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 わかってたことだけど、そもそも音楽祭の委員を決めるだけでこれだけ揉めたようなクラスで、主役を決めるなんてことが出来るはずもなかった……。

 我々のクラスがやることになったオペレッタ(というお題目で行くらしい)《鳩夷羅》は、十九世紀初頭のイギリスを舞台にした悲恋ものらしい。

 大英帝国全盛、インド総督(当時はベンガル総督という名称だったが、ここでは分りやすさを優先する)が治めるマドラスの商館で書記官として働いていたが、インド南部に特有の熱病と毒にあてられて、精神と体調を崩した美青年、エドガーが、イギリスへ送還されるその船の上からストーリーは始まる。ストーリー冒頭とは思えぬ重厚な序曲はこういう鬱屈としたシーンであるからこそ用意されたものなのだ。

 イギリスに帰った彼を待ち受けていたのは彼が本土に置き去りにした元恋人、リズの変わり果てた姿。声楽を志していたはずの彼女はしかしエドガーと同じく心の病を抱え、心因性の唖となってしまっていた。心に抱えた空虚を互いに埋め合わそうとするふたり、力を合わせて唖を乗り越え、リズの美しい歌声を取り戻そうとする努力は、ひとところでは成功を見せるが、エドガーの不在の間に悪い男にだまされたのか、リズはときおり翳を見せ、エドガーの方はインドで飽きるほど聞かされたオニカッコウの鳴き声の幻聴に悩まされるようになり。

 この見慣れない単語の《鳩夷羅》というのはインドの仏典に現れるオニカッコウの異称らしい。読みは、「クイラ」。ほんとうはとても美しい声で鳴くことで有名な鳥で、しかしここではその美しい声がかえって禍々しいものとしてエドガーを脅迫する。

 ご想像の通りこのままバッドエンド直行の、とても中学生が書いたとは思えない後味の悪い作品で、ありがちなヒロイズムといったものはかけらも感じられず、ヒロイズムに酔いたい年頃の中学生たちは役に立候補を、と言われてもなかなか手が上がらない。

 もちろん主役級の二人が決まらなければ当然脇役も決めることができず、いつかみた、膠着した教室の状況が一週間ぶりに再現されているというわけである。

 小柄で、ほとんど手を入れていない制服にまだ着られている感じがぬぐえない綾錦さんは、教壇で、教室の中の無関心や無気力といった悪意にさらされて参ってしまっている。だがしかし、劇をやることを採択したのは我々クラスメイトなのだ。どんな脚本が来ようと、文句をつけるべきではないのだが、どうしても教室内にはなんでこんな脚本が……と言った空気が流れ始めている。

「っていうか、こんな脚本書いたのはあんたなんだから、百合がそのままヒロインやればいいじゃん?」

 クラスの中でもちょっと不良グループに属するほうの女子が綾錦さんにヤジを飛ばす。縮こまって言葉一つ返せない綾錦さんを庇って副委員長たる大風さんが庇うように前に出る。「じゃあ、あんたがやる? リズの役」

 ヤジを飛ばしたほうの女子もバツの悪そうな顔になって異論を引っ込める。たしかに、リズは薄幸そうではあるから綾錦さんでも演じられないこともないだろうが、こういってはなんだが彼女には華がない。

「じゃあ、信子がやったらいいんじゃない?」

 クラスの隅でいかにも興味なさげに集まって関係のない雑談をしていた女子グループから声が上がる。

「え、ウチが?」

 困惑して見せる大風さん。たしかに、大風さんはそこそこ身長がある(私もそれなりにあるのだが、それよりも高く、一七〇センチはある)上、顔も目鼻立ちのくっきりした美人、といった感じだから、舞台映えはすると思うのだが。

「でも、あんまりリズの雰囲気にぶっちゃけウチあってないっていうか……」

 アハハ、と笑いをもらして手を軽く顔の前で振る大風さん。リズは作中に体型にからむ描写などはないものの、どう考えても薄幸の美少女で、大風さんのような健康的美少女ではないだろう。

「えぇ~、だって、そんなこと言ったら、うちのクラスでそういう役に向いてるのって誰よ」

 ここでなぜか視線が私に集まる。え、なんで?

「まぁ、真紀は確かに翳のある笑い方するけど、これはこれで薄幸の美少女じゃないから……」

 都都が苦笑いしながらこぼす。それ、どういう意「じゃあ、いいわよ。ウチがやるわ」

 大風さんが宣言する。「音楽祭の副委員長だけど、文句ないわよね?」

 実際、ほかにだれも手を挙げる者もなく……。え、いいのか。というか、綾錦さん的には原作者なのにイメージしてたクラスメイトとかいないの?

