他火

 話題に困った時は天気の話、とたいてい相場が決まっている。別に困ったわけではないけれど、前の二編は天気、それも雨の話だった。土と雲の間で生きているわけだから、気象とは切っても切れない縁があるのだ、などと偉そうなことは抜きにしても、起こったことを書くぞ、と私が思い立つときは、天気とか、月とか、自然の営みに関係していることが多い。

 新千歳空港に降りると、空気はすっかり秋だった。太陽だけがぎらぎらと頑張っているが、外を歩く人は皆コートを羽織ったり、マフラーを巻いたりしている。飛行機で、私の隣に座っていたカップルはお揃いのリュックサックで、斜め前の席だったおじいさんは雷おこしの紙袋を持っていた。白いくまのぬいぐるみがぶら下がったショルダーバッグの私は、彼らの目にどう映っただろうか。

 ただの観光である。ただの、というは、例えば山に登るとか、自転車を何日も漕ぐとか、サークルの合宿でやっているようなことはなにもしない、ってことだ。空港の駅で切符を買った。

 秋の北海道には初めて来た。記憶に残っている最古の訪道は、三歳のときで、初夏だった。JALの機内で飛行機の模型をもらって、嬉しくてずっと握っていたのを覚えている。何日めだか忘れてしまったがその模型はホテルの前で落として翼が折れてしまった。

 札幌に出て、網走へ行く特急に乗る。オホーツクという名前がついた、やさしい薄紫色の列車だった。車内暖房が暑いくらいに効いており、平日ということもあってか、乗っているのはサラリーマン、そしてせいぜい2、3人の外国人で、それでも列車は誰もいない駅に律儀に停まった。駅員がひとりホームに立っているのを見ると、寂しさや、お門違いなやるせなさすら覚えた。

 四時半を過ぎると外はずんずん暗くなっていく。秋の陽はつるべ落としというが、ダイヤル式の照明をぎゅーっと絞るみたいに、夜が訪れる。静かだ。わずかに車体が軋む音、連結部分が擦れ合う音、レールの継ぎ目の音。何十分も駅に停まらないオホーツクは、ぴったりと濃密な闇に閉ざされた峠を越える。まるで、世界のここだけ宙に浮いているようだった。線路だけが、文字通り唯一の道しるべ。たった四両の特急列車はしずしずと、確実にそれをたどっていく。強いな、あなたは。こんなにひとりぼっちで、さびしい道を、毎日ひたむきに行ったり来たり。私はたくさんの素敵な人に囲まれていながら、それでも、生きているので精一杯なのに。

 写真のなかで、三歳の私は笑っている。富良野のラベンダー畑で撮られたもので、手にはしっかりと飛行機の模型が握られている。こんな無邪気さを、どこに忘れてしまったのだろう。三つ子の魂を連れて歩くには、私の半生は長過ぎたようだ。

 人生を旅に例えることがある。一説によると、「たび」という言葉の語源を「他火(タビ)」、すなわち「他人の家の火で炊いた米を食べる」ということに求めるそうだ。自分の家で食事をしない、ということがきわめて稀であった時代、生まれ育った土地を出ることはすなわち結界を出るということで、決して楽しいことではなく、むしろ忌避すべきことだった。

 人生は旅より「他火」だと思う。自分を守ってくれる結界、母親の胎内から外に出る、きっとそれは恐ろしく大変なことだ。世間という未知にさらされて、揉まれて、それでも前に、進んでいくしかない。夢を持つ、というのが目的地を決めることで、でも目的地だけあってもタビはできない。私たちは、他人に依って生きていかねばならないのだ。他の火を借りて、ようやく人生は歩めるものだなと、病院のセンセイやカウンセラーを頼るようになったここ数年、改めて、強く感じる。

 道しるべが必要だ。それだけは、自分で持っていなければならない。他人を目印に生きていくことの惨めさといったら。自分がより劣っていると、半ば刷り込みのように意識して、誰かに認められていないと生きていけなくて、一体何が自分を測るものなのか分からなくなっていた。いつも周りと比べて、上には上がいるという言葉を呪文のように繰り返してきた。自己肯定感、というやつが、私には、圧倒的に足りない。

 ホテルにチェックインを済ませて、寝る支度をして、窓の外がぼうっと明るくなっているのに気がついた。冷たい夜が張り付いたガラスに額を押しつけてみると、橙色の街灯に照らされて、粉雪がはらはらと舞っていた。雪はなにか、人の心に迫るものがある。道路に落ちていく冬をひとつ、またひとつと眺めていると、なんだか昔の過ちを数えているみたいだった。心が、どんどん重く冷たくなっていく、あの感覚。ああ、降り積もっていくこの雪が、寒さが、私をどこかに閉じ込めてしまいませんように。どうしようもない生きづらさを、ちゃんとやり過ごせますように。また冬が来る。鬱にとっては、辛い季節だ。

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