第16話

 賽の河原から帰還して数か月、宣湘からの処罰が下されることはなく代わり映えのしない日常が続いていく。拙い楽を鳴らし縫い針を指に突き刺す毎日。

 相変わらず玉兎にはろくに会えていない。数日前から任務に出ているらしい。

 そんな些細なこと以外、金烏の生活は何も変わらない。

 

 側仕えの二人の女官たちのさざめくお喋りもいつも通り。

 本日の話題は、先日立太子したという閻魔王の第二子についてだった。

 第一子を差し置いて閻太子に指名されたのは彼の母君が正妃であるからだとか、人前に姿を現さずじかに言葉を交わしたことがある者は稀であるとか、金烏が耳にしたのはそんな断片的な話だった。

 突拍子もないものだと、密偵紛いのことをして誰かの弱みを握るために暗躍しているなどと言うものもあった。

 金烏とて実物を見たことはないので、噂の中身がどこまで真実か否かは知りようがない。


「主上も鮮やかな朱の髪の方ですし、閻太子もさぞや見事な御髪をしていらっしゃるのでしょうね」

「ええ、きっとそうですわ。姫様もそう思われませんか?」


 高位の女官であろうと、他愛ない噂話は庶民の井戸端会議と大して変わらない。

 今の金烏にとっては、いかに狙った位置に針を落とせるかの方が重要だった。自分で指を刺す痛みはそう何度も体験したいものではない。

 正直言って誰の髪が何色かなど興味の湧かない話題を振られても、積極的に参加する気にはなれない。


「まあ、髪色の良し悪しで能力が決まるわけではありませんから」


 金烏はそんな気のない返事を返した。

 二人は楽しいお喋りに水を差された形になり、明らかに気分を害したようだった。


 女官たちは上品な顔に微かな不快さを滲ませるが、お互い目配せし合うと徐々に意地の悪い笑みへと表情を変えていった。

 引っ掛かりを覚えた金烏だったが、彼女たちの変化が何に由来するものなのかうまく言葉にできない。

 女官の一人が口元を隠しつつもう一方に声をかける。


「失念しておりました。姫様にとっては、それどころではありませんものね」

「ええ、そうですわね。わたくし達の会話にお付き合いしていただくのもお気の毒でした」

「? 私がいったい何だと?」


 二人だけで完結している話題に、どう自分が絡んでいるのか見当がつかない。

 女官たちはますます笑みを深くして、一人が小鳥のような良く通る高い声で宣った。


「姫様は自身のご婚儀が間近に控えておられるのだもの。他のこと係う暇などありませんものね?」


 **


 宣湘は己を呼ぶ声に顔を上げた。日天童子がすごい剣幕です、と家令が告げてくる。

 存外気付くのが遅かったな、と書き物の途中で筆を置いた。その仕草を合図として家令が扉に手を掛ける。

 勢いに任せて怒鳴りこんでくるかと思ったが、彼の養い子は表面上では冷静だった。

 あくまで少女らしく裾を裁きながら、こちらに向かってくる。

 義父の前で最低限の礼を失わないだけの判断力はまだ残っているようだ。


「突然申し訳ありません。どうしても、義父上様にお聞きせねばならないことがございまして」

「ほう。何かね?」


 宣湘は自ら核心をつくことはしない。さて、どこまでこの娘は平静を保っていられるか。

 宣湘の胸中など知る由もなく、彼女は感情を抑え込んだが故の震える声音で義父に問う。


「私の、私の婚儀とはいかなる意味でございましょうか」

「はて、そのままの意味じゃが。何ぞ不審な点でもあるか?」


 鷹揚に髭を撫でつけて宣湘はあくまで白を切った。そんな言葉では到底納得できぬと言った顔で金烏は食い下がる。


「私は何も聞かされておりません」


 眼前の娘は硬質な声で精一杯の抗議を示す。その虚勢じみた態度に腹の内でほくそ笑みつつ容赦なく切って捨てる。


「ほう。そなたに伝わっておらぬとは、何か『手違い』があったようじゃな。では改めて説明してやろう。そなたを嫁にと望んだのは蔡家の若君じゃ」


 その名を口にした途端、秀麗な顔が顰められる。酒宴のたびにああも付き纏われていれば良い感情を持てるはずもないが、宣湘にとっては好都合だった。


「私には分不相応なお話です」


 金烏はなおも抵抗を続けようとするが、宣湘が相手では何の意味もなさない行動だ。


「この上ない縁だと『儂』は思うが? 親が嫁げと言えば従うのが子の務め」


 それに、と宣湘は言葉を続けた。


「月天童子の分まで責を負うと宣うたのは他ならぬそなたであろう?」

 

 今も昔も金烏の急所は玉兎だ。それさえ理解しているならば、袋小路に追い込むことなど造作もない。

 ここで拒絶すればすべて皺寄せが弟に行くのだと言外に匂わせてやると、金烏はいとも簡単に押し黙る。実に嬲りがいがある。


「すでに嫁入りの支度は整っている。後はそなたの身一つ、心一つじゃ」


 幼い時分より掌で良く踊る駒だったが、臣従せぬならばもはや嫁にやるしか使い道がない。「かの御方」との繋がりを作るために利用するつもりだったが、致し方ない。


「このまま大人しく嫁ぐなら先日の不始末は不問に処す。悪い取引ではなかろう?」


 ただでさえ白い顔からどんどん血の気と表情が失せていく。彼女の中でどのような葛藤が渦巻いているか宣湘には手に取るようにわかる。

 彼女の退路を断った以上、どう答えるかなど分かり切ったことだが、金烏の口から諾の言葉を引きだすことに意味がある。


 蔡家からこの話を打診され、本人に気取られぬよう密かに準備を進めた。そして、家人に緘口令を敷き、一切を漏らさずにここまで用意が整った。己の支配が隅々まで行き渡っている証左とも言えるこの結果に宣湘は満足している。

