第2話 前世
ハンニバルはマハルバルの持ってきてくれた水に口をつけると一気に全てを飲み干し、大きく息をつく。空になったコップをテーブルに置くと、ハンニバルはマハルバルをしかと見つめ重い口を開く。
「マハルバル。私はローマに敗れ毒杯を
マハルバルは敬愛する主君の余りに突拍子の無い言葉に固まってしまう。驚きや逡巡を感じるでもなく、彼の全ての思考が停止し喘ぐように水を口に運ぶと、絶え絶えになりながらも主君に言葉を返す。
「ハンニバル様、それは一体……」
「すまぬ、マハルバル。信じられぬ話だろうが、私はローマに挑み、敗れ、シリアで自害したのだ。しかし何故か私はここにいる」
「……ハンニバル様はこれから起こる戦いを体験され、時を越えてここに舞い戻ったというわけでしょうか?」
「マハルバル。お前の言う通りだ。私も余りの事で説明が成ってなかったな。すまぬ」
「いえ、私などにハンニバル様がそうおっしゃるいわれはありません」
「何を言うかマハルバル。私はお前をただの部下とは思っておらぬ。お前は我が盟友にして第一の友人ではないか?」
ハンニバルはマハルバルの最期を想起し、信頼する友人を見やる。
すると、マハルバルはその秀麗な顔に涙を称え感動に打ちひしがれているではないか。マハルバルはまさか主君がここまで自身のことを思っていてくれたことに歓喜し涙を流す。
マハルバルは誓う、この主君のためならば我が命いつでも差し出そうと。
「わ、私などに寛大なお言葉……」
マハルバルは必至に言葉を紡ごうとするが、嗚咽で言葉が出なくなってしまう。ハンニバルはそんな友人を慈愛の籠った目で見つめると、彼に全てを話すことを決めてよかったと改めて思う。
「マハルバルよ。カルタゴの置かれた情勢をまずは整理しようではないか」
「ハンニバル様、私は学が無く……」
「良い。人には得手不得手があろう。お前は戦場で輝くことを私は理解している」
「ハッ!」
マハルバルは立ち上がり、ハンニバルに敬礼するが、ハンニバルはすぐに彼を手で制し座らせるとカルタゴ、周辺諸国の概略を簡潔に語り始める。
「いいか、マハルバル――」
カルタゴは先のローマとの戦い――ポエニ戦争に敗れローマに制海権を奪われ、シチリア島を失い、サルディニア島も続いて失った。なし崩し的にサルディニア島の北にあるコルシカ島も失う。その結果、カルタゴは地中海の重要拠点であったバレアレス諸島を除く
カルタゴの国力を回復させるために、ハンニバルの父ハミルカルはカルタゴ対岸にあるイベリア半島に向かう。イベリア半島南東地域であるヒスパニアを彼は制圧し、ここを拠点とした。
ヒスパニアはカルタゴの策源地ではなく、ハンニバル・バルカが所属するバルカ家の私有地になっている。バルカ家はヒスパニアで莫大な利益を上げることが出来たが、アフリカ沿岸にあるカルタゴ本国でのバルカ家の影響力は低下してしまった。
カルタゴは元老院が政治を取り、バルカ家を含めた四つの家による寡頭政治体制を取っていて、バルカ家が本国を離れたことをいいことに各々が勢力を拡大しているというわけだ。
「カルタゴについては理解いたしました。つまり……バルカ家はヒスパニアを持つ代わりに本国と疎遠になっているということでしょうか」
「概ねそのようなところだ。バルカ家のヒスパニアとカルタゴ本国の二つに分裂していると言っても過言ではない。対するローマは地中海にある島嶼も含め、その支配は
「戦争以来ローマとカルタゴはそこまでの差が生まれてしまったのですか……」
マハルバルは目を伏せるが、ハンニバルは気にした様子もなく、他の有力国家について簡単に説明を始める。
「カルタゴの西には信頼できるヌミディアがある。更に西のマウリタニアは信頼を置けぬ。今は友好的に接しているが……奴らは日和見だ。東には大国プトレマイオス朝エジプトだな」
「ファラオの治める国ですね」
「その通り。ローマの東にはギリシャ諸都市、マケドニア、さらに東にはポントスやセレウコス朝シリアがある」
「ハンニバル様。ローマ以外にも有力国家がいくつもあるのですね」
「うむ。カルタゴ一国だけで戦うにはローマは荷が重いと言わざるを得ないだろう……」
「同盟国の模索でしょうか?」
「その通りだ。マハルバル。この話はいずれ……先に私が辿った戦争について聞かせておこう」
