追いかけてくる
鈴木タロウ
追いかけてくる
その日、プレゼン資料の作成に追われ、会社を出た時にはもう夜中の零時になっていた。
地下鉄の終電は零時二十分。
会社から駅のホームまでは徒歩およそ十分。
ゆっくりと向かってもまだ間に合う。
誰もいないオフィスの廊下でエレベーターを待ちながら、
「…うぜえなあ。死ねよ」
と、昼間の会議での一幕を思い出しながらぼそっとつぶやいた。
節約のためか、エレベーターは一基しか動いていないようだ。一階からのろのろと上がってきて、ようやく扉が開いた。
ぴいいんぽおおん。
「どれだけ待たせんだよ。ぼけ」
乗り込んですぐに壁を蹴った。
空調も止められている。異様に蒸し暑い。
また、壁に蹴りを入れた。
ちいいん。
一階のエントランスに着く。
正面玄関の照明はすべて落とされ、非常灯が寒々しく光っている。
誰も、いない。
後ろのエレベーターが礼儀正しく次の乗客を待っている。無邪気なほどに煌々と明るく、大きな口を開けながら。
この時間になるともう、裏の通用口からしか外に出ることができない。
狭い廊下を通る。途中、守衛室は無人だった。
こんな時間にまだ起きていて、さらにまだ自宅にも帰れていない。どうしてだかひどく後ろめたい気分にさせられる。
どうして自分だけが。
どうして。
零時十五分。
地下鉄の改札を抜けた。意外に時間がかかってしまったようだ。
ここからさらに地下深くへと下りていく必要がある。
長い長い、急なエスカレーターに乗ってホームまで運ばれる。
零時十八分。
今日はもう時間もないので、いつもの車両はあきらめ、エスカレーターを下りてすぐの席に座った。
数人の乗客がいる。みな、世の中のすべてがどうでもいいような顔をして座っている。
まあ、実際そうなんだから。
だっだっだっ。
だっだっだっ。
と、すごい勢いでエスカレーターを駆け下りてくる足音がした。
零時十九分。
もう間に合わないだろう。あのエスカレーターはとんでもなく深いのだ。
案の定、足音の主が姿を見せる前にさっさと扉が閉まった。
ばんっ。
突然、男が電車の窓ガラスに張り付いてきた。
動き出すほんの一瞬前だ。
他の乗客は男に気付いていないようにまったく無視している。
驚いて正面を見ると、男と目が合った。
左頬をべったり押し付けて、見開いた片目でこちらを見ている。
見たこともない男だ。
ああ、頭のおかしいやつなんだろうな。
ぼんやりそう思っていたら、男が窓から離れた。
曇ったガラスに指で文字を書き始める。
『ころす』。
逆だったので読みにくかったが、たぶんそう書いてあったはずだ。
たぶん、というか、きっと。
文字はすぐに消えた。
翌日のニュースで、女の人が殺されたと言っていた。
地下鉄のホームで男に突き落とされたという。
転落した後、やって来た電車に轢かれて死んでしまったそうだ。
たぶん、何か色々あったんだろうな。
かわいそうだな。
その男。
一分もないニュースの行間に、なんとなく思いを巡らせてみる。
男は、まだ捕まっていない。
追いかけてくる 鈴木タロウ @tttt-aaaa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます