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 音楽祭当日。

 それから毎日のように圧力を増す綾錦さんを前に畏怖したうちのクラスは、一か月間の練習を乗り切り、中間テストを犠牲にした挙句、なんとか今朝、七時に学校に集合してから始まった、地獄のようなゲネプロを乗り切った。衣装着て舞台に上がって、それだけでいつものように上手くいかず緊張して失敗する子の多いこと多いこと……。

 それでも、最終的にはなんとか形になった。この捉えどころのない作品を、みんなよく読み取ってくれた……などと思ったところでべつにこの台本の制作者は私ではない。

 綾錦さんも細かなミスを除けば、大体の演出も美術も演技も歌も思い通りに行ったみたいで、ところどころで腕を組んで肯いている。最初はむりやり押し付けられた音楽祭委員みたいな感じだったのにいつの間にこんなに貫禄がついちゃって……。

「じゃあ、あとは開演まで各自セリフの見直しに入ってください。他の団体が使うので、舞台も舞台袖も楽屋もあと十分以内に撤収。我々の公演は十三時から、その四十分前には確実に教室の方に集合してください。では、解散」

 解散の号令を受けて舞台上からわらわらとクラスメイトがいなくなっていく。音楽祭自体は九時から始まるので、もう今すぐだ。自分たちの公演前に、他の団体を見に行くことはあるだろう。

 他のクラス企画では概ね合唱企画とか、器楽合奏とか、もしくはもっともやる気のないところだとクラシックの作曲家についてまとめた模造紙を貼っているクラスが多い中、そう考えると私たちのクラスはよっぽど頑張り過ぎているかもしれない……。他に舞台を使った歌劇をやるのは、演劇部くらいのものだ。当然、ここまでに至るには綾錦さんの血のにじむような努力とか、私の血のにじんだ(こちらは本当に指先から血を流している)努力とかがある。

 その甲斐あってか、私たちの企画はけっこう好意的な意図で下馬評に上っていて、高等部でも話題になっているようだ。しかし、都都のピアノの腕の知名度に反して私が伴奏ということで、妙な意味でプレッシャーがある……。

 ピアノの位置を確認していると、すっかり人気のなくなった客席に、青木さんがいることに気付いた。「いたんですか?」

「ああ、一応出来上がりを確認しにきた……が、真紀ちゃん、あのピアノはなんなんだ……」

 ひいっ、作曲者からのダメ出しです……。「なんで和音一個も省かずに弾いてるんだ……」

「へぇっ?」

「冗談のつもりで書いたのに……。まさか全部真剣に弾いてるとは思わなかった……。二か月でよくそこまで練習したね」

 えへへ……ってこれ絶対褒めてないでしょ、バカにしてるでしょ。

「まぁ今からできるアドバイスとすれば、伴奏と言ってもあんなにガチガチにテンポキープに努めなくても、たぶんみんな合わせてくれると思うし、旋律を歌わせるふりして難しいところとかはテンポ揺らしたり逆に速くやってごまかしちゃったりしてもいいんじゃないかな。どうせ元から誰も伴奏聴いてテンポ取ってるわけじゃないし、あまりにもずれたら自分で直せるでしょ?」

 う、ガチガチにテンポ取っちゃうのはわざとじゃなくて悪い癖です……。伴奏だからテンポ揺らしたらあかんかな~とか歌ったら顰蹙かな~とか考えちゃうんです……。

「冗談であんな譜面書かないでよ……。本番上手くこなせたらなんかしてもらうからね」

「まあいいけど。それより、都都ちゃんは?」

「まだいると思うけど……あ、いたいた」

 綾錦さんとまだ会話していた都都を手で呼び寄せる。大した話ではないようで、十数秒で切り上げてこっちに来た。

「なにかしら? あら、青木さん。聴きに来てくれたんですね、嬉しいっ」

 なんだその猫なで声は。

「あ、都都ちゃん。四幕のブリジットのアリアのコロラトゥーラさ、もっと思いっきりふざけちゃってもいいと思うんだ。いや、演出がどうなってるのかはしらないけど、それに反しない限りで……」

「そうですね……。音が高いからあまり遊び過ぎて外したりぶれたりすると恥ずかしいんですけど。やってみますわ。……それと、こんな朝早くに来たのは、細かい指摘をしてくださるためだけではないですよね? 当然」

