青い傘

 どうでしたか、この一週間は。大山先生はいつもどおり、穏やかな調子で問いかけた。あ、その、ええと、はい、眠れるようになりました。緊張して言葉がうまくつげないのも、いつもどおりだ。

「それはよかったですね。では、薬はこのままいきましょう。デプロメールのほうも、同じように出しておきます。」

 淡々と話を進めるのは心療内科医一般のようで、私をはじめて診察した島本先生も、振り替えで担当になった紅先生も、みんなそうだった。それでも、私のように、センセイという肩書きに物怖じしてしまう患者さんも、きっといるのだと思う。

「夕方には降るっていうから、出るなら傘持っていきなさい。」私が出かけるというと、母がラジオを聴きながら言った。何かの懸賞でもらった黒い折り畳み傘をリュックに入れ、私は池袋の心療内科に向かった。じめじめした夏の匂いが顔にまとわりつき、なぜか蝉の鳴いていない町は異様な雰囲気で、私は電車を降りてからずっと、ヘッドホンをしていた。もし今知り合いに会っても、音楽を聴いていて気づかないふりができるな、と少し安心した。ただでさえ暑いのに、これ以上、余計な体力を使いたくなかった。


 小さい頃の私は病気がちだった。保育園から何度も呼び出しの電話を掛けて、その度に半休を使って会社から駆けつけてくれる母に、いつもいつも、有難くも心苦しく思っていた。大抵彼女は心配してくれて、そしてちょっとだけ、不機嫌だった。電話が通じてから迎えが来るまでの数十分間は、ようやく帰れるという安心感のまわりを罪悪感でくるんだような、とてもいたたまれない気持ちがした。

 そのあと、決まって連れて行かれるのが近所にある鴇田小児科だ。鴇田先生は実に豪快な人で、私が診察室に入るたびに、いつかちゃん、また来たか、今度はどうした、わはは、などと言う。心療内科のセンセイたちの、清潔で全てを悟ったような落ち着きとは程遠く、それでいて子供達に安心感を与える彼は、顔の形から「じゃがいも先生」と呼ばれ親しまれていた。

 鴇田小児科はいつも混んでおり、どこかの子供が粗相したのであろう吐瀉物の匂いと、消毒薬の匂いが代わり番こに漂ってきて、ただでさえ、いつもなら園で午睡をしている時間なのに、ますます非日常感が強くなる。ウサギのキャラクターが描かれた黄色いスリッパを履いて、水銀式体温計を脇に挟んで待つ時間、視線のやり場が分からなくて、かっちこっちとなる振り子のハト時計をずっと眺めている。中年の看護師が野太い声で、七星さんどうぞぉ、と呼ぶまで、ハトが出てくるのを今か今かと待っているのだった。

 その日は、雨だった。保育園で三十八度の熱を出した私を迎えに来た母は、新品の子供用傘を持っていた。くまの絵が散りばめられた、深い青の傘だった。暖かい服を着せられて、自転車の後ろに乗った私に、母が「ほら、これ、買って来たから。」と言って、それを差し出した時の、なんとも言えない表情。もう一つ、袋を持たされて、中には咳止め飴が入っていた。私は申し訳ない気持ちで、でもとても嬉しくて傘をぎゅっと握った。今となっては、なぜ母が突然傘を買ってきたのか忘れてしまったが、とにかくあの、心が縮こまるような感覚、口の中で溶けていく飴の香ばしさ、それから熱のせいでぼうっと歪んで見える景色だけは、今もはっきりと記憶している。


 心療内科を出ると、雨が降り始めていた。地下道の入り口まですぐだから、ええい、そのまま行ってしまえと大股で歩いた。道を行く人はみんなばらばらの色を頭上に広げて、いそいそと動き回る。あの中の幾人かは愛する誰かの元へ急ぐのかもしれないし、またもしかすると愛する誰かから逃げているのかもしれない。色とりどりの街。でもその中のどれも、あの青とは違った。可愛らしいくまの傘。お迎えに来た母の目から、子供ながらに読み取った心の機微や、家で食べたお粥や、そんなものがたまらなく懐かしくなることが、最近多くなった。精神が参っていると、どうしても幼少期の残映に浸ってしまう。とうに何処かへいってしまったあの傘は、今も私の心の片隅に引っかかって、雨が降ると時たま、あの胸が狭くなるような切なさを、強烈な懐かしさとともに蘇らせるのだった。

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