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「青木さん!」
公演が完全に終わり、後片付けを済ませると、私は真っ先に青木さんの元に向かった。
「ああ……、真紀ちゃんか。お疲れさま。一個もミスなかったからなんかごほうびだね~」
のんきなことを言ってる青木さんの手からパンフレットをもぎ取って丸めてひっぱたく。
「結局公演で事件が起こっちゃったじゃないの!」
パンフレットをメガホン状にして、青木さんの耳にあてて耳元で叫ぶ。
「うわあ、叩くのはいいけどそれはやめてくれ、耳は商売道具なんだ」
青木さんがわたわたと私の手からパンフを取り戻そうとするけど、返してやらない。
「だって……。誰も困ってないだろう? ぼくだってあそこまでうまくやるとは思ってなかったけど、きみだってこうなることはうすうすわかっていたんだろう?」
「……」
それは……。硬直してしまった私には構わず青木さんは私より遅く着替え終わった都都が駆けつけてくるのに手を振る。
「あ、都都ちゃん! おいでおいで。よかったよ三幕の迫真の名演技。それにしてもあんなふざけた譜面よくノーミスで歌いこなせたね。さすが~」
「えへへ、そうでしょう。さすがなんです。もっと褒めてください」
「偉い偉い」
「それにしても……、あの歌姫は結局誰だったのかしらね? あれでヘタだったら許せないことだけど、前に音楽室に現れた幽霊ソプラノと同じ声だったね……。ほんとに上手」
「あ、声はやっぱり同じだったんだ」
「ええ。でも、あの歌姫さんは実体があったようですし……」
楽しげに談笑する青木さんと都都を残して、私は控室兼休憩室となっている私たちの教室に戻った。そこには、クラスメイトの菱谷君がいた。
「あ……島村。なあ……今日の劇、どうだった?」
私はへらっとした、青木さん譲りの笑顔を浮かべて答える。「私が聴きたいくらいだよ。私が一番演奏は頑張ったんだから。ねえ、私のピアノ、どうだった?」
菱谷君はちょっとどぎまぎしながらも、冷静ぶって答える。
「その……今までで一番良かったと思う、ぞ。いや、俺は大道具やってたからあんまりお前の演奏は真剣に聞けてないって言うか……そういうことじゃなくて、俺が言ってるのは、あの貴賓席の歌姫のことだよ!」
ああ、アレを歌姫、と呼んでいたのは別に私だけじゃないのか。変なところで感心してしまう。
「だって、よく考えてみろよ。誰があれをやったかってことの以前に、あれは不可能犯罪なんだ」男の子はすぐそういう言葉を使いたがる。「当時の舞台配置は覚えてるな?」
黒板を使って舞台図を書こうとする菱谷君に、まわりの子達もどんどん集まってくる。
「舞台は上手と下手側端の、それぞれ前方と後方からのみ出入りできた。なぜなら、それ以外のところは反響板で囲われていたから。もちろん、舞台から飛び降りれば前からも出ることはできるだろうが……。だけど、とにかくこれを前提としてくれ」
ここで菱谷君はごほんと咳払いをする。人が集まってきたので、ちょっと格好を付けたりしてるのだ。
「で、だ。ところで、この演劇の練習は、たしかに誰でも前から聞こうと思えば聞けたし、誰かがどこかであのアリアを聴いて覚えていた、という可能性は無きにしも非ずだが、あの完璧な歌い方を見るに、犯人は楽譜を持っていたと考えるべきだろう。そもそも、他のクラスとか、外部の人間がわざわざそんな労力を払ってまで俺たちの舞台を妨害するメリットがあるだろうか? もっと簡単に騒ぎを起こす方法ならいくらでもあるし、目立ちたかったら自分の団体でやればいい」
「じゃあ、内部犯とすると、一体誰が? まず綾錦……これは、真っ先に除外できる。おい、綾錦……いたいた、あの事件が起こったとき、お前ずっと調光室にいたよな?」
びくっ、とした綾錦さんがこちらにゆっくりと振り返る。「そう……ですけど。あの事件の犯人探しですか……? 私はあんまり……気乗りがしません」
「でも、お前の舞台を危うく台無しにするところだったんだぞ? まあいいや、それで、お前はあのとき、調光室から一歩も出てないよな?」
