鳩夷羅

田村らさ

1

 Kjwo'elll'kjooelll'kjwa'eelll――――

 Ko-elll'kjwo'kjwo'elll'kjwo――――

 Ko-el! Ko-el! Ko-elll!


 大きな体は醜いが、その鳴き声は澄み渡り、天から地までを貫き通し、その生き様は浅ましく、しかし彼らは歌を知る。


「音楽祭について」

 黒板の右のほうに黄色いチョークで書き殴られた一文の後に、続く文字はない。

 十月も半ばを過ぎた頃、午後四時の黄色い日の光が低く差し込んで、金木犀の匂いが窓際の席に座る私の鼻をくすぐる。視覚触覚嗅覚第六感からの暖かさに包まれて、あぁ、このまま眠りに落ちてしまえたらどれほど楽だろうか。

 しかし、教室の空気は対照的に冷たく、暗く、重い。それもそのはずだ。私たちはかれこれ一時間以上、席に座ったまま無為な時間を過ごすことを余儀なくされている。

 どうしてこんなことになっているかというと、理由は単純だ。みなさんにも覚えがあろう。委員決め、というヤツである。

 この学園では十二月の第三週あたり、期末テストの後、終業式より前という一日に、比較的大規模な音楽祭が執り行われる。あるクラスは合唱を行うし、あるクラスは器楽合奏をする。かと思えば、吹奏楽部の校内演奏会も行われれば、校内の種々の有形無形、有象無象バンドが適法違法に校内の四方山でライブを繰り広げる。

 翻って科学棟を見れば、こちらも静まり返っているということは全くない。化学部は化学部で音をテーマに実験(なぜか爆発を伴う)を行うし、どういうことなのかわからないが、生物部はいい声で鳴く虫や鳥を集めて展示する。地学部は自棄になって自分たちが歌い出す。なぜかコーラス部より上手い。

 要するに、音楽をテーマにしたものならなんでもアリの文化祭のようなものだ。九月に文化祭をやっておきながら、十二月にもこんなイベントを行うこの学園の方向性がわからない。

 生徒たちは文化祭ほどではないにしろ、このイベントに力を入れる。二ヶ月前から委員を決めて動き出すのもそのためだ。

 そして、私たちのクラスではまさにその委員決めが今行われている。……行われている、んだよね?


「……、誰か、音楽祭委員にうちのクラスから立候補してくれる人は居ませんか」

 水を打ったように静まり返ったクラスに、便宜的に音楽祭委員が決まるまで会の進行を肩代わりしているクラス委員の胆沢さんが、今日何度目ともわからない声かけをする。

 立候補者がいない理由はいろいろあるのだろう。が、第一には、クラス全体のモチベーションの低さがあるのかも。そりゃ確かに、音楽祭や、音楽自体に興味を持っている子は少なくないし、私だってその一人だが、クラスで出し物をするといったときに、それを自ら引っ張っていこうというようなやる気と、やりたい内容を持っている子が運悪くうちのクラスには居なかったのだ。たぶん。

 会議は明日以降のHRに回そうか、と先生が言い出すのを待っている雰囲気。こうなると明日以降も自主的に立候補がなされることはない。間違いない。

「では、このクラスでなにかやりたい出し物がある、という人はいませんか」

 胆沢さんのこの質問も今日何度目だろうか。こんな聞き方をされたんじゃ、たとえなにか案があろうと、それを出した途端に、案を出したならお前がやれよ、ということで音楽祭委員にも他薦されてジエンドである。手が挙がろうはずもない。今まで言及してこなかったが、もちろん私にも安っぽい自己犠牲の精神などあろうはずがない。現実は非情である。でもそろそろ窓の外を眺めるのも飽きてきたし、こういうときに都合よく好きな男の子が校庭でサッカーに興じていたり、うっかり目があっちゃったり、そこから恋に発展したりはしない。そもそも好きな男の子がいないのだが。