「いえ……。特に……。信子がやってくれるなら……」

 民主主義だ……。まばらな拍手がこぼれ出す。大風さんはそこそこ男子に人気があるので(恋愛対象としてよりも、女子の中では気さくに話せるポジションとしてだが)、すぐにエドガー役も立候補が上がり、すんなりと配役はきまっていった。


「なんで私がブリジット役なのよ!」

 なんで、と言われましてもねぇ。あの会議でプリマ二人の配役がすんなりと決まった後はほかの端役も決まり、しかし最後まで残ったのがリズの恋敵役のブリジットなのだ。

 ブリジットの作中での役割というのがこれまたひどいもので、不在期間中に不貞を働いた――といっても、これはエドガーの方がリズに何も告げずにマドラスへ逃げたという経緯があるため適当ではないと思うが――リズへの鬱屈を抱えたエドガーが、帰国してからのリズとのすれ違いにも耐えかねて、ついに不倫関係を持ってしまった女なのであるが、こいつがまた性格が悪くて、エドガーが東インド会社で儲けた金にしか興味がないのが丸わかりで、そのお金にあまり期待できないと分るや否や手のひらを返し、おまけに自分の被害者意識ばかり過剰で、本気で悪気はないしリズにも敵愾心をむき出しにしてともう最悪だ。

 彼女のヒステリックな憤懣の発露たる《牝猫のアリア》は(ひどいタイトルだ)しかしこのオペレッタ中でももっともテンションの張り詰めた、ともすれば崩壊しかねない、私見では一番の難曲だと思うのだが、まぁ当然のことながらとんでもない高音を要求される。このオペレッタ中でも最高音だ。コロラトゥーラを散々多用したカデンツァの末尾におけるE6はむせび泣いて消え入るようにデクレッシェンドする。

「出るわけないでしょ!! 夜の女王のアリアでF6なのよ!? 音大生が泣きながらレッスンしてるような音域になんで私がチャレンジしないといけないのよ!」

 まぁ、C7まで出たって言うソプラノもいたみたいだし……。

「こんな事だったら大人しく伴奏してればよかった……!」

 なんでこんなことになったかというと、ひとえに都都が身の振り方が上手でないせいというか、そもそも都都はピアノ伴奏をしない時点で、大方の予想から外れているわけで、しかし彼女のように音楽的知識の豊富なひとを裏方の作業に回すのも意味が分からず、あれよあれよというままに一番面倒な役回りが都都に回ってきたというわけである。推薦された当時はどうでもいいみたいな顔をしながらまんざらでもなさそうな顔をしていた都都が台本と楽譜に目を通した第一声がこれである。そもそもピアノの腕ほど歌は全く上手ではないって都都は自分で気づいていなかったんだろうか……。

 まぁ、たしかに全員が台本に目を通さず、綾錦さんの簡単な説明だけで役を決めるってのもいかにも学芸会っぽい雑さでどうかと思うけど……。

「やるからには真剣にやるわよ……。おばあさまが聴きに来たときに生半可なものを聴かせるわけにはいきませんからね……」

「あんたのおばあちゃん、声楽科の出だもんね……」

「ほら、早速合わせるわよ。私の曲、カデンツァメインであんたの伴奏はそんなに難しくないから真紀は初見でもいけるでしょ」

「無茶言わないでよ、っていうか私は私で他に練習す」

「家でやりなさい」

 なんてやつ。「あれ?」

 あれ? 都都の非道な発言に眉を顰めて遺憾の意を示していると、都都が急に立ち止まり、それのおかげで私も異変に気づいて立ち止まる。音楽室の閉ざされたドアから、ピアノ伴奏が漏れ聞こえてくるのだ。都都が耳に手を当てて、わざとらしい困惑顔を作る。

「まだよく楽譜憶えてないけど、これリズのソロパートじゃない?」

 しっとりとしたピアノ伴奏は、私がよく覚えている。間違いなくエドガーとブリジットとの浮気に気付いたリズの独唱だ。伴奏が一番簡単そうだったので最初にやってしまおうと楽譜をもらってすぐにさらったので覚えている。