「ええ……。ずっと、調光板のコントロール作業をしていたわ……。でも、あの予想外の照明は、全部そういう風に登録されていて……、だから、私もタイミング通り押してたら、ああなっちゃってた、ってわけ」
ここでちょっと説明が必要だろう。調光、ってのは要は舞台照明のことで、ここの講堂の調光室では、機械にあらかじめあるシーンでの照明というのを、すべて劇の流れにそって登録しておいて、あとはタイミングに合わせてボタンを弄るだけでどんどんと次のシーンの照明に切り替わって行く、というものを導入している。よくテレビで見るような、いちいちたくさんのつまみがある機械をいじったりする必要はないのだ。
しかし、綾錦さんは、そのプログラム自体が誰かに書き換えられていて、本来なら薄明りにするシーンでなぜか真っ暗にしてしまったり、明かりを戻す際に、逆にとんでもない明るさになってしまっていた、とそういっているのである。
話し終えると、そそくさと逃げるように出て行ってしまう綾錦さん。誰もそれを留めはしなかった。
「ああ、そういうことだったのか。なるほど、ありがとう。今のセリフからも分るように、綾錦はありえない……、じゃあ藤代、大風のふたりはどうか? というと、これもあり得ない。なぜなら、藤代は舞台の真ん中でエドガーと演技していたんだから、これはいなくなればすぐにエドガー役の城崎が気付くはず。大風は……議論する必要もないよな? そもそも縛られてるんだ。じゃあそれ以外の女子は……というと、全員舞台に乗っていた、これは間違いないよな?」
「あ、録画あるよー。うちの父さんがとったやつで、あんまり画質はよくないけど」
クラスメイトの女の子の一人が小型のカメラを出す。「ほら、このシーンだっけ?」
確かに画質はよくないが、頭数の確認くらいには使えるだろう。菱谷君を含め、何人かの男子生徒が狭いカメラのプレビュー画面に顔を突き合わせて女子の数を数える。
「うん、全員居る。さて、ここでだ。この女子たちは舞台のどこにいたか……? そう、舞台を前、真ん中、後ろで三つに分けた時で言えば、真ん中だ。前ではエドガーとブリジット、リズが演技しており、この女子たちの後ろには男子が居た。つまりここの女子たちがもし舞台上から抜け出そうとしても、前にいる主役たちや、後ろに立つ男子たちに気付かれずに出ることは不可能なんだ。なぜなら、この舞台から出られるのは、舞台の一番前か、後ろからしかないんだから」
おおーっ、と声が聴いているクラスメイトから漏れる。あくまでも私に話しかけている体でいてくれる菱谷君には申し訳ないけど、私はあんまり聴く気がない。
「上手側貴賓席はこの講堂がある建物の二階から入ることが出来て、でも実は他の客席から行くことはできない。孤立しているんだ。上手側貴賓席に至る道は上手側の袖を出て、階段を上って調光室に行く道とは別の道を行けば最短だが……、たとえば上手側袖にいた反橋、そんなやつを見たか?」
「えっ? いや、みてない、けど」
満足げに腕組みをして名探偵気分の菱谷君。
「犯人はどこから来てどこへ消えたのか……」
合わせて唸って見せる男子生徒たち。もうだめだ、やっぱり耐え切れない。突然立ち上がった私に、菱谷君がびくっと肩を縮ませる。
「ごめん、でも私、犯人探しとか、興味ないから」
教室を出ると、青木さんが立っていた。「待ち伏せ? ……捕まるよ」
「まあ、いいじゃない……。それよりさ、どうするつもりなの?」
「……。わかんない。実際、私もまだ分ってないことの方が多いし」
そっかそっか、と軽く呟いて、胸ポケットに手を伸ばす青木さん。「あ、そうか。構内禁煙だから今日は最初から持ってきてなかったのか……。
じゃあ、菱谷君なんかじゃ相手にならないくらい華麗な推理を見せてあげよう」
おいで、と彼が私を手招きして連れて行ったのは、高等部の校舎でやっている、コスプレ軽音楽喫茶で。
「あ、真紀だ。おっそーい」奥の席では、すっかり傾いた陽の光に横顔を照らされた都都が座っていた。