ハンニバルはそこで言葉を切り、いよいよ自身の敗北の歴史について述べようとマハルバルにとある質問を行う。
「マハルバル。今思うと、私の戦った戦争――第二次ポエニ戦争とでも名付けようか。第二次ポエニ戦争がはじまったきっかけは叔父上ハルトルバルの暗殺だった」
「なんと、叔父上が暗殺されたのですか! ローマ! なんと小汚い真似を……」
マハルバルが憤るが、そうではないとハンニバルは否定する。
「叔父上の暗殺はローマではない。ケルト人が犯人だ。ローマにとっては叔父上の方が私よりまだ与しやすいだろうからな」
「なるほど。ハンニバル様は対ローマの急先鋒。ハストルバル様はどちらかというとヒスパニアの統治に力を入れておられる」
「その通り。叔父上が暗殺され、私がヒスパニアの統治権を引き継ぐとローマは私に挑発行為を行い、結果戦争となったのだ」
ハンニバルは言う。ザクントゥムという都市国家がローマに救援を求め、それをきっかけにカルタゴとローマの戦争――第二次ポエニ戦争が始まったのだと。
ハンニバルの話を聞きながら、マハルバルはどこか納得できない様子だった。
「ハンニバル様。ローマと戦争をするにしても奴らの本国へ攻め込むことはできませぬ。北は山脈、西は海です。海からの攻略は不可能かと……」
ローマのあるイタリア半島の北部はアルプス山脈があり、西から兵を侵入させることは出来ない。ならば海からとなるが、制海権をローマに握られている以上、海から攻めることも不可能。
ローマと戦争を行うとして、一体どうやって……マハルバルは疑問に思う。
「何を言うマハルバル。お前は言ったであろう。『北に山脈がある』と」
「ま、まさか……アルプスを越えられたのですか!」
マハルバルは本日何度目かの感動に打ちひしがれる。ハンニバルの戦術眼は比類なきものだと彼は確信する。誰が不可能と思われるアルプス山脈を越えようと思うか……きっとアルプスを越えたカルタゴ軍はローマを恐怖に陥れたことだろう。
不可能と思われた北からの侵入を実行し、ローマを攻める。しかし、ハンニバルは「敗北した」と言っている。これでも勝てなかったのだ。あのローマに……マハルバルは戦慄した。余りのローマの強大さに。
「その通りだ。それでもローマには勝てなかった。これが私の悩んでいた理由だ。ローマには勝てないと」
「その深い思慮、恐れ入ります。確かにそれでも勝てぬのなら、勝つ手が思い浮かびませぬ」
「だがな、マハルバル。私はお前とのやり取りでようやく分かったのだ」
「確かに先ほど何かを思いつかれたご様子でした」
「うむ、マハルバル。叔父上はまだ生きているではないか。答えはそういうことだ」
「それは……ローマと戦争を行わずに済むということですか?」
マハルバルの言葉にハンニバルは眉間にしわを寄せ否定する。
「いや、そうではない。万が一叔父上が亡くなられても変わらないのだ。私は『前世』と同じ道を歩む必要はないということだ」
「と言いますと?」
「一言で言うと、ローマを倒しうる国力をつけてからローマと戦えばいいということだ」
「……なるほど! そういうことですか!」
「では、叔父上を生かすための策をこれより練ろうじゃないか。マハルバル」
「私の知恵でよろしければいくらでも!」
マハルバルは立ち上がり、敬愛する主君へ再び敬礼を行う。なんという強靭なお方なのだろう。マハルバルは思う。
ハンニバル様は一度ローマに敗れ、時をさかのぼったという。常人ならば再びローマと戦おうとは考えないだろう。しかし、ハンニバル様は強大なローマに挑もうとされているのだ。
ハンニバル様のおっしゃる通りだ。まだハストルバル様は倒れられてはいないし、カルタゴはローマに敗れてはいない。カルタゴはハンニバル様の「前世」と異なり、ローマに比肩しうる国力をつけ、ローマに対抗していけるに違いない。
マハルバルは拳をギュっと握りしめ、我が主君に栄光あれとそっと祈るのだった。
※当時の地図になります。
http://img1.mitemin.net/59/6x/4d06aacj8vi84sxhlzb930qxa42k_1813_sg_ee_2che.png
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