「そうね……誰が弾いてるんだろう。簡単だから誰にでも弾け……っ!?」

 ピアノ伴奏の序奏が終わったとき、ソプラノの流麗な旋律がそれに乗った。

 完全に伴奏と息の合った、のびのびとした歌い方、すこしかすれた、だけどハリのあるリリコスピント。

「うまい……。これ、絶対歌ってるの大風さんじゃないよね?」

 都都が首をかしげる。「そうだと思う。……正直、大風さんはあと二か月練習してもこんな声は出ないと思う」

 急ぎ足で音楽室に向かい、ドアを開ける。空気が揺らされ、旧式のドアが軋む音に怯えたかのようにふるえて途切れるソプラノ。

 ピアノ椅子に座っていたのは、同じクラスの反橋くん(名前は雄哉、だった気がする)である。こういったらなんだけど、あまり目立たない子で……今回も役はなんだったっけ……? 裏方じゃないような気はするんだけど……。男声モブだろうか。小学校の高学年でこちらの地域に引っ越してきた彼は、転校したあと友だちを作ることができず、そのせいか中学でも知り合いが少なくて……、ということなのかそうではないのか知らないが、なんにせよ友達が少ない。

「えっ……と、いま、ソプラノやってたのって……?」

 都都が遠慮がちに、反橋君に問いかける。それもそのはずで、私も都都も、というかクラスの女子のほとんどが彼と話したことはない。それは遠慮がちになろうというものだ。

「え、いや、その、なんでも……ないです」

 中肉中背よりは少し肉が多めの彼は、いかにもおどおどと、慌ててピアノの上の楽譜を寄せ集める。

 机の上の楽譜を丸めてこそこそと出て行ってしまう。ちょ、女声は? 今まで一緒に練習してたんじゃないの?

 胸に抱いた楽譜に目を落として(女の子みたいなポーズだ)、早足で逃げる彼を私たちは呆然と眺め。

「……? 結局あのソプラノは……? 準備室に入ったわけじゃないわよね……?」

 と言いながら準備室の中をのぞき込む都都。当然ながら、誰もいない。

「この部屋の入口は二か所しかないんだし……、準備室にいないなら私たちが入ってきたドアから出て行ったの? 気づかないなんてこと、ある?」

「そもそも、私たちがドアを開けてから声が途切れたような気がするけど……」

 以前にもこんな事件に立ち会ったことがあるような気がするぞ……。音楽室イコール幽霊みたいな風潮はよくない……。が、再現性という面でいえばむしろ幽霊現象が科学に近づいたのか……?

 ドアの向こうを見ても反橋くんの背中すら見えず。「幻聴……? でも私だけじゃなくて真紀も聴いたのよね」「うん……」

 あんなに上手なソプラノがいるのなら、なんで大風さんがプリマをやんなきゃいけないんだろう……他のクラスの子なのかな。

「まあ、いいわ。それよりピアノが空いてるなら練習しないと……。あのピアノを私たち以外でも使う人っていたのね……」


 練習は酸鼻を極める。都都もいきなり最高音を要求されるような難曲から始めはせず、それよりは難度の落ちるものからなのだが、それでも音が取れず、まぁやってみればわかると思うのだが、ほんとうに独唱というのは難しい。都都はそれでもまだ人前で演奏することに慣れているからいいのだが、声をまっすぐ保つだけでも相当な体力を使うことがすぐわかるだろう。

 しかも、西洋音楽的なフレーズのメリスマに無理やり日本語の歌詞を当てなきゃいけなくて、このあたりも日本語でアリアをやる難しさの一つだろう。

 なまじ耳はいいだけに満足がいかないのか、何度も何度も同じところをやり直したりして、その度に大仰に首を振って不満をあらわにする都都。「もう楽譜は読めたんだし、それ以上やっても喉潰すだけだよ……? やめとこう?」そもそも、本気でやるなら基礎のボイストレーニングからやるべきなのでは。

「うー、もうダメだー。やっぱり音楽祭は私と真紀のピアノ連弾でよかったんじゃないかしら……」

 それじゃみんなが参加できないでしょ……。

 都都がこりずに歌い出そうとして、あわてて伴奏に取り掛かろうとしたとき、また音楽室のドアが開いた。

「いるかし……あ、いたいた」

 大きな動きで音楽室内に入ってきたのは大風さんだ。綾錦さんを伴っている。

「島村さん、伴奏お願いできるかな……?」

 あー、そういう……。「別に都都、もう今日は練習いいよね?」

 不服そうにするが、それでも引き下がる都都。「うー。明日も練習だからね……」言い残すと、準備室の方に引きこもって自分ひとりでピアノを弾きだした。

「あは……、追い出したみたいになっちゃった。ごめんね」

「まぁ、でもリズはブリジットにとってはメスネコなわけだし……」

 綾錦さんが漏らす。なんだ、そうすると私がエドガーなのか。エドガーなので、リズの声を取り戻すためのレッスンに付き合わなくてはならない。

 練習を始めてみれば、大風さんは思ったよりも上手であった。リズは気弱で薄幸というイメージがどうしてもリブレット(台本のことだ)からはするのだが、舞台慣れしていない大風さんが見た目にそぐわず少し縮こまった歌い方をするのはなんとなく、声楽を志していながらいまひとつぱっとしないリズのキャラクタに通じるところがあった。