青木さんが手慣れた様子で注文をすると(今日しかやってないはずの喫茶店なのになんで手慣れてるんだろう……。リピーターなのかな……気持ち悪い……)、すぐにくそまずいコーヒーとかお菓子が机の中に並べられる。
「ほら、真紀。そりゃ今日の公演が不本意なのは分るけど、もちょっとシャキッとしなさいよ。今から青木さんが全部謎を解いてくれるんでしょう?」
ええ、……そうね。
「さて――。もう真紀ちゃんは気づいてるみたいだし、都都ちゃんも分ってるんじゃないかな? 犯人だけは」
……。そう、そのことなのだ。
「そう、我々ならすぐに分ってしまう。これはトリックでもなんでもない。タネも仕掛けもないマジックってこういうことを言うんだろうね」
カストラート――。
私が漏らしたつぶやきに、青木さんが敏感に反応する。
「そう、正解。菱谷君が何を言ったのかは想像つくが、たぶん女性のなかであの犯行を行えたものはいないって言うんだろう? まずそれは出発点が間違ってる。そりゃそうだよ、女性にはあの犯行は無理だ。でも、男が犯人だとすれば、犯行可能な人物は何倍にも増える。そう、舞台上手で大道具を担当していた、反橋君とか……ね」
やっぱり、か……。
「やっぱりって顔をしてるね? まあいい、続けるよ。事件の概要は簡単。問題のシーンが近づくと、反橋君は舞台袖から階段を上って、貴賓席の近くまで行き、ここで純白のドレスに着替え、仮面をつける。もしかしたら、調光室を着替えに使ったのかもね……。そのあと、あとはタイミングをみはからって貴賓席に現れて、歌声を披露する――。実質的に彼がやったのは、これだけのことだ。歌い終わると彼は、明転に乗じて貴賓席からふつうに逃げ出す。ここは、なぜリズの役柄にそった衣装じゃなくて、純白のドレスを使ったことの説明になるのかもしれない。そして逃げ出した後は、またも、調光室を使って着替えたのかもしれない。……そう、それで、脱ぎ捨てられていたドレスは、おそらく最初からあったんだろう。たぶん、最初は黒いビニールかなにかをかぶせておいて見えなくして、彼は逃げる時に黒いビニールだけを持っていけばいいわけだ。目が明るさに慣れた途端、観客の目に映るのはあたかも脱ぎ捨てられているかのように見える純白のドレス。視覚効果はばっちりだね?」
ここまで一気にしゃべると、彼はまた煙草に手を伸ばそうとして、ないことに気付く。悔し紛れに棒状のスナック菓子を咥えて、再び喋り出す。
「さて。しかし、反橋君は男ではないか……。女声を出すことはできないはずなのではないか……。そんなことはない。そう、さっきも真紀ちゃんが言ったように――。カストラート、そういったけどちょっと正しくない。でも、概ね同じだ。〝男性なのに、女声を出すことが出来る――〟そういう歌手がいるんだ」
都都も私も、声ひとつ上げない。
「彼の場合は、おそらく去勢して男性ホルモンの分泌を妨げ、それによって声変りをさせないというカストラートではない。そもそも、カストラートはだいぶ昔に禁止されてるし。でも、彼は、あの年にしてカウンターテナーを使いこなす……」
カウンターテナー。ファルセットと呼ばれる裏声の一種を活用して女声と同じだけの音域を歌う技法。
「もちろん、反橋君の技術は完璧だった。たぶん、カウンターテナーの練習も血がにじむほどしたんだろうけど、それよりも、ソプラニスタとしての才能がもともとあったんだろう……。そうでもなければ、リズの、ソプラノのアリアをあそこまで自由に歌いこなせるはずはない。でも、僕たちは、あれだけ聞けば、さすがに分ってしまう。明確過ぎる音の輪郭。明るすぎる声質。ソプラニスタの声と、本物の女性の声は、やはり違う」
そうなのだ。前に音楽室に現れたソプラノも、反橋君の声だったのだ。ほんとうなら、あの時点で気づくべきだったのに……。反橋君が歌っているなら、歌手が消えるもなにも、扉を開けた時には彼は逃げも隠れもせずにピアノの前に座っていたのだから。
「さて……。ここまでは、たぶん君たちもあのアリアを聞いた瞬間に分ったと思う……だから、真紀ちゃんも、伴奏の手を止めることはなかったし、むしろ君が遠慮なく演奏を続行したからこそ、舞台全体が上演を続ける気になった、そうだね?」