「そう、そうなんだけどね……。綾錦さん、あんなに見事な脚本を書くし、オペラの歴史とかセリフ回しについても詳しいみたいだから、ちょっと周りの人にも聞いてみたんだけどさ。彼女、小学生のころ声楽やってるよ。この町でやってたらぼくも聴いたことあるだろうと思うんだけど、彼女、転校生なんだね。他の町でやってたらしくて、そのせいで分らなかった。で、反橋君とはその時知り合ったみたい」

 そういうことだったのか……。でも、彼女が声楽やってたなんて話は全くこの練習の二か月の間にも聞かなかったし、ほのめかされすらしなかった。むしろ、練習中敢えて専門用語を使おうとしなかったりしたのは、その経歴を隠そうとしてのことなのか、とすら邪推できる。

「まあアマチュアの、しかも小学生が趣味でやっている少年歌劇団だから、あまり評判とかは聞かないけど、この話を教えてくれた人の話じゃそう悪くない印象だったらしいな。ボーイソプラノに輝くものがあったらしい……。ボーイソプラノ、ねぇ……」

 そういうことなら、鳩夷羅の台本の意味はどう変わってくるんだろうか?

「それ以上の話は聴けなかったけど……。まあ、きみたちが気になってるかと思ったから。あんまり気にしないで、本番頑張ってね」

 手をひらひらと振って、長身を折り曲げるように講堂の折り畳み座席から立ち上がると、他の団体の演奏でも聴きに行くのか、ゆっくりと歩きはじめる青木さん。そのとき、ぼそりと彼が何かを言った気がしたが、私には聞き取れなかった。


 それから本番前までの時間を、私たちも他の団体の演奏を聴いて過ごしたりしてもよかったんだけど、やっぱり落ち着かないということで最後の確認の練習をすることにした。

 さすがに今日ばかりは旧校舎の音楽室も企画に使われているので、キーボードを担いで、屋上に上がる。立ち入り禁止のはずなんだけど、鍵はかかっていなくて、音楽祭期間中だから他に人影はなかった。まぁいてもあんまり気にしないんだけど。

 校庭で演奏している団体っていうのはさすがになくて(でも午後からはマーチングバンドの演奏がある)、あんまり音を絞らずに鳴らすことが出来る。ヘタに屋内で控室とか練習室代わりになるような空き教室を探すより便利だった。

「真紀……この劇、大丈夫なのかしらね」

 キーボードの準備をしている私をよそに、一般の方がぽつぽつと構内に入ってきている校庭をぼんやりと眺めながら都都が話しかけてくる。

「? なんで? そりゃまだまだ時間があったら直したいところはいっぱいあるけど、主に綾錦さんがやれるだけやったし、大きな瑕疵はないと思うよ」

「そういうことじゃなくて……。やっぱり、この台本、狂気を感じるのよ。なんというか、大切なものの為なら盲目になってしまうというか、しかもその上、その大切さですら脆くて、幻のようなものにしか見えないというか」

「なにポエムみたいなこと言ってんのよ。あんたも、鳩夷羅の幻聴に悩まされてるの?」

 そういうと私はキーボードの音源バンクを9番に合わせて弾く。midiキーボードに録音されている音源を、シンセサイザーで弄ることのできるこのキーボードで、二日かけて作った私自慢の〝鳩夷羅の鳴き声〟だ。当然、舞台演出で使う。私が弾くわけではなくて、舞台袖で出番のない子が弾くんだけど。

「やめてよそれ……。鳩夷羅の幻聴とかはないけど、よく考えたらあの二か月前の音楽室であったソプラノの件とかもわかんないままだし……」

 確かに。綾錦さんが声楽やってたって言うなら、あの上手さも、伴奏が反橋君だったのも納得できるんだけど、どう考えてもそれはありえないよね……。どうやって部屋から消えたのか分んないし、外からまた大風さんと一緒に入ってきたってことは音楽室のどこかに隠れてたってわけでもなくなっちゃうし。

「でも怪しいよね綾錦さん……。べつにあのソプラノの犯人ってワケじゃなくても、なんで急にオペラやるなんて言い出したのか。なんか裏がありそう……」

「まあ、でも実際に行き当たりばったりになりそうだった企画をここまで持ってきてくれたのは真紀の言う通り綾錦さんだしね」

 それじゃ、私たちは結局いい演奏をするしかないからね、そういって真面目に発声練習からはじめる都都。澄んだ空に、この二か月でずいぶんと張りと艶の出てきた都都の声が吸い込まれていく。