 もともとリズは唖という設定なので、アリアはそう多くない。彼女は独唱やセリフよりも、身振りで感情を表すことを要求される。綾錦さんもしかしとんでもない脚本を書いたな……。歌劇と言いつつ唖のキャラクタとは……。もちろん、エドガーとのリハビリによって声が出るようになってからは、歌のシーンも入るが。

 廃劇場の控室に勝手に忍び込んで夜な夜なレッスンを繰り返すエドガーとリズ、その甲斐あって声がほんの少しだが出るようになったリズが、久方ぶりに自らの喉から出る歌声を、一音一音確かめるように歌う「きらきら星」のシーンなどは感動もの(になる予定)だ。

「そういえば、さっきリズのアリアを歌ってる声が音楽室から聞こえたんだけど……、心当たりはない?」

 練習が一区切りついたころ、私はそう聞いた。このセリフに大風さんよりもむしろ綾錦さんの肩がびくん、っと軽く震える。

「あの、え……? リズのアリア……? でも楽譜は……」

 そうだ、スコアか楽譜を持っていないと、そもそも歌えないはずで、スコアを持ってるのなんて青木さんとか私とか綾錦さんとかあとなぜか都都くらいで、パート譜の方は大風さんが持っているはずで。

「信子、楽譜ほかのひとに見せたりした?」

「したかもしれないけど……よく覚えてない」

 そうか、そもそもどうやって音楽室から居なくなったのか、ということの他にも、どこからそのアリアを知ったのか、というのも問題なのか……。上演二か月前にしてすでに他のクラスに情報がばれてしまっている……とは考えづらいし、やっぱりうちのクラスの子なのかな。

「ピアノは反橋くんが弾いてたんだけど……」

「雄哉が……? あっ」

 なにかに気付いたように綾錦さんが目を見開く。雄哉? 名前で呼ぶような関係なの?「何か心当たりでもあるの?」

 私の疑問にしばらく答えず、なにか考え込むような様子を見せる綾錦さん。なかなか答えてくれないから私がその目を覗き込むと、慌てて、

「……いや、彼にそういえば、譜面は渡したな……って。それだけ。あの、じゃ、わたし用があるから、この辺で帰るね」

 途端に挙動不審になって荷物をまとめだす綾錦さん。「あ、待ってよ百合」大風さんがその様子に慌てて自分も荷物をまとめだす。

「ごめんね、島村さん。ばたばたしちゃったけど、また練習見てねー?」

 ……行ってしまった。都都が物音に気付いたのか出てくる。「なに、どうしたの?」

「……わかんない」


「また君たちは性懲りもなく音楽室でポルターガイストに遭遇して来たのか……」

 青木さんが頭を抱える。私だって頭を抱えたい。

 音楽室で謎のソプラノを聴いたあの日から、なぜか旧校舎の音楽室はうちのクラスの練習場のような扱いになってしまい、毎日ソロパートのある子が押し掛けて私に伴奏を頼んでいった。めまぐるしく入れ代わり立ち代わりする子の伴奏をやらされて、へとへとになって帰ってくるともう私の家の喫茶店も終業時刻の八時を過ぎているのだが、今日はなぜか終業時刻を過ぎても青木さんは粘って楽譜を書いている。

 なので、これを幸いにということで青木さんに某音楽室の謎のソプラノについて話して聞かせたのだ。

「と、言われてもさすがに僕もその程度で誰がやったかなんてわからないけど……。新作劇で、しかも学校なんて場所で、なにか曰くがついてるわけでもないだろうに……。それとも、あの学校の音楽室とか、劇をやる講堂って前に本番直前に喉をつぶして歌えなくなった歌姫とかいるの?」

 いません。

 写譜ペンをくるくると回して考え込むようなそぶりを見せる青木さん。「まぁ、でも……もしかしたら……ということもあるな。う……ん、そうだとしたら、きみたちのほうが気付くとすぐに気付くと思うけど」

 思わせぶりに小声でつぶやく。「はぁ~~~? わけわかんないこと言ってないで教えなさいよ」都都が青木さんの肩を揺さぶる。

「いや、例によって例のごとく僕の口から言うわけには……。まぁ、でも……んじゃないかな」

 リブレット?

