七つの星に、いつか。

七星いつか

何十年

 祖母を食事に誘った。夏の夜だった。二十年以上、ずうっとひとつ屋根の下に住んでいるのに、最近はめっきり出かける機会も減って、それでなんとなく、寂しくなって誘った。

 鬱がひどくなって、処方された睡眠導入剤を飲んでも寝られず、外が明るくなる頃にようやく浅い眠りにつくと、夢を見る。昔の夢だ。祖母も母も溌剌としていて、高原や、水族館や、旅館の畳で、楽しそうに微笑んでいる。でもそこにいる私だけ、なぜか今のまま。変なことに気を使って、しなくてもよい心配をして、おどおどしている。もっとわくわくして、きらきらしていたあの頃。それが二度と戻らぬ過去であることを、非情にも、はっきりと私に突きつける、そんな夢だった。目を覚まして、その消えてしまった幸福な日々を思って泣いて、ティッシュがなくなってもまだ泣いて、毎日そんな調子だったから、無性に祖母と空間を分かち合うということが懐かしくなったのかも知れない。

 祖母は、仕事を辞めてから何ヶ月も部屋に籠っている。久しぶりに見た彼女は、実に月並みな表現だけれども、まさしく一回りも二回りも小さくなっていて、マンションの階段を下りるのも大変そうだった。ばりばりのキャリアウーマンとして、たとえ家族旅行中であったとしても会社からの電話には欠かさず返答し、旅行かばんからさっとメモ帳を取り出すような、かつての面影を重ねることは、どうしても、できなかった。ましてや、仕事に没頭するあまり、家庭を捨て、幼い母と叔父に両親の離婚という傷を残したなんて、想像もできなかった。

 県道沿いのちいさなラーメン屋までは、歩いて三分くらい。白熱電球が弱々しく光っていた街路も、今はLEDの明るさが頼もしい。ずんずん歩いていく私のあとを、ぽてぽてとついてくる祖母の巾着袋が揺れる。染めるのをやめて、白髪の方が多くなった頭が街灯に照らされて、でも、降り注ぐ発光ダイオードの光なんかよりもずっと優しく見えた。

「なんか、久しぶりだね。」

私が言うと、彼女は深く皺の刻まれた顔を崩して、嬉しそうに笑った。

 ラーメン屋のテーブルに案内された。注文したビールが二つ、運ばれてきて、私たちはしめやかに乾杯した。祖母の見ている前で冷えたモルツが喉を滑る瞬間が新鮮だった。ふたりで酒を飲むのは、初めてかも知れない。

「いつかちゃん、大学を卒業したら、どうするの。」

憂鬱な話題だ。私はたばこに火をつけ、できるだけゆっくりと煙をはきだしてから、

「どうかな。この辺で就職するんじゃないかな。」

と、言った。

「そう。大学には、残らないのね。」

「院には行かないよ。」

「そう。」

それからまた、しばらく私たちは黙ってビールを飲んだ。運ばれてきた餃子を私ばかりがつついていた。

「ばあちゃんはさ、会社、辞めた?」

「やめったっていうか、うん、朝行ったら、社長が、もう今日で最後にしてくださいって。そのまま帰って来た。それきり。」

「そうなんだ...。」

 初耳であった。七星さんがいないと回らない、とまで言われ、雑事から経理まで何でもこなしていた南條産業の重鎮だったのだから、さぞかし豪勢な送別会でも執り行われた上で涙ながらの退職という想像をしていたのに、まさかそんなふうだなんて。

「もうね、おばあちゃんも定年だから、退職届やなにか、全部出して、いつでも辞められる状態ではあったの。でも、それにしちゃ、あんまりだよね。せめて、同僚に挨拶くらいは、したかったよね。最後に、帰る時に、ほら、昔からいる萩本さん、萩本さんにね、どうしたのって言われて。そっかあ、辞めちゃうのかあ、って、お疲れさまでしたって、見送ってくれて。」

「四十年...。四十年勤めたのに。」

「そうよ、それがさ、それが、四十年勤め上げた者に対する仕打ちなのかって思うと、あんまり、情けなくてね。」

「そんなものなんだね。」

「そんなもんなのよね。」

 店員が、ラーメンを持ってきて、七星さんお元気だった?最近来ないから心配したよお、といって笑った。そうなのよ、会社をね、やめ、定年退職で、家にずっといたもんだから、来られなくてねえ。定年退職と言い直したのに、見栄っ張りでプライドが高かった在りし日の祖母を、ようやく重ねることができた。彼女は、その馴染みの店員がその時間で上がる、と聞くと、まるで今生の別れみたいに手を握り、声を震わせて、また来るからね、と言った。

 昔もよくこうやって、祖母と二人でここに来たな、と、またセピア色の記憶が満ちてきた。小学校低学年の頃、父親のいない我が家で、母は夜遅くまで働いた。彼女が私のために夕食を作り置く暇がない時などは、祖母がたいていここのラーメンを食べに連れて行ってくれた。ビールを美味しそうに飲み、おつまみの叉焼や煮卵に私が横から手を延ばす。そんな日が、確かにあった。母の帰りが遅い寂しさを感じても、圧倒的な存在感で私の隣にいてくれた。愛を注いでくれた。今思えばそれは、自ら捨てた子どもたちに対する罪滅ぼしのつもりだったのかも知れない。

 泣くまいと思っていたのに、祖母の目頭に当てられた紙ナプキンを見ていたら、切なさが抑えきれなくなって、結局私は泣いてしまった。かなしかった。かなしいっていうのは、身に突き刺さるような強い感情のこと。ただ、みじめとか、かわいそうとか、単純な悲しさではない。私はこれまでの無垢という幸せを、祖母の何十年を、そして私が生きてゆかねばならない何十年を思って、涙を流した。ビールの泡がとうに消えたジョッキからも、大粒の結露がするりと落ちた。ますます小さくなったおばあちゃんの背中が、それでも私には、優しく見えた。

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