あめのひ

 台風が来るというので久しぶりに透明のビニール傘を開くと、干からびて茶色くなった桜の花びらが貼りついていた。つまり、この傘は春先からずっと、傘立てで眠っていたことになる。そういえば、確かに四月の終わり頃、傘についた花を見て「長閑な春でございます」などと粋がっていたことを思い出した。

 夏は嫌いだ。じりじりと焼けるような気候がどうにも我慢できない。外で聞こえるプール帰りの子供の声が、何もしていない自分への焦燥感を増長させる。そして今年もまた、夏休みが終わる。戯れにSNSを開けば留学、成績、インターン。どれもこれも、不安を煽るものでしかなく、かと言って自分と切り離すこともできない。ただ私は終わらぬ課題の山と空っぽの口座残高と、それから詰め込み過ぎたアルバイトを前に絶望するほかなかった。


「ブラックメンソールを一箱。」桜の傘をコンビニの傘立てに突き刺し、レジへ向かう。最近は煙草代も惜しくなってきた。とはいえ旧三級品を吸う気にはならない。私はニコチンではなく煙草を愛しているから銘柄だけは絶対に変えないのだ。たがだか数十円だし、その塵が山となる頃には私はきっと生きてはないないだろう。

 外の雨はだんだん強くなってきて、アルバイト先に向かう電車にはいろんな傘が乗ってきた。綺麗でおしゃれな模様。シンプルなビニール傘。高級そうな紳士傘。そのどれにも、枯れた花などついていない。でも、私にはそれを剥がして捨てることはできなかった。私だって、春のままじゃないか。病気の診断が出たあの春から、進歩も成長もなく、ただ生きるのが辛いと言い散らした挙句、自傷的に浪費を繰り返す、あいも変わらない人間なのだ。薬がないと、まともに活動することさえできないような。

 薬がなくなってしまって、注意力も途切れ途切れになり、財布を落としてしまったので病院にも行けなかった一週間は、歩くのも億劫なほど身体が痛くて、それでもアルバイトを休むわけにいかなかった。きっと離脱症状だろうと思った。やっぱり自力ではどうしようもないのだと呆れる一方で、あれだけ楽になるんだもの、当然だよね、とも思った。

 薬って、一生飲まなきゃならないんですか、とその後のカウンセリングで聞いた。「いいえ、貴方の判断で、半年くらいでやめることもできますよ。でも、二年くらい飲んでいると、サイハツする確率がぐんと減るから、そうねえ、嫌でなければそのくらい続けた方がいいでしょうね。」サイハツ。癌みたいに言うのね、と思ったが言わなかった。「でも、急にやめてしまうと、離脱症状が出るから、減薬といって、徐々に減らしていくやり方になります。」

「離脱症状って、どういう感じですか?」私はこのあいだのことを思い出して言った。

「そうですね、よく例えられるのは…熱のないインフルエンザ、です。」


 ああ、それだ。熱のないインフルエンザ。なんと甘美な響きだろう。私はそれを何度か反芻して満足した。本のなかに、ひどく共感できる一節をみつけたような、あるいはウイスキーを飲んで胸がぽっと熱くなるような、そんな感覚だった。なんだか、自分が持っている感性が、認められたような気さえした。


 地下鉄に乗り換えたので雨は見えなくなった。それでも、乗っている傘は濡れていて電車の床に小さな水たまりをいくつも生んだ。桜はまだしっかりと私の傘の中にいて、ただゆっくりと朽ちるのを待っているみたいだった。台風が行けば、もう、秋雨の季節だ。

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