「うん、僕の思い過ごしだといいんだけどね……。どうもこのリブレット、きな臭い気がするよ」

 ……? うーん、そうだろうか。私が一回読んだ限りでは、とても中学生が書いたとは思えないほど陰鬱だけど、それだけに分りやすいというか、バッドエンド主義みたいなのが透けて見えて逆に安心みたいな……。

「そういうことじゃなくてだな……。まあ、僕は仕事に戻るからこれ以上邪魔しないでく」

「仕事に戻るな! とっくに営業時間過ぎてるのよ!」

 軽く頭をはたくとそこで青木さんがはっとしたかのように時計を見る。「なんだこの時間は」

「なんだじゃないでしょ、早く帰ってよ。掃除できないでしょ」

 肩をすくめて机上のものを片し始めたので手伝ってあげる。

「例えば……。この物語にはなぜ鳩夷羅が登場しなければいけないのか。なぜリズは声を喪ったのか。エドガーは誰なのか……」

 片づけている最中、青木さんは表情のない顔でうつむいて、囁くように独語する。その様子があまりに真剣で、思わず手首をつかんで、顔を覗き込む。「大丈夫?」

 へなへなとした笑顔で青木さんは応える。

「いやあ、別に人が死ぬ、とかそういう話じゃないからね……」


 さてさて。そんならリブレットを読み返そうじゃないの。

 前述の通り、オペレッタ『鳩夷羅くいら』は十九世紀イギリスを舞台としたロマンスもので、その中核となるのはインドはマドラスで東インド会社付きの商館で書記官として働いていたが、現地で体調と精神を崩し、イギリスに帰国することになった青年エドガーだ。まあ、形式的な問題で全然オペレッタとは言えないとかいう問題は置いといて。

 エドガーがマドラスに発つ前まで付き合っていた女の子がリズだ。本名は当然エリザベスだけど。声楽を志していたんだけれど、まったく成果が出ず、それだけならまだしも結果のでないことに心を病んだリズに愛想を尽かしたエドガーが、逃げるようにして出国したことから二人の擦れ違いは始まる。

 東インド会社での勤務は、インド人への搾取を目の当たりにすることだったり、密林から聞こえる鳩夷羅――オニカッコウの鳴き声だったり、朝から晩まで一定して暑いその気候だったり、とてもではないが初の近代的株式会社とは思えない封建的な社内構造だったり、上司からうけるハラスメントだったり、そういったものがエドガーの心を苦しめる。当然、インドの現地女に手を出す気もなく、かといって社内にはヤクザ上がりの半貴族みたいなのしかいないしで、ここらあたりでエドガーは未練ったらしいリズへの愛だか執着を思い出して、ついに帰国する。

 この帰国の途上、船上のシーンから劇がスタートして、いきなりエドガー役は長々としたレチタティーヴォを要求される。とにかくなよなよとした、上っ面だけの愛を朗唱する。大体のここまでのあらすじというのをここでエドガーが語るわけだ。

 イギリスに着いたエドガーは足取り軽く、リズの元を訪れる。しかし、出迎えるリズの表情は暗く。おまけに心因性の唖にもなっていて。ここでもクソ男っぷりは発揮されて、そういったリズの翳には全く気付かないでよりを戻そうとするエドガーに対して(ここでは当然エドガーのアリアが入る)、それを承知してしまうリズもリズだと思うのだが、こうして絶対にうまくいきそうもないよな……みたいなカップルは復活する。

 でもこの辺はさすがに筆が上手くて、まだ物語はもしかしたらハッピーエンドで終わるんじゃないか、という希望を持たせたまま、それを推進力として進んでいく。

 エドガーとリズは、唖を克服して再び声楽を志すためのリハビリを通じて昔の愛を取り戻そうとする。その甲斐あってか声の出るようになったリズの、しかしその口から出るのはエドガー不在中、他人になびいたことに対する懺悔で。

 表面上では赦したふりをするものの根に持つタイプのエドガーは、仕返しというわけでもないがイースト・エンドの女と不倫関係に落ちる。これがブリジットだ。

 ブリジットは庶民向けの居酒屋で働く女中で、つまり半ば商売女みたいなもんで、翻ってリズはそこそこ育ちのいい名家の女の子で、こういう女を選ぶところにエドガーのくだらない男としての全てが詰まっている。エドガーはすっかりリズのことなんてどうでもよくなったみたいな振りをして、ブリジットと親密になってみたりするのだが、その間もずっとエドガーは鳩夷羅の鳴き声の幻聴に悩まされ続ける。