わたしは、ゆっくりと時間をかけて、こくりと肯く。
「なに、別に責めてるわけじゃないよ。誰が悪いとかではないし……。さあ、これで何が起こったかの説明は終わった。じゃあ、なぜ? なぜこんなことをしなければいけなかったのか?」
そういうと、青木さんはおもむろに席を立って、喫茶店の外までふらふらと歩いていく。「ねえ、綾錦さん。僕は、きみの口から直接聞きたいけどな」
青木さんに呼び寄せられた綾錦さんは、黙然と椅子に座る。
「ほら、固くならないで。僕は別にきみを責めようって言うんじゃないから。そもそも、楽曲提供はしたものの、別にこのオペラの評判で僕の評価がどうのこうの、なんて騒ぐ気もないし。でも、きみは少しだけ、ほんの少しだけ説明責任がある、そう思わない?」
綾錦さんがこくりと肯く。唯のコスプレをした高等部の女の子が運んできたまずい紅茶で喉を湿らせて、長い瞬きをすると、話し始める。
「はじめは……小学生のころの歌唱クラブでした。女の子の中でも一番上手だと褒められていた私より、さらに褒められるのはいつも雄哉でした。しかも、ソプラノで。雄哉は、最初から音楽の神に愛されてたんです。私はいつも嫉妬していたけど……、でも、その綺麗な、ガラスで作った横笛みたいな声は大好きだったし、雄哉が、その天性の才能を、若いうちだけのお遊びとしてみなすのではなく、基礎からのボイストレーニングとか、それに加えてまだ変声期も終わってないうちからカウンターテナーの練習も熱心にやってて……そういうところは、ほんとうに敵わないと思ったんです」
でも、と綾錦さんがうつむいて歯噛みする。
「だからこそ、許せなかったんです。彼が、中学校に上がって声楽をやめると言い出した時……」
はあ、とため息。
「聴いたでしょう? あんなに上手なのに、なんでそれを隠そうとするのか……。それは、確かに男の子なのに、ソプラノの声域、歌詞ってのは恥ずかしいかもしれないけど……」
「それで、きみはあんな台本を書いたんだね?」
青木さんがぴしゃりとセリフを挟む。
「声を喪った歌姫、彼女はしかし声を取り戻して、スターダムにのし上がる。リズについて、ざっくりとまとめれば、この劇はそういうストーリーだ」
突然はじまった青木さんの解題に、綾錦さんが眉を顰める。「あれは、フィクションですよ」
「そうかもしれないね。誰にとっても、ほんとうの意味でフィクションだ。だから、ここからは全部僕の妄想なんだが――たとえば、だからといって反橋君をリズに比定することはできるだろうか? そんな単純なストーリーではない。いくらでも深読みすることはできるけど……。たとえば、鳩夷羅。このストーリーにおいて鳩夷羅の存在意義とは?
そもそも、声のきれいな鳥を出すだけなら、好声鳥でもコウライウグイスでもそれこそ迦陵頻伽でもなんでもいいのに、なんでわざわざ鳩夷羅なんていう、見た目の悪い鳥を出したのか……。反橋君の見た目があまりよくないけど、声は美しいみたいな低級な寓意? それもあるだろうけど、そうじゃないね。鳩夷羅――オニカッコウの特徴は、托卵だ」
ふう、と息を吐く。綾錦さんは憮然とした表情のままで。
「托卵、労働寄生のもっとも典型的な例だが……。これは何を暗示してるんだろうね? たとえば、君が苦労して作った舞台を、労せずして反橋君が利用すること? それもあるだろうけど、違うよね。君が言いたいのは……。巣にいる雛の中で、最も強いのは、カッコウの雛だ。大柄で、托卵される側の種の雛を蹴落とすこともある。このカッコウの雛が、反橋君だ。そうだね?」
カッコウの雛は、本能に従って、周りの雛を巣から突き落とす。悪意のない、ただ単に周りの雛よりも力が強かった、というそれだけのできごと。でも、反橋君の圧倒的な歌唱力は、おそらく周りの声楽志望の、それも女の子を深く気付付けたに違いない。
口を開けたり閉じたり、言おうか言わまいか悩んでいるふうの綾錦さん。しかし、意を決したかのように低い声で話し始める。
