第25話 師と弟子
――紀元前226年 エジプト アレクサンドリア マハルバル
プトレマイオス朝エジプトの中心都市アレクサンドリアは地中海世界一の都市であり、学問の中心地であり、商業の中心地であった。アレクサンドリアにはムセイオンと呼ばれる地中海世界の知を集めた図書館を中心とした施設がある。
ここでは、多くの学者が日々研究に勤しんでいたのだった。
タルセッソスのカディスからカルタゴを経由しアレクサンドリアにやって来たマハルバルは、見たことのない巨大な都市に圧倒されていた。アレクサンドリアの商店街は地中海世界各地から集まった人々でごった返していた。
マハルバルがこれほどの人波に囲まれたのは、戦場以外経験したことがなかった。人々の活気と熱気が商店街を包み込み、それが音となりアレクサンドリアを特徴つけていた。
マハルバルは少し商店街を散策しただけで疲れ切ってしまったが、商店街には高級品から日用品まであらゆるものが揃っているように見えた。商店街から少し外れたところにある酒場兼宿屋に入ったマハルバルは、宿を予約すると再び街へ繰り出した。
商店街を見ただけでアレクサンドリアの巨大さは理解したマバルバルだったが、遠目に見える神殿にも圧倒され、いよいよ目的地のムセイオンへ到着する。
ムセイオンは世界のあらゆる知を集めた図書館が有名ではあるが、付属施設に学術研究の為に用意された幾つかの神殿のような家が建っていた。マハルバルはアルキメデスから紹介されたある学者に会うつもりでいたが、アレクサンドリアに居住する学者の頂点「ムセイオンの学長」へ礼を通そうと先にムセイオンへやって来たというわけだ。
彼は研究施設と聞いていたムセイオンがまさかカルタゴノヴァにも匹敵する広さがあることに圧倒され、この施設の学長が
マハルバルは学徒らしき十代後半くらいの青年へ声をかけ、ムセイオンの学長ことエラトステネスへ会いたいことを告げ、アルキメデスから預かった書状を彼に見せる。
「アルキメデス様ですか。それはすぐにでもベータ様へ知らせないと」
エラトステネスは通称「ベータ」と呼ばれている。偉人プラトンに次ぐ賢者だと称賛されるうちに、アルファであるプラトンの次という意味のベータが通称になったというわけだ。
マハルバルはこの学徒に書状を見せるまで、アルキメデスが本当にムセイオンで名が知れていることへ懐疑的だった。しかし、マハルバルがこの学徒の様子を見る限り、
青年に案内され、図書館へ入り奥の部屋へ通されたマハルバルは、無事「ベータ」ことエラトステネスへ会うことが出来た。
マハルバルはエラトステネスへアルキメデスの近況を伝えると、彼は穏やかな笑みを浮かべながら彼の話に聞き入ってくれた。エラトステネスは老年期に入った長い髭を生やしたいかにも学者という見た目で、そして終始穏やかで紳士的な態度だった。
どこかの誰かように奇声をあげだりせず、「ほうほうほう」などと言ったりしない。
マハルバルは逆に拍子抜けしてしまい、この穏やかな紳士と歓談する。アルキメデスに紹介された人物の名をエラトステネスへ告げると彼はもし連れて行ってもらえるならぜひ連れて行って欲しいと逆にお願いされてしまった。
エラトステネスはマハルバルが名前を挙げた人物――クテシビオスのことを気にかけており、彼は研究に没頭するあまり赤貧に喘いでいるという。バルカ家の庇護を受けることができるなら、エラトステネスも安心できると言うのだった。
マハルバルはムセイオンを出て、エラストテネスから聞いたクテシビオスが住む家へと向かう。
マハルバルはこの時油断をしていた。エラストテネスが穏やかな紳士だったため、学者というものはアルキメデスだけが特殊だと思っていたのだ。
マハルバルが歩くことしばらく、彼は恐らく此処だろうという家の前までやってきた。外観はアレクサンドリアの一般的な家とそう変わらない。レンガを漆喰で塗り固めた造りをした長方形の家だ。
彼が家主の名を呼ぼうとした時、後ろから声をかけられる。
彼は声の主の方へと振り返ると、立っていたのはまだ十歳少しくらいの少年だった。少年は痩せ型で黒い巻き毛の愛嬌たっぷりといった風貌をしていた。
「先生にご用事ですか?」