 こんなダメ男放っておけばいいのにそれでも依存してしまうところがリズの悪いところで、エドガーの方もぶっちゃけリズに構ってもらいたくて不倫なんてしてるものだからちょっとリズに泣かれてみればすぐにブリジットと縁を切り、リズの方にすり寄って行くけど、それをよしとしないブリジットはひたすらに陰湿ないやがらせを仕掛けてくる。

 そして……ここからの展開がすごい。

 あるとき突然、エドガーは、リズがことに気づいてしまう。それは、単に性格がどうのこうのとかではなくて、純粋にリズは、。これまで地上で最も美しいと思えていたその顔は、突如エドガーにとって客観的なものになってしまったのだ。

 リズは、醜女というわけでは全くない、ないが、今にも壊れそうな笑みとか、翳りのある表情とか、そういった彼女の美しさみたいなものは、全部エドガーの主観によって糊塗された魅力であって、リズ本来のものではなく、つまりエドガーが全くの第三者的な視点に立ってしまったそのとき、リズに感じていた愛着は、あっさりと消え失せた……。

 ここでエドガーが腰に佩いた剣が折れるだけ、という、台詞すらない謎の一幕が入るのだが、どう考えてもこれはエドガーの愛が失われたことを示しているだけでなく……。

 そして、ブリジットはまんまとエドガーと婚約まで取り付ける。それを知ったリズは、それでもなぜかエドガーに対する思いを捨てられず、ロンドンの劇場でスターダムにのし上がることで彼の気を取り戻そうとする。

 一方、エドガーとブリジットはしかし、もとからエドガーの方はリズに対する屈折した思いから、ブリジットの方は名家のお嬢様から男を寝取った時点で目標を達成してしまった気分になり、そもそもエドガーが東インド会社を途中退職したことによってほとんど財産を持っていないことが分ると、この二人の縁も離れていく。

 そして、失意のうちに酒とアヘンに溺れるエドガーのもとに、リズがロイヤル・オペラ・ハウスで初めて舞台を踏むという知らせが届く。劇団に入れたという知らせすら受けていないエドガーは、リズの思惑通り、慌てて、家財を売ってまで最高級の劇場たるオペラハウスのチケットを購入する。

 ドレスコードも守れていないような格好でエドガーが劇場に赴くと、そこには輝くような演技と歌を見せるリズ。リズは、ほんとうの美しさを手に入れたのだ。

 終演後、リズに会うため、ガードマンを押しのけてリズの楽屋に向かうエドガー。しかし、彼はリズと、劇団の演出係が話しているところを階段の陰から盗み聞いてしまう。そして、彼は真実を知る。

 エドガーの不在中、この男とリズが不倫関係にあったということ。

 リズがこれほどまでに早く役をもらうことができたのは、この演出係と関係を持つようになったからだということ。

 これでリズがほんとうに幸せそうな顔をしていればまだいい、しかし、そのかげりのある表情は、舞台の上で見せたものとは違って、帰国したエドガーを迎えたあの表情にそっくりで。

 呆然と立ち尽くすエドガーを、演出係の去った後に見つけたリズが見つける。エドガーは半ば放心したまま、駆け寄ってくるリズのその顔を見る。

 リズの顔に浮かぶのは、満面の笑みだった。


 そして、暗転し、エドガーの自殺をほのめかすような、リズの切々としたアリアで唐突に舞台は幕を閉じる。鳩夷羅の鳴き声に見送られながら……。


 これは……。拍手喝采はもらいがたそうだ……。

 しかし、この台本からいったい青木さんは何を読み取るというんだろう。もしかして、あんなおとなしそうな顔をして綾錦さん、どろどろの恋愛してるんだろうか……。

 そもそも、この劇のタイトルはなんで《鳩夷羅》なのか。

 う……ん、いまいち綾錦さんが何かの意図があってこの台本を書いたとは思えないんだけど……。

「鳩夷羅」を辞書で引いても、ろくな記述は出てこない。鳩夷羅、倶伎羅、拘枳羅、拘耆羅、くいら、くしら、くきら。

 どうやら、鳩夷羅の名で呼ばれる鳥が南アジアから東南アジア、極東にかけて存在するらしく、それは現在の種名で言うと、オニカッコウに比定される、のは前述の通り。オニカッコウは体長 40 cm を超す大柄な鳥で、メスの体は褐色にクリーム色のまだら模様、オスの体は青みがかった黒という典型的な性的二形を示す。翼は短く、胴体はずんぐりとしてお世辞にもスタイリッシュとは言えない鳥で、まったく派手さにかけるのだが、その声だけは美しい。澄んだ高音の鳴き声は、クォッ、クォッ……と短い間隔で鳴き始め、次第にその間隔がのびていく。