「……。もう、書いてる時の気持ちなんて忘れちゃったけど、確かにそういう気分だったかもしれないです。でも、ほんとうは、ほんとうに……。彼の歌声をもう一度聴きたかった、それだけなんです。こんな乗っ取りみたいなことをやろうと無理やり彼に迫ったのも全部私で……。雄哉も、顔が分らないなら、という条件で応じてくれて、もう一度舞台を踏ませるためにはああするしかなかった……」
そう、彼が女声に対して――それがいくら思春期特有の肥大した自意識によるものだとして――コンプレックスを持っている限り、舞台に出て、スポットライトを浴びることはできない。妥協点が、純白のドレスで体型を隠し、仮面で顔を隠し、それによって声だけの存在となった歌姫の姿なのだろう。
何もかもを隠さないといけない彼が再び舞台で歌うためには、あんなふうに、出来上がった舞台から、出番を盗み取ることくらいしかできなかった。
「たしかに、みんなには散々迷惑をかけたし、失敗する可能性だって高かったけど……それでも、私はもう一度、もう一度だけあの歌声が聴きたかった……」
憔悴したように顔を伏せる綾錦さん。私たちは、どうしてもその身勝手さに怒ることができなくて。
「それで? 君たちはこれからどうするのかな? クラス会議でも開いて、そこで自白する?」 しないよね、と露悪的な口調で述べる青木さん。「わざわざこんなまだるっこしい不可能犯罪……劇場型犯罪? 意味が違うか。を作り上げてまで隠そうとした反橋君の正体を、みすみすばらすわけにもいかないよね。これからもだんまりを決め込むつもり?」
綾錦さんは唇を噛みしめる。「もちろん、こんなことは犯罪でもないし、直接被害をこうむったのは大風さんくらいのものだろう……。しかも、大風さんの手足がロープで結ばれたタイミングって、舞台が暗転する直前ではないよね?」
あ、それもそのはずだ。都都が手を打って納得する。
「そう、舞台が暗転して、その直前まで大風さんの手足は自由だった。しかし、舞台が暗転してから彼女の手足を縛ろうとすると……、反橋君の歌いだしのタイミングに間に合わないね。つまり、彼女は自らの手足を自分で縛った、そうとしか思えない。つまり……彼女も共犯者だ。この劇の上演が決定した時からそうだったのか、彼女がリズの役をやることが決定してから協力を要請したのかはしらないけど……」
「最初から、です。信子は……あの子声楽は分らないけど、反橋君と付き合ってるから」
えっ、そうなの。「彼女と付き合い始めた時期から反橋君が歌をやめるって言い出して、ぜんぶ彼女のせいだと思って……。ほんとうは信子とは関係ないって、何度も説明されたんだけど、信じられなくて」
そうか、大風さんに反橋君の声を奪われた、と思い込んだ経緯がブリジットやあの演出係のキャラクタにつながってくるのか……。
「だから、わざと大風さんが舞台上で縛られて恥をさらすような計画にした? きっと反橋君の歌声を広めようとかいうお題目で彼女を誘っておいて?」
「青木さん、やめなよ」
私が青木さんの発言をさすがにとがめると、彼は横目でちらっと私の方を流し見る。「そうかい? 真紀ちゃんがそういうなら、いいけど」
「このことは……。やっぱり言えない。だって、私だけが傷つくならともかく、雄哉にも、信子にも迷惑がかかる……」
ふうん、と青木さん。そっと
「君がそうしたいというなら、僕は止めない。ただ――その身勝手さは、いつか君をエドガーにするよ」
そう言い残して、さっと席を立ち上がった青木の背中と、席に取り残された綾錦を見比べて、真紀は青木を追って、都都はそこに残った。
「綾錦さん、私はさ、別にあなたのやったことはそう間違ってないと思うよ」
都都が、組んだ両腕で顎を支えながら敢えてゆっくりとそう言う。
「そう……かしら。いろんな人に迷惑をかけたことは間違いないし」
都都は窓の外を眺める。すっかり日も傾いて、もう校庭からは校外に出ていく人の影の方が多い。そういえば、いろいろあって結局、他の団体の演奏とか全然聞けなかったな。暇があれば真紀と一緒に吹奏楽部のコンサートとか聴きたかったのに。そんなことを考えながら。