 ……お、? 手が挙がった。誰だろう、クラスの硬直しきった目線が挙手者にいっぺんに向かう。

「あ、綾錦さん、どうぞ」

 手を挙げた綾錦百合さんが、今更になって若干躊躇する姿勢を見せる。彼女の斜め隣の席の大風信子さんがその腿を叩いてせき立てる。

「あ、あのっ。……歌劇はどうでしょう」

 過激派どうでしょう? 水曜どうでしょうみたいなノリでいわれても。


 なるほど。歌劇か。大胆な発想である。私の隣の席で寝ていたんだか何してたんだか分からなかった藤代都都みやこが、急に体を起こして、

「クラシックの? 誰の? イタリアもの? ドイツもの? やるとして管弦はどうするの? そもそも学校の舞台を使うにしたら割り当ては四十五分が限度だし、教室でやるにしてもオペラは時間的に厳しいんじゃない」

 一言居士である。それはそのはず、都都は県下でも有数の学生ピアニストで、何度もコンクールに出場している。このクラスで一番クラシック音楽には詳しかろうし、そこからも音楽祭の実行に際し都都が音頭を取ってくれるのでは……、事前にはそういった雰囲気があっただけに、自分では意見を出さずにひとの意見には即ケチをつける都都への反感が高まりそう。しかし、この反論には綾錦さんも予想を建てていたらしい。

「歌劇と言っても、演奏時間的には軽歌劇の範疇に入るような……一時間半くらいかそこらのものです。脚本は、前に私が書いたものがあります。伴奏は、ピアノ一台で大丈夫……のはず。朗唱や普通のセリフ回しを極力活用して、なるべく重要なシーンのみでアリアを使えば、通常の劇をやるのとほとんど変わらない労力でオペラ風味にすることが出来ます……」

 それは、なんか歌劇とは違くないか。と、多少なりとも音楽方面に明るい私や都都なんかは思ってしまうけど、中高のイベントで行う程度のものだったら、と思えばまぁおかしくはない。要は、歌がメインの学芸会みたいなものを想像すればよろしいのだろう。歌劇という呼称は彼女なりの潤色と思えばいい。

 それよりも、脚本は綾錦さんが? 彼女はたしかに文芸部に所属してはいるが、劇の脚本と一般の文芸というのは大分違うような気がするのだが。

 都都は、ピアノ一台というところに格別の不安感を抱いたようだが(こういったピアノ伴奏が必要になるシーンでは都都が動員されるのがふつうである)、それ以上の追求はしなかった。やぶへびという言葉をそろそろ覚えたのかもしれない。いいことだ。

「じゃあ、とりあえずは今の綾錦さん案の歌劇、ということでいいですか?」

 胆沢さんが手早く会をまとめようとする。彼女は紛れもなく優秀な司会者だ。つけ入るすきを与えてはいけない。現実的に検討すれば、ゼロからのスタートで、今から二か月で劇を仕上げるなんてことはかなりの難事のはずなのだが、それを誰もが指摘する前にとりあえず決めてしまえば、あとは失敗しようとなんだろうと、胆沢さんではなく、委員となった綾錦さんが責を負う。こういったひねくれた政治学を考えている者も、単純に今すぐ帰りたいものも、今から主役の座を狙う能天気なクラスのマドンナ(いるのか?)も、なにも考えていないひとも、とりあえずここらで手を打ちましょうやということでパチパチと拍手が聞こえる。そういえばなんでオノマトペにはパ行子音がよく残っているのだろう。

「では、委員も綾錦さんが担当するということで……」

 すかさずねじ込もうとする胆沢さん。重ね重ね優秀だ。どのみち、歌劇ともなると自分通りに舞台を演出するとなると委員の権力は必要になるだろうから、綾錦さんが委員になるというのは正しい。

「はい……」

「では、もう一人委員を」

 胆沢さんの言下、先ほど綾錦さんの腿を叩いていた大風さんが手を挙げる。「じゃあ、あたしがやるよ」

 おぉ、なんたる平和的解決。果たして民主主義とはかくあるべきか。


 ホームルームの後、旧校舎にある音楽室に、いつも通り都都とふたりで放課後を過ごすために向かう。その道すがらも都都はえらそうにオペラというジャンルの持つ歴史とその重みとそれに対する日本人の感性の低さ、軽視がこういった学芸会のおままごとに歌劇などという表題を付けること自体が総合芸術たるオペラに対する、なによりもプッチーニに対する冒涜的行為なのではないか、うんぬんと述べていてやかましいやら調子に乗ってるやら、ホームルーム中に言わなかったところは以前より成長したな、ということやいろいろ考えていたら音楽室にたどり着き、非力な都都に変わり重たい扉を引きずるようにして開けてあげると都都は一目散に教室前方にあるピアノにかじりついて、プッチーニのオペラ『トスカ』からアリア「星は光りぬ」を勝手にピアノ編曲して弾きだす。ピアノの腕に比してこちらは大してうまくない都都の独唱(そもそも原曲はテノールである)がイタリア語の歌詞をなぞる。

――e muoio disperato, e muoio disperato.