 その声を聴いていたら、なんとなくぜんぶ上手くいくような気がした。


 そんなことはなかった。

 いざ開演すると、久々の舞台に私の脚がすくみ上る。ちょ、ちょっと待って、私だって一応小学生のころはピアノの発表会とかコンクールにも何度か出たことあるし大丈夫でしょと思ったけどこの目線の数が私に集中するのはどうしようもないのかってまぁそりゃ舞台上にまだ出演者が出てなくて下手にあるピアノしか見るものがないってそうなんでしょうけどそれにしたってちくしょうオーケストラピットがあればよかったのにっていうかなんで青木さんは序奏からこんなに難しい譜面を書いたんだほんとに和音省いて演奏してやろうか。

 開幕して、客席が静かになったタイミングですぐにでも入れと指示されていたのに、たっぷり一分はこうして硬直している気がする。いや、十五秒だったのかもしれない。とりあえず中央ハのキィを両手の親指で確認して、そこから指をずらして最初の和音の形に持って行く。私のいつもの癖、いつものやり方。

 ちょっと落ち着いてきた。だいじょうぶ、いつも通りやれる……。

 神秘和音から始まるその序奏は、ラフマニノフとスクリャービンをごった煮にしたようなふざけた音楽で、それでも夜の航海の不安だとか、エドガーの病んだ精神、それでも船の旅という要素が示唆するこれから物語が始まるという昂揚感、そういったものを感じさせて。青木さんの器用貧乏さを強く感じる一曲なのだが……。

 ほら、大丈夫だ。弾き始めちゃえば、問題ない。よくも悪くもいっぱいいっぱいだから、客席なんて気にならない。一分かそこらの序奏を終えると、エドガー役の子が舞台に上がる。お、いいぞ。テノールの抜けがよくて、ノリで決まった主役の割によく努力してくれたよなぁ、そんなことを考えるとちょっと嬉しかったりする。

「ああ、待っていろよエリザベス、わが心に咲くハマユウの花!」

 このセリフとかも、最初はエドガーのインド趣味かぶれかなくらいにしかとらえていなかったんだけど、今ではインドハマユウの花言葉が「どこか遠くへ行きたい」だということも分るし、ほんとに綾錦さんは芸の細かい台本を書いたなぁ……。ちなみに、インドハマユウのこの花言葉は劇中でも登場人物の口からほのめかされたりするので観客でもがんばればその含意に気付くことはできるのだが、インドハマユウには他にも花言葉がある。

「汚れがない」「あなたを信じて」「快楽」

 ……なんて悪趣味なセリフだろう。こんなところにまで隠されたメッセージ性に気付かなくては読み取れない演劇ってわけではないんだけど……。

 舞台は進み、リズが登場する。大風さんの自信に満ち溢れた演技! 最後までエリザベスらしさの追及はなされたんだけど、結局大風さんの健康的な魅力を隠すことはできなかった……。それだけが心残りだけど、そうも言ってられない。大げさな演技は、むしろ伝わりやすいかもしれないし。

 大風さんが大ぶりな演技で感情を切々と訴えかけるたび、エドガー役の子はその内容をすべて声に出さなければならない。「なんだって、リズ! 君のあの、どこまでも精緻な歌声は、失われてしまったというのか!」リズが声を取り戻すまでのシーンは、ほんとうに綾錦さんも台本を書くのに苦労したであろうと思われる……。それに、エドガー役の子も。

 エドガーとリズが唖を克服するリハビリを始め、なし崩し的に復縁して、見かけ上は幸せになったところ、エドガーの下宿先のポストにある手紙が届いて第一幕は終了。といっても、第二、三幕の間のように休憩は取らないので、一度幕を閉じて、二、三分で大道具を入れ替えたらすぐに第二幕だ。私はしかしお客さんの目から遮られ、安心した気持ちで深呼吸する。ここまで、大きなミスはない。

 第二幕開幕、ブリジットのご登場だ。

 当然エドガーのもとに届いた手紙はブリジットからの物だ。エドガーが帰英してその晩に向かった酒場でひとエピソードあったことがここで明かされる。

 ブリジットが舞台上手から登場して、装飾過多なコロラトゥーラで酔ったエドガーの行状を述べる。「あんなにはしゃいだ飲み方するのはロンドン広しと言ったところでエドガーあなたさまくらい。少し昔のはやりをそのまま貫いてるのはオシャレかしらと思ったらなんとインド帰りの、その日焼け跡が愛らしい!」七五調を意識して書かれたセリフは、イーストエンドでのスラングを意識しているらしい……。芸が細かい……。

