伏せた。
「
弦朗君は、今度はからりと笑い声を上げた。
「瑞慶府の燕君の名を知らぬ者はいないだろうよ。それはさておき」
ここで少しく真面目な口調になる。
「そなたが罰せられることはないだろう、私がじきじきに王のご意向を伺ってきたからね。そなたも、そなたを高楼に上がらせた客も、両者とも無罪放免ということだ、また、青黛楼にもお咎めはないから皆安心するがよい。だが燕君よ、あまり王をからかってくれるな。そなたと違って色恋沙汰には疎いお方なのだから」
燕君はもう一度、今度はより深い拝礼を行い、無言のうちに王の寛容と弦朗君の心遣いに謝した。
「さあて、楼を降りるとするかな。だがせっかくだから、玄関まで戻る途中だけでもみな良く楼の中を見ておきなさい、来たくとも滅多に来られぬところなのだから」
弦朗君はぱんぱんと手をたたき、兵を残らず集めると、自分が先に立ち階段を下りていった。兵達はすっかり緊張を削がれ、若干ふ抜けた態でその後に続く。むろん燕君と女将も玄関まで出て彼らを見送った。
女将と挨拶を交わしてから、弦朗君は戸口に立っている燕君を振り返り、つと顔を寄せてささやいた。
「ああ、そなたは王を直接に知っていたね。まあいい、何度もいうがあまりおちょくらんでやってくれ、あれでも結構繊細な男でね、今日は特にぴりぴりしているのだから」
燕君が一言も返せないでいるうちに、王の従兄は一笑を残し、門外へとすべり出て行った。楼の一同がほっと胸を降ろし、がやがやとなかへ戻っていくなか、ただ一人だけが玄関から動かず、じっと門外の蔡河を見つめていた。
「…ふん、余計なおせっかいね」
尋常ならざる言葉が唇から漏れる。
「知っているわ、彼が『ああいう男』だってことくらい」
すでに燕君の口調には、いつもの勝気さが戻っていた。
楼を出た弦朗君は、鼻腔に残る白粉の香りを気にしながら、待っていた部下の一人に頷きかけた。
「そなた、傘か笠を持っているか?」
「は?」
部下は不審そうな顔で天を仰ぎ見た。多少の雲は出ているものの、雨粒ひとつさえない空模様である。
「藤が嵐を連れてくるよ」
依然としてぽかんとしたままの相手に、弦朗君は意味ありげな笑みをくれてやった。
「もうすぐ嵐がここまで来る。今のうちに濡れないように心しておかねばならぬが、……まあ無理だろうね。遠からず皆ずぶ濡れになるだろうから」
そしていつもののんびりした顔つきにもどり、馬に一振り鞭をくれ、瑞慶宮の方角指して駆けていった。
弦朗君がすべての任務を終え、復命するため瑞慶宮の宮門をくぐると、その殿庭では、
小柄な身体に鋭角的な
「お帰りなさいませ、いかがでしたか?」
承徳は相手に駆け寄り、それから声を潜めて
「何だかこちらでは凄い騒ぎになっていますよ」
彼のもと上司は肩をすくめた。
「ああ、早いな――もう王宮まで伝わっているのか」
承徳は双眼をくるりと動かした。
「第一、王妃の琴を蔡河にお流ししてしまったこと、第二、その琴を落とした男もまた河に転落したこと、第三、青黛楼の妓女が、迎接に出た王の行列に藤の枝を投げ込んだこと」
弦朗君は首をかしげた。
「はて。第一と第三の事件ならば私も知っているが…第二の件は知らなんだ。どういうことだろう?」
承徳は相手の考えなどどうでも良い様子で、いかにもいらいらしている顔で食ってかかった。
「それどころか三つめの件に関しては、弦朗君さまのことも噂になっていますよ?」
もと上司は目を見張った。
「私が?そういえば、さっき官僚の幾人が明らかに白眼を向けてきたばかりか、鼻を鳴らしてすれ違っていったな。無礼極まりないことだが。――で、それは良くない噂なのかい?」
「そうですよ、燕君が起こした騒ぎに関わっていらしたのでしょう?『光山さまは、もはや
承徳は、「鼻の下を長くして」の「長く」を「ながあく」と、わざと引っ張って発音してみせた。思いもかけぬ相手の言葉に、弦朗君の双の眼はほとんど真円のようになり、鳥の餌やりに使う素焼きの皿の形そっくりだった。
「鼻の下?連れ弾き?いやいや、私がそのような人間に見えるのか?本当に噂というものはあてにならないものだ。……とはいえ、どうすればよいのだろうか」
「何をですか?」
疑惑の眼を向ける承徳に対し、弦朗君は真剣な表情になって問いかけた。
「わが妻はこの噂を知っているかな。もし知っていたら何と思っているだろうな?私は今夜、光山府に帰っても果たして無事でいられるものだろうか?」
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