――e non ho amato mai tanto l'arte!

 勝手に歌詞を変えやがった。そんなに怒ってるわけでもなかろうに、芸術への愛と未練を説く雑な替え歌にしてしまったのである。

「都都、あんまりいうと性格が悪いよ。そもそも、あんただって音楽祭に積極的にかかわる気はなかったんだから、綾錦さんがやってくれるっていうならありがたいことだと思わなきゃ」

「音楽に詳しいからって積極的に参加するのが当然とか思われてもー。まぁ、たしかに二か月で仕上げるとなればピアノ伴奏と、たまに挟まれるアリアくらいのものしかできないでしょうし、現実的だとは思うけれど……」

 それよりも、前に言ってたピアノ連弾やりましょ、と言って都都はトートバッグから楽譜を取り出す。ドビュッシーの『Lindaraja』、ピアノ二重奏曲なので連弾ではないが。ピアノが二台(教室に一台、隣接する準備室に一台)ある学校の音楽室だからこそできることだ。

 準備室の入り口付近にあるピアノと教室の前方にあるピアノはそもそもの距離が近いので、準備室のドアを開けておくだけで十分に連弾が出来る。楽譜を用意して、わたしが指慣らしのフレーズを弾き始めた時音楽室のドアが開いた。

 都都が目を丸くする。それもそのはず、さっきまでおおっぴらに悪口を言っていた相手なのだから。

「あ……やっぱりここにいた。藤代さん、島村さん(島村真紀、わたしのことだ)、今お時間いいかな?」

 綾錦さんである。スカーフの乱れからするに小走りでやってきたらしい。私たちが放課後、旧校舎の音楽室にいることが多いってそんなに有名なのかな。

「ええ、どうぞ。音楽祭の話かしら」

 少々諦め気味の表情で都都が応える。傍観者の私でもわかるが、これはどう考えても都都にピアノ伴奏をお願いしようという流れである。

「その……伴奏のことなんですけど」

 あちゃー。

「どちらかにお願いできないでしょうか?」

 バンッ!

 綾錦さんの言下に大きな音がして私と綾錦さんはびっくりして一瞬すくんでしまう。すぐに、都都が右手の薬指をピアノの上蓋に叩きつけた音だということに気付いた。

「あちゃーやっちゃったわー。突き指しちゃったわー。全治二か月だわー。これは練習に参加できないわー。島村真紀さんにお願いするしかなさそうねー」

 完全な棒読みで都都が言う。私も綾錦さんも、ドン引き。

「え、その、大丈夫なんですか? 冷やしたり、あ、そうだ、保健室……」

 あたふたしながら常識的なことを言う綾錦さん。私は冷静になって都都の指を取り、軽く握ってみる。「ちょっと、真紀、突き指したって言ってるんだから触らないでよ」ちょっと遅れてから無理やり手を放そうとする都都。……この様子だとほんとうには突き指はしていないらしい。でも、そこまで都都がやりたくないって言うなら……。

「……いいわ、綾錦さん。私が伴奏を引き受けるわ。楽譜はいつもらえるの?」

 肩をさげて、諦めたように手を伸ばす私。都都のこういう突拍子もない行動に慣れていない綾錦さんはまだうろたえているが、それでも納得したようにうなずく。「えと、楽譜は……その……」

 素知らぬ顔した都都が左手のみでリパッティを弾いている。なんなんだこいつは。

「青木さんが持ってるはずです」

 え?