 こうしてブリジットがエドガーとリズの関係に影を落としていくようになる中、それでもリズはリハビリに成功する。廃劇場で、リズの喉が、久方ぶりに音楽を紡ぎだす。

 ここまで青木さんが作った、それでもどちらかと言えばトラディショナルな音楽ばかりを聴いていた聴衆は、ここでリズが歌う『きらきら星』のフレーズに虚を突かれ、そしてすぐに陶酔したような表情になる。私もひさびさに休める運指というわけではないが、その分熱を込めて伴奏する。そういえば、演技の上とはいえ、よく大風さんは男の子に肩抱かせたりしてるな。

 ここで第二幕終了、急転直下の第三幕に入る。


 お疲れー、まだ終わってないでしょー、などの声がやりとりされる舞台裏は、これまでの順調さから明るい雰囲気だ。調光室から降りてきた綾錦さんも、問題がないことを確認してすぐに戻って行った。

 さて、このあとの三幕は、ほとんどすべてのクラスメイトが登場するシーンがある。三十人近い男女が衣装に身を包んでいる姿というのはなかなか圧巻だ。いかに既存のシャツやスカートの改造でまかなったとはいえ、衣装班の努力には頭が下がる……。

 ベルが鳴って、第三幕の会場を告げる。さて、ここからが正念場だ。

 第三幕はリズがエドガーに、彼の不在中の出来事を告白するシーンから始まる。愕然として、膝から崩れ落ちたエドガーにやさしく声をかけるのはブリジットで。うわあ、都都ったらなにあの演技、迫真じゃない……。役柄上アルトの音域から最高音域まですべて求められるのに、それを感じさせずに魅せてくる都都に、私も負けていられない。伴奏に熱が入る。

 エドガーの腰に佩いた剣が折れる演出なども、実際にやってみるとかなり真に迫るものがある。文面で見るとギャグとしか思えないんだけどね……。

 しかし、エドガーとブリジットの浮気は、決定的証拠をもってついにリズの知るところとなる。

 ある日のパーティ会場、エドガーとブリジットはともにそのパーティに参加していた。そこに、劇団のオーディションを終えたリズが、例の演出係に連れられてやってくる。

 舞台照明が限りなく絞られて、三幕、エドガーの浮気を知ったリズのアリア、『私の心の外にある私』。

 教会旋法を用いた少し特殊な調子は、ピアノの序奏によって導入される。とにかく、まるで本物のオペラ歌手のようにピアノを歌わせる。舞台後方にはクラスの綾錦さんや大風さん、都都を除くすべての女子、ほとんどの男子が手に手にグラスを持ってパーティ会場であることを再現している。

 舞台前方では、上手で、美しいドレスを着たリズが、舞台中央、パーティ会場でエドガーとブリジットが交わすキスシーン(もちろんするフリである)を目撃する。

 膝から崩れ落ち、顔を手で押さえるリズ。彼女に控えめに与えられるスポットライト。音楽は一度潮が引くように抑えられ、そして完全な無音が講堂に落ちる。

 さて、ここからが勝負だ。印象的な和音の連打が数小節、そしたらリズによる、このオペラ中最も抒情的で、感傷的なアリアが流れだす。一番の見せどころであり、青木さんのここ数年でも傑作と言える仕事を、今からやろうとしているのだ。

 丁寧に、しかし大胆に私が鍵盤を叩こうとしたその時――


 舞台照明、客席照明、スポットライト、すべての光が一度に失われた。

 私は一瞬恐慌をきたす。こんな演出は、聴いていない! 調光室の方を見やっても、こちら側からでは光漏れを避けるカーテンのせいで中の様子が分らない。このミスに気付いてないのだろうか? ええい、ままよ、すこしざわつき始めた客席を黙らせるためにも、私は演奏を始めた。

 しかし……数小節後、私の伴奏に乗ってきたのは――

「信じられない! 一度は天使と思ったあなたから

 漏れ出る背徳の あまりに暗く、みじめなこと――」

 たしかに、信じられないことではあった。でも、その歌声の美しさに一瞬我を忘れたのも事実だ。

 しかし、おかしい。舞台上のリズは口を開かず、二階席のはずれ、調光室のすぐそばにある貴賓席から、その歌声が聴こえる。暗闇に慣れた目で声のする方角を見やれば、純白のドレスに包まれ、顔を仮面で隠した人影が、本来大風さんが歌うはずのリズのアリアを熱唱している。それは、堂々たる立ち居振る舞い、完璧な演技、歌唱力、どれをとっても、生粋の歌姫だった。