少年が尋ねるとマハルバルは彼を驚かせないように笑みを浮かべ答える。
「ああ。ここに住むというクテシビオス殿にお会いしたくてここまでやって来たんだよ」
「おー、男前のお兄さんはどこから来たんですか?」
「私はイベリア半島にあるタルセッソスから来たんだよ、少年、ええと」
「僕はヘロンと言います。先生の元で勉強を教えてもらってるんですけど……先生はその、少し生活能力に欠けるところがありまして……」
少年ヘロンは手に持つ濡れた服をマハルバルに見せる。どうやら彼は師匠の分を含めて洗濯をしていたようだった。
マハルバルがこの後彼にどうするのか聞くと、掃除をした後に食事を作るそうだ。クテシビオスの身の回りの世話ばかりしていたら、勉学に励めないのではないかとマハルバルは懸念したが、少年は少しくらいなら時間が取れると朗らかに彼へ説明してくれた。
「ヘロン、では中に入らせてもらってもいいかな?」
「はい。僕は洗濯物を干してきますので、ご自由にどうぞ」
ヘロンはペコリと礼をして家の裏手に歩いていく。マハルバルは彼の後ろ姿を見えなくなるまで見つめた後、家の扉へと向きを変える。
「クテシビオス殿! 貴殿にお会いしに来ましたマハルバルと申します!」
マハルバルが声を張り上げて呼びかけるが、返答はない。ヘロン曰く、クテシビオスは中にいるはずだが……数度呼びかけても返事が無かったため、ひょっとして中で何かあったのだろうかとマハルバルは思い、扉を開く。
扉を開けたマハルバルは、床に倒れ伏しピクリとも動かない男が目に入ると慌てて、彼を抱き起す。
「クテシビオス殿ですか? お気を確かに!」
マハルバルはクテシビオスらしき三十歳くらいの男の体を軽く揺すると、男は目をカッと見開く。
「……あー、鬱だ……腹……減った……あー」
「クテシビオス殿? 大事ないですか!」
要領を得ないクテシビオスに焦ったマハルバルは必死で呼びかける。
「マハルバルさん、横によけてもらえますか?」
マハルバルの後ろからヘロンの声がしたため、彼が振り返るとヘロンは大きな桶を抱えて立っていた。
「ヘロン、一体何を?」
「先生は
マハルバルはヘロンの説明に絶句してしまった。そして彼は未だ少年ながらヘロンのことを尊敬する。もしハンニバル様がこのような気質ならば私はついていけただろうか……マハルバルはそう考え、頭を抱えながらもクテシビオスから距離を取る。
「先生ー!」
ヘロンが呼びかけるが、クテシビオスは「あー、鬱だ……あー」と言葉を繰り返している……
その直後、ヘロンが桶に入った水を勢いよくクテシビオスにぶっかけると彼のうつろな目に光が灯った。そこへヘロンはすかさず机の上にあった水とパンをクテシビオスに手渡す。
無言でものすごい勢いでパンを完食し水を飲み干したクテシビオスは、マハルバルへと向き直る。
「客人ですかな? 私はクテシビオスと言う。いかようで?」
か、変わり過ぎだ……マハルバルはそう思い、足から力が抜けそうになるがなんとかこらえ、たたずまいを正す。
「お初にお目にかかります。私はマハルバルと申します。このたびは貴殿をタルセッソスのカディスへお呼びいたしたく」
「ほう? 私をですか? 私はこの通り貧じております。あなたの期待するような儲けの出る発明はありませんよ」
「いえ、儲けは二の次だと我が主はおっしゃっています。アルキメデス殿と共に研究に励んでほしいと。給金や居住地、傍付の者は保障いたします」
「これはまた随分な好条件だ。そうしてくれればヘロンを学ばせることができる。是非お願いしたい」
クテシビオスは愛おしそうにヘロンの頭を撫でると、彼に微笑みかけた。
「先生……」
ヘロンは自身を気にしていてくれていた師の名を呼ぶ。
「ヘロン、お前はきっと私を凌ぐ学者になると思っている。こんな機会はまたとないだろう。一緒に来てくれるか?」
「もちろんです。先生! ありがとうございます。マハルバルさん!」
こうして、充分な生活保障と給金によって二つ返事でクテシビオスとその弟子ヘロンがタルセッソスへ来ることになった。
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