第1章 紫瞳の国君

第1話 絶命する波

「鳥をただの弓矢一本で殺してしまえるというのに、その私達は、大空を飛ぶことさえできない」


 少女はきっぱりと言って、視線をはるか彼方へ、城砦のように聳える雲の彼方へと投げかけた。中空には海鳥が数羽、ゆるく輪を描いて旋回している。

 そして彼女の足元には、緑色の波が打ち寄せている。波は寄せる端から息絶えていき、絶命の代償として少女の足元から砂を奪っていった。


「何が言いたいんだい?姉ちゃん」

 かたわらでは、髪を双髷そうきょくに結い、褐色の衣を着た童子がぽかんとして見上げていた。少女は左手に脱いだくつを下げ、右手に男児の手を握ってはいたが、相手の顔を見ようともせず、一心に夏の空と海を見つめていた。

 裳裾はたくし上げていないのでずぶ濡れになり、膝の上まで海水の染みが広がっていたが、本人は気にも留めていないようだった。彼女は顔を海と空に向けたまま、つぶやくように言った。


「ただ、あの鳥達を見て、心に浮かんだことを言ってみただけ。それがどういう意味を持つのか、今は考えるのも面倒だわ」

「ますますわかんないよ、姉ちゃんはいつも変なことばっかり言う」

 ようやく少女は視線を相手に向け、口をとがらせている童子に微笑んだ。

「ごめんさい。そうね、姉さんはいつも変なことばかり言っているわね」

 そうして、この二人は、またしばらく無言で水平線を見ていた。背後には緑まぶしい松林が連なり、遠く右手には張り出した岩場が見える。松の間には同じく童子が幾人か、互いに追い掛け回しながら歓声を上げている。少女に寄り添っていた童子が彼女の袖を引いた。

「ねえ、早く戻らないと、姉ちゃんの父さんがまた怒るよ」


 少女は歳のころ十六、七であろうか、身につけているものはごく普通の木綿の上着と裳で、それらは潮風と経年によってかなり色あせてはいた。しかし身なりは貧しげでもきちんと整っており、また腰から下げた佩玉はいぎょくの細工からも、彼女のそれとなく優雅な物腰からも、読書人の家庭――いわゆる書香しょこうの家――の出身であることが知られた。頭頂部の髪を小さな髷に結って余りは垂らし、そこに飾りのない白玉の簪を挿し、耳には同じく白い飾り玉をさげている。

 男児のほうは言動、身なりともに全く庶民そのものだったが、二人が気安く互いの手を握っていることからも、出自の別をいささか越える程度に親しい間柄であることが傍目にもわかった。

「姉ちゃん」

「かまわない、しばらく怒らせておけばいい」

 その口調は先程と打ってかわり、童子が目を丸くするほどに厳しく、強いものだった。彼女は睨みつけるように、飽かず水平線を見ていた。


「お嬢さま――」

 松林のほうから女の声が聞こえてきた。呼ばれた少女は緩やかな動きで振り向いた。童子のほうはびくっとし、「あ、母ちゃんだ」と言いしな、眼にも留まらぬ早さで少女の後ろに隠れた。

 戯れる童子達を蹴散らしながら駆けてきたのは、肥りじしの中年の女だった。女は少女に何か言う前にまず傍らの童子に向かい、ぜいぜい息を切らしながら叱りつけた。


頼児らいじ!また仕事を怠けているね。しかもお嬢さんにまとわりついて、失礼じゃあないか」

 頼児はいまや完全に少女を隠れ蓑にし、沈黙を守っている。少女は苦笑しつつ、懐から浅黄色の小袋を出し、紐を緩めた。なかから幾枚かの貝殻が転がりだす。桜色の平たいもの、白く渦をまいているもの――彼女は、掌の上に出来た小さな海辺を女に見せた。

「ごめんなさい、頼児を責めないで。貝殻を拾うのを手伝ってくれるっていうから、それに甘えさせてもらったの。でも早く帰してあげるべきでしたね。頼児にはおよそ役に立たないものを拾わせてしまったから」

 と彼女はいい、ついで自分を探しにきた理由を尋ねる。女は慌てて頷き、松林の彼方を指した。

「父君のお言いつけですよ、なんでも都からのお使者がお邸に来られたと」

 まあ、と少女は目を見張る。

「すぐに戻ります」

「姉ちゃん、誰かが来るの?」

 頼児が不思議そうな顔をして聞いた。少女は三度目の笑みを見せた。しかし今度のそれは、ひどく悲しげだった。


「ええ、遠いところから人が来たの。――私をさらいに来た人達がね」


 そして、また大事そうに貝の袋をしまうと、怪訝な顔をする頼児の手をとり、砂の上を歩き出した。その後を頼児の母がつき従う。

 浜を遠ざかる三人の姿を、海鳥達が見下ろしている。

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