 本来ならば、ここで演奏をやめるべきだったのかもしれない。でも、私にはどうしてもそうすることができなかった。なにかに引きずられるようにしてピアノの鍵盤を叩き続ける。元から、このオペラ中でもっとも質素な伴奏ということを抜きにしても、貴賓席で歌うなぞの歌姫とは、一度も合わせたことがないはずなのに、散々練習してきた大風さんのリズよりも、あまりに寄り添うことが出来過ぎて。

 観客もそういう演出だと思ったのだろうか、ひそひそとした声は止み、むしろ切迫した哀切を奏でる歌姫の迫力に呑まれてしまっている。私も、ピアノを弾いていなかったら、完全に呑まれていたかもしれない。いや、私も結局歌姫に魅了され切ってしまっていたのだろう。真っ暗闇の中で没頭するように演奏する私の頭の中には、もう完全にその歌のことしかなかった。

「地獄の火をこの手に灯し しかしそが焼くのは彼の身か我が身か

 教えてください 教えてください――」

 あまりに完璧なそのアリアは所定の時間できっかりと終わってしまい。放心したかのように最後の和音を押し、ペダルをいつもより長く踏み続けていた私はそれに気付いて慌てて足を離す。

 その瞬間、舞台、客席、足元灯まで含めたすべての光がいっぺんに最大光量まで回復する。あたかもそれは神の光のようで……。しかし、まったくの暗闇から突然大量の光を浴びせられ、その場にいるもの全員の目が一時的に機能しなくなった。瞬き数回、やっと視力が戻ったときには……。

 貴賓席には、脱ぎ散らかされた純白のドレスが、抜け殻のように崩れているだけだった。


 こんな事件の後でも、舞台は誰によっても中断されることなく、三幕の終わりまで何事もなかったかのように続けられた。むしろ、歌姫の演技に触発されて、他の子もやる気になっていたみたい。

 しかし、光が回復した後、通常の照明に復帰した時、本来のリズ役である大風さんの手足がロープで簡単に縛られていたのは劇場内に不穏な空気をもたらした。今のは、演出ではないのではないか? と。もちろん、演出などではないのだが、それを悟らせてはいけない。舞台袖から反橋君が出てきて、ロープをすぐにほどいて去って行った。そのため、観客には、今の行為はなんだったのだろうと、多少の不可解を残しながらも、劇はそのまま続行することになる。

 そして、エドガーが鳩夷羅の鳴き声の幻聴に悩まされている、セリフのないシーンを終えて、第三幕は終了。

 第三幕が終わり、急遽、舞台袖で綾錦さんによるミーティングが開かれた。

「今のは、不慮の事故です。……何が起こったのかは……分りませんが、すべて話は舞台が終わってからにしましょう。誰も怪我していませんね? 誰もいなくなっていませんね? 続けることに意義のあるものは? いないですね? では、あと第四幕、どうかよろしくお願いします」

 この迫真の綾錦さんのセリフに、一言も反駁することのできないクラスメイト。綾錦さんが調光室に駆け戻ると、それを見た全員が次の準備に取り掛かった。第四幕、開場。


「ああ、リズ。最後まで君のその表情の意味が分からなかった。君のことなら、朝、窓ガラスについた水滴をなぞることが好きなことも、テニスンよりも、ワーズワースよりも、ミルトンを愛していることも、全部知っているつもりだった。だけど、その表情は、笑っても泣いてもいない、その表情だけは、意味が分からなかったんだ」

 エドガーの切々たる朗唱。四幕もほとんどラストのシーン、リズが浮気相手の、劇団の演出係と会話しているところを見てしまったエドガーの独白だ。

 独唱が終わると、リズがエドガーに気付き、満面の笑みで駆け寄ってくる。もはやその満面の笑みですら耐えることのできない彼は、リズを突き飛ばし、胸を手で押さえて舞台下手に消える。

 暗転。舞台にはもうリズしか残っていない。スポットライトを当てられたリズは、エドガーへの本当の想い、しかしそれが二度と届かないことを歌う。

 リズの歌は誰にも届かない。どんどんとデクレッシェンドしていくその歌声は、キーボードで作られた電子音の鳩夷羅の鳴き声でかき消されていく。


 Kjwo'elll'kjooelll'kjwa'eelll――――

 Ko-elll'kjwo'kjwo'elll'kjwo――――

 Ko-el! Ko-el! Ko-elll!


 こうして第四幕が終わると、客席は一瞬の静寂の後、万雷の拍手が湧きあがった。うん……確かにいい公演だったよ……。私の目にもちょっと涙が浮かぶ。

 しかし、カーテンコールで出てきた綾錦さんの表情は、さすがに曇り一つないということはなかった。

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