 オニカッコウとしてではない鳩夷羅は、仏典に登場する想像上の生き物としての性格が強い。阿弥陀経などにも登場するメジャーな生物で、極楽浄土にすむとされる。迦陵頻伽、好声鳥の名前で登場するのがこの鳩夷羅だ。

 仏典中の鳩夷羅は、その美しい声で、仏の正しい教えを表すとされている……が、ここではそういった意味よりも、この文化的な背景をふまえた上で、江戸時代に声の美しい花魁や芸妓をさすために迦陵頻伽ということばを使った、とかそういうことの方が重要なんだろう。しかし、なぜそれなら迦陵頻伽ということばではなく、鳩夷羅を選んだのか……?

 たしかに、鳩夷羅のほうが、見目の悪さと、それに比して美しい声の対比がつこうというものだが……。

「うー、わからん!」

 とりあえず、今私にできることは、伴奏を完璧にすることだけだ。伴奏がうまくいかないと、合わせの練習に入ることすらできない。責任重大な仕事なのだ。


 一ヶ月ほど経って、それぞれソロパートを持っているような役柄はほとんど形になるくらいにまで練習し終わり、これならできるだろう、ということでモブなども入れた本格的な練習が始まった。ここに至るまでに相当な四苦八苦が(主に私に)あったのだが、その辺を描く物語ではないので割愛する。いや、だって都都がなんどもなんども怒るんだもん……自分も大してうまくないくせに、人に要求するレベルは全く容赦がないから、練習中に何度すれ違いが起こったことか……。その度に調整に回るのは私である。

 しかし、さすがに耳だけはいい都都と、体力だけはあるから何時間でも伴奏し続けられる私(自分で言ってて悲しくなってきた)のおかげで、これでもだいぶましになってきた方なのだ……。大風さんも、声量を押さえることで表現することをようやっと理解してきたみたいだし、エドガー役の子は、今だに技術的な面は不安が多々残るものの、重厚で劇的な声質から、キャラクタ・テノールに近い声質までを持っていることが分り、情緒不安定なエドガー役をこなすために大変有利に働くことが分った。こういうところ、まだ声変わりしてすぐの中学生は得よね。声質がまだ固定されてない。

 なかなか舞台の方は一ヶ月前からでも練習の予約でいっぱいで、舞台が使えないときには教室を使っての練習になるのだが、そのときはキーボードでピアノ伴奏をやるんだけど、なぜかそれの持ち運びも私が自分でやらなきゃいけなくて……なんなんだ……この扱いは……。いけない、愚痴ばっかりになってしまう……。

 綾錦さんも舞台監督兼演出兼振り付け……といった感じで縦横無尽の活躍。まだ合唱の譜読みすらできてないやつとかはいっぱい居るけど、おおむね大道具班も小道具班も衣装担当の女の子たちも順調に計画通り進められているらしい。

 なんとか、形にはなりそうだ。


「はあ~~」

 その日の練習が終わって、都都といつものように旧校舎の音楽室に引っ込むと、いかにも疲れたとばかり都都が溜息を漏らす。「今日、都都はがっつり疲れる曲ばっかりのシーンだったもんね……」

「ってゆーか、ブリジットの役割上ほとんどが激しい曲ばっかりだから……。うう、喉が痛い」

 いつものようにピアノを弾く元気もないらしく、イスを二つ使って寝転がっている。「おへそ見えちゃってるよ」

 んぁー、と言いながら片手で直す都都。「でも、真紀も相当酷使されてるわよね……。うわ、指太くなったんじゃない?」

「やめてよ」ピアノやると指が太くなるなんて、都市伝説の一種でしょ……と思ったけど、関節に筋肉がついたりして、一時的にはやっぱり太くなるかもしれない……っていうか、これはむくんでいるのでは……。

 目の前に手のひらをかざして表裏とためつすがめつするように眺めていると、それを都都が手に取る。私の指を手のひらを撫でさすりながら、「かわいそうに……でも、やっと前と同じくらいにまで腕も戻ったんじゃない?」