 青木多悩(これでドナウと読む。シュトラウス好きだかなんだか知らないがふざけた名前である。聞いたことはないけど、たぶん芸名)さんは私の家がやっている喫茶店の常連客というか、うちの喫茶店をコーヒー一杯で朝から晩まで使える作業場だと思ってるというか、なんというか、ありていに言えば知り合いである。知り合いというには縁が腐れすぎているし、ついでにどうでもいい情報を述べるとするならば都都は青木さんに惚れている。

「ど、どういうこと? 青木さんが作曲したの?」

 でもよく考えれば、文芸部の綾錦さんが曲まで書ける万能プレイヤーであるはずもなく、まっとうな作曲家に依頼するしかないのは当然なのだが、青木さんがそんな仕事をしているとは思いもよらなかった。

「そういうことです。え、と。結局島村さんがやってくれるってことで……いいの?」

 そりゃ、実力を考えたら都都の方が上手いのは当然だけど、私だって学校の劇程度の伴奏が弾けないほどへたくそではない。最近は都都との連弾で毎日練習しているので、こういっちゃなんだが少なくともクラスでは都都の次に上手いといっても差支えなかろう(ないよね?)。

 大体なんだそのいかにも都都が引き受けるものと思って話しかけたみたいな口調はぷんすかということでここで柄にもなく反発心を起こしたところが今回の私の運の尽きだったのかもしれない。

「やるわ」


 自宅の一階を占める喫茶店に入るとともに青木さんの姿が視界に入る。いつも通り、西日が直接差す席にわざわざかけている青木さんは、たしかに真剣に作曲に取り組むその横顔はかっこいいと言えなくもなかった。

「青木さん」

 作業を邪魔しちゃいけないみたいな殊勝な心がけを失って久しい私はなんの遠慮もなく青木さんの肩をゆする。ゆすってから彼がインクを使って譜面を書くタイプの人間だったことを思い出して、横に大きく線がはみ出した無様なト音記号を見て「あ、」と私と青木さんの漏らす息がシンクロする。

「おい、なにしやが……なんだ……真紀ちゃんか……」

「ごめんなさ……ってなんでそこで肩を落とすのよ」

 首を軽く振り振り青木さんは目頭を押さえる。

「ほら、どうせ音楽祭でやるとか言うオペレッタの楽譜だろ。できてるよ」

 と言って、今の今まで手を入れていた楽譜を手渡してくれる。なるほど、私に渡す譜面だから多少汚くなっても構わないのか。

 そういえば、仮にも歌劇と言っているのにレチタティーヴォもアリアも重要なシーンのみということは伴奏のピアノが全オーケストラの肩代わりプラスアルファの活躍を期待されるのでは……手に持った瞬間の楽譜の厚みから嫌な予感がする。

 ぺらっと一枚目、タイトル(何て読むんだろう……? 大きく漢字で三文字《鳩夷羅》とだけある)が手書きされたページをめくり、私の目に映ったのは……。

「四段楽譜じゃねーか!」

 げんこを自分の頭に当てて軽く舌をだし、てへっと言った表情を作る青木さん。

「いや、テクスチャは分厚いように見えるけど実際演奏してみたらそう重たいわけでもないから歌の方をつぶすことはないと思うよ。いいじゃん、プレリュード的な扱いでさ、うん、こういうのも、ってかラフマニノフも最近いいなみたいな」

 支離滅裂なことを抜かす青木さんの頭を分厚い楽譜を束にしてひっぱたく。

「ウィンナ・ワルツの精神はどこに行った……!」

「いや、だってまぁこれで僕がシュトラウスのこうもりみたいな感じのオペレッタ書いたら顰蹙でしょ……。どうせ学校の劇でやる音楽なんだし、素人の耳にウケる感じの技巧に走ったほうがいいかな~なんて」

 首を振りながらその先のページをめくる。〝素人の耳にウケる超絶技巧〟の名の通り細かい動きとかはあるんだけど、それ以外にもホ長調でひたすら十度以上の跳躍を続けてるフレーズとか、左手と右手のポリリズムだとか、左手の九度ある和音を同音連打だとか、まぁこれは伴奏だから同音連打とかはしかたないんだけど九度は必要ないっしょこれみたいな、どう考えても演奏効果よりも個人的な嫌がらせとしか思えない技巧の入れ方が大変ムカつく。

 ほんとうにこれは今から二か月で弾けるのか……?

「まぁ、当日は僕も聴きに行くから、適当に和音省いちゃおうとか思わないでね」

 嫌がらせだ……。

 しかし、全編にちりばめられた地味な嫌がらせとしか思えないパッセージは、諸事情あってピアノから離れていた私を元の技量に戻すためのものなのかもしれず。そしらぬ顔で地元アイドルに提供するための編曲作業にかかってしまった青木さんの横顔は、やっぱりかっこいいと言えなくもない、くらいのもので、真意を読み取ることはできなかった。

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