第3話

「終わりましたよ、先輩」

 櫛を机に置く。すると先輩がこちらを振り向いて言う。

「ありがとう」

 黒髪が揺れる。可憐な様。胸が射抜かれる。何度繰り返しても射抜かれる。きっとこの心臓は穴だらけ。

 椅子が回転し、先輩と俺は向き合った。互いに見つめ合う。先輩の瞳しか見えなくなる。気を抜けば魂さえ吸い込まれてしまいそうなそれは、快晴の夜空を思い出させた。美しくて空洞。満ち満ちて空虚。そして時折、そこに輝くものを見る。

「それで、今日はどうしたの?」

 先輩が微笑を浮かべ問い掛ける。答えは用意してある。

「今夜出掛けましょう」

「どこに行きましょうか」

 駅前近くのレストランを挙げる。分かった、と先輩は頷いた。

 立ち上がろうとする先輩に手を差し伸べると、可愛らしい手が俺に託された。そのまま先輩を引っ張り上げて抱きしめる。冷たかった。背の小さな先輩は、よく俺の胸に顔を埋める。それが堪らなく愛しくて、とかしたばかりの髪を撫でる。でも。少し寒くなってきた。

 先輩も知っているのだ、これ以上は俺が凍えてしまうことを。それゆえいつも先輩の方から離れていく。分かってはいるのだがどうにも寂しい。いつもここに障壁を感じる。二人を分かつもの、目に見えずして触れることを阻むもの。それに対して俺は無力だ。

「おはよう」

 先輩が俺を見上げる。そうだ。目覚めたならばおはようを。

「おはようございます」

 先輩との一日は不定期に始まる。香の焚ける間に考えていた挨拶はとうに忘れていた。俺には今しかないのだ。それはきっと先輩も同じだった。

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