「むしろ、前より上達してる気分だよ……」

 青木さんが書いた伴奏はほんとうにトレーニングというか……、慣れても弾き癖で乗り切れるタイプの譜面ではなくて、いちいち神経を使うしとにかく腕が疲れるし、あと四声のフーガやめろ。

「そういえば真紀、この前の幽霊ソプラノについてなんか分ったの?」

 あー、……。そんなこともあったけど。忙しくてすっかり忘れていた。「青木さんは、リブレットを読め、とか言ってたけど……」

「そんなまだるっこしいことしなくてもー、あの……なんだっけあのピアノ弾いてた男の子」

「反橋君?」

「そうそう、あの子に聞いたら分るんじゃないの?」

「う……ん、でも、前にそれとなく聞いてみたら自分一人で弾いてただけで誰も歌ってはいないって言うし……」

「そんなのウソに決まってるじゃない……。そりゃ、女の子と二人で練習とかしてたら恥ずかしいのかもしれないけど」

 そういうことなのかなぁ。「でも、そういえば……。関係ないかもしれないけど、あのとき、綾錦さんって、反橋君のこと下の名前で読んでたよね……」

「え……っと、そうだっけ。あ、雄哉、か。そういえばそうね……。でも、あの二人がそういう仲ってのはないでしょ……。そもそも、綾錦さんはそこそこかわいい系だけど、反橋君はあんまイケメンとは言い難いし……」

 別に見た目だけで決まるわけじゃないと思うけど、まぁたしかに反橋君はちょっと……見た目に気を使わなさすぎだろうとはおもう。

 ひとの悪口という、ちょっとあまり品のいいとは言えない会話をしていると、ぎぃ、と音楽室の扉が音を軋ませる。反動で口を噤んでおかしな空気になったところに、当の綾錦さんがやってきた。「……? どうかしましたか?」

「あ、いや、なんでもないわ……」都都が渇いた笑いで応える。

「まぁ、いいですけど。それより、島村さん……、照明のことなんですけど……。三幕途中のリズのアリアあるじゃないですか、あのシーン、限りなく舞台の光量落とそうと思うんですけど……、そもそもピアノって鍵盤見えなくても弾けるものですか……?」

 綾錦さん……結局演出に加えて照明もやることになったのか……。お疲れ様です……。

「まぁべつに鍵盤見えてなくても弾けないことはぜんぜんないけど……。でも舞台がほんとに真っ暗で、しかも途中で長い間音を出せないとかだと厳しいかも」

「あ、そうですか。薄明りで楽譜が見えないのは確実ですけど、たぶん白鍵はふつうに見えるくらいの明るさだと思うし、それなら大丈夫かな」

 分りました……。と小脇に抱えたメモ帳にメモを取って行く綾錦さん。垣間見えたその中身は書き込みで真っ黒で、ちょっとびっくりしてしまう。

「あと、三幕のリズのアリア……えーっと、『私の心の外にある私』、あれなんですけど、楽譜差し替えてもらってもいいですか……?」

 と、書き換えられたあとの楽譜を差し出しながら言ってくる。ぺらぺらとめくってみると、むしろ簡単になっているので快く承諾する。

「なんで今になって? まだ別にそんなに練習してないからいいけど……。ちょっとリズの方が難しくなってるのかな。大風さんは大丈夫って言ってた?」

「大丈夫……だそうです。青木さんと相談して、こっちの方がいいかな、って」

 ふうん。演出係と作曲の言うことでは仕方ない。

「ねえ、それよりさ」

 ここで空気の読めない都都がでしゃばってくる。「反橋君とは仲いいの?」

 当然都都は(私も)ここで顔を赤らめたりだとかそういう反応を期待してたんだろうけど、反して、綾錦さんは眉間にしわを寄せて目つきには不信感とも不快感とも取れる表情がにじむ。

「なんでそんなことを?」

 人の気持ちを考えずにあれこれ言ってはいざ強い反応を返されるとビビってしまう都都なので、この強い口調には萎縮してしまう。

「いや、その、前に下の名前で呼んでたから……。綾錦さん、あんまり他の男の子でも下の名前で呼ぶわけじゃないでしょ? だから……」

 言ってからもっと怒られたらどうしようとか考えたけど、綾錦さんはため息を吐いて肩を軽く揺らすだけだった。

「……昔の知り合い、というだけ。それより、藤代さんにはまだブリジットの演技のことでちょっと用があるんだけど」

 やっぱり教えてはくれないようだ……? あんまり個人的なことを聞くのもどうかとは思うけど。

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