「まあたしかに迷惑は迷惑だし、これから何度も教室の中ではあの歌姫は誰なのか……という話題でいっぱいになるでしょうね。その度に貴女は肩身の狭い思いをしないといけないし、もしかしたら、学年や学校全体で犯人追求にかかるかもしれない……。そうなったら、もちろん私や真紀は口外しないとしても、他に気付いた人は何人もいるんじゃないかしら? 反橋君の生粋の高音は確かに見事だけど、最高音域でさすがに使わざるを得なかったファルセット、あれを聴けば、少し声楽に詳しい人間なら分っちゃうかもよ?」
でも、と都都は続ける。
「それでも、誤魔化し続けるつもりかしら?」
まっすぐと都都に見つめられ、少しだけ見つめ返したものの、すぐにそらしてしまう綾錦。
「ええ、そうするつもりです。……青木さんに限らず気付いた他の人が真相を明らかにしたとしても、認める気はありません」
斜め下を向いた、しかし彼女なりの決意に満ち溢れた表情を、試すような面持ちで眺める都都。「まあでも、あんなことは言ってたけど……。青木さんもどうせ、あなたの意図なんて、お見通しだったのよ」
そういって、都都は今回の楽譜を取り出す。綾錦は怪訝そうにする。
「ほら、見てよ、このリズのアリア。伴奏が、極端に簡単すぎると思わない? 嫌がらせみたいに難しいピアノ譜ばっかり書いてる青木さんがなんでここだけこんな通奏低音みたいな単純な分散和音だけしか書いてないのか……。
そう、青木さんはたぶん、分ってしまったのよ。音楽室で、私たちが反橋君の歌声を聴いてしまった話を聞いた瞬間に、あなたの台本に隠された意味を、リズのアリアに付された音域指定の真意を。だから、最悪なくてもどうにでもなるような、簡単な伴奏に差し替えた。そうすれば、たとえ暗闇の中で真紀が落ちたとしても、問題なく反橋君は歌い続けることが出来る。お客さんには、それがミスだと伝わらない。……穿った考え方かもしれないけどね」
まっ、そういうことだから。困惑する綾錦を放っておいて、都都も、すっかり前に飲み終わった後手の中でもてあそんでいたコーヒーカップを勢いよく机の上に置いて立ち上がった。
――屋上から、反橋君の声が聞こえる気がする、でも今回は本当の幻聴ね。
「ねえ、あそこまで言うことはなかったんじゃないの」
少しだけ、でも真剣に怒った声で青木さんの背中に投げかける。「まあ、そうなんだけど。……でも、彼女はたぶん、このままだと一生被害者のままだ。分るかい? 彼女は、おそらく自分をエドガーの姿に投影してるんだ……。作中で不倫するエドガーの様子から、少しは自分の身勝手さをわかっているふりをしていながら――その実、あのラストシーンを見ろよ、ずいぶん安っぽい逃げ方だと思わないか? 綾錦さんは、反橋君を歌わせるより自分が歌うべきだった。それは明らかで、やっぱりそれができなかった以上、他の行為はすべて逃げでしかない」
それは、そうだけど。
「まあ、女子中学生のやることなんて、僕にはわからないけど。エドガーの不在を言い訳にするリズ、歌劇業界の厳しさを言い訳にするリズ、リズの不貞に苦しんで見せるエドガー、どれだけこいつらは、自分のことを棚に上げて人に期待して、勝手に裏切られては被害者ぶるのか。彼らのするべきことはただ一つ、本音を明らかにした話し合いだけだったというのに」
「……。でも、綾錦さんは、自分の愛した声を取り戻すために戦ったと私は思いたいけどな」
「そうかい。まあ、それもいいだろう。……ところで、いいことを教えてあげよう。これは今回の演劇とは関係ないんだけどね――。綾錦百合、大風信子。この二人の名前は奇妙な共通点がある。まあ、分らなければあとで家に帰って辞書でも引いてくれ。そして、ヒヤシンスの花言葉は――」
あとは青木さんがくるりと後ろを振り返ってしまったので、言葉は空気に溶けてしまって聞こえない。でも、私の耳には、確かにこう聞こえた。
「復讐、だよ」
でも私は首を捻ってしまう。ヒヤシンスの花言葉? って。
「初恋のひたむきさ、じゃないの?」
鳩夷羅 田村らさ @Tamula_Rasa
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