 最大の懸念事項であった玉兎を適当な任務で遠ざけ、こうして最後の一手まで追いつめた。

 進退窮まった少女は幾度かの逡巡を繰り返した後、口を開いた。


「私が義父上様の仰るとおりに嫁げば、今後の弟の身は保証いただけましょうか?」


 嵌められたととうに気付いているだろうに、玉兎と言う名の足枷を振り払えない。どこまでも賢く愚かな娘だ。

 百戦錬磨の老爺は白い顎鬚を撫でつけながら、ちらと金烏の銀の瞳を覗きこむ。


「そうさな。嫁ぎ先での務めを果たし続ける限りは、のう」


 宣湘は口にした約束は守るが、玉兎本人が「自滅する」分にはその限りではない。いくらでも逃れようのある文言であったが、今の金烏にそこまでの考えを回すことは不可能だろう。


「さて、日天童子よ、そなたの返答は如何に?」


 返事を促す声に一度伏せられた後、ゆるゆると瞼を押し上げ現れた銀色の輝きはすべてを覚悟した色に染まっていた。


「…………承知、致しました」


 絞りだした言葉とともに下げられた金色の頭は何よりの屈服の証。

 獲物を仕留めた充足感に宣湘の口の端がつり上がる。


「良く言うた。準備は万端整っておる。婚儀のことも弟のことも何も案ずることはない」

「義父上様のお気遣には感謝の言葉もございません。御自らの差配とあらば、さぞかし素晴らしき婚儀になることでしょう。私は幸せ者にございます」


 金烏は心にもないだろう言葉を淀みなく言い切り、柔らかく可憐な笑みに塗り込めてみせた。

 本邸に迎え入れて数十年、この娘は諦観を隠すのが本当に上手くなった。


「二、三日後にはあちらから迎えが来る。それまでに万事済ませておくように。……月天童子は間に合わぬかもしれんが」


 弟の名を出しても、もはや眉の一つも動かさない。

 己の命運を定めた少女はさきほどから張り付いた笑顔のまま、静かに首を振った。


「いえ。下手に顔を合わせると決心が鈍りそうですし、これで良かったかと」


 金烏はふわりと透き通った微笑を宣湘に向けた。


「どうか弟にはこうお伝えください。幸せに、と」


 **


 玉兎は苛々していた。

 適当な木箱の上に腰かけて眼前の活気あふれる市を眺める。


 もう十日も連れ回されていい加減我慢の限界だった。

 何とかの調査の護衛がどうこうと説明を受けたが、任務の詳細を尋ねてもちっとも要領を得ず、のらりくらりとはぐらかされているとしか感じられない。


 今も「この場で待機しろ」と言われてもう数刻が経とうとしている。

 それに加えて玉兎の耳の良さが彼の機嫌の悪さに拍車をかけた。

 「耳が良い」と言うと便利そうな特技に感じるが、いくら遠くの音を拾えるからと言って、数多の情報を処理する力がなければ意味はない。


 だから、玉兎は大人数がごった返すような場は苦手だった。聞きたくもない会話の数々を聞く羽目になるからだ。

 遠慮ない音の洪水のせいで少し前から頭痛がする。

 気を紛わせられそうなものはないかと目線だけを動かすと、自分の右脇に店を構える花売りの姿が目に映る。


 色とりどりの大小揃った花は屋敷にいるはずの姉を想起させた。あの艶やかな金糸に映えるのはどの花だろうか。

 今の季節ならやはり牡丹か鈴蘭、小手毬こでまりだろうか。いや矢車菊でもいいか。山査子さんざしも捨てがたい。

 想像の中の姉の髪に、目に付いた花を片っ端から挿してゆく。いろいろ試した結果、何でも似合うという事実にしか辿り着かなかった。


(はあ、姉さんに会いたい)


 本邸はあちらだろうか、と大体の見当をつけて空を仰ぐ。

 賽の河原ではずっと思いつめた表情だったことが気にかかっていた。

 理由を聞ければ良かったのだが、問うたところで「何でもない」と笑って躱されて表情すら読ませてくれなくなるのが落ちだ。


 何もかも抱え込む姉の悪癖には困ったものだと思う。できることなら何だって力になりたいのに。

 幼い頃よりもずっと強くなったと自負しているが、それでも頼りないと思われているのだろうか。

 姉が安心して頼れるような男になりたい。


 例えば、と先日出会ったある男を思い出す。

 董昌と言ったか、幼い姉の恩人だと紹介されたあの男は。

 他人に対し、作りものではない柔らかい笑みを向ける姉は初めて見た。


(……思い出したらむかむかしてきた)


 あの日の出来事自体は一から十まで聞いているし、実際に恩があるのは疑いようがないが、姉からはどうにも恩義以外の何かを感じる。進んでそれに名を付ける気は玉兎にはないが。

 思考が逸れたが、ともかく玉兎に足りないのは、ああいう堂々と構えた大人の風格なのだろう。


 それにはまずは身長か……と玉兎が算段を始めたとき、一人の客が花売りの前に立つ。

 どこかの家の使いといった風体の男に、花売りは愛想よく声をかける。


「いらっしゃい! 旦那ぁ、今日は何がご入用で?」


 花売りの気安い態度から見るに、どうやらこの二人は知り合いらしい。


「ああ、うちの坊ちゃんがとびきり綺麗な花を、なんていうご注文でね。何かご婦人受けのいいのを見繕ってくれるかい」

「ははあ。どなたか意中の方に贈られるので?」


 心を寄せる相手に花を贈る。なるほど良くある話だ。

 玉兎の意識は自然と花売りと客の会話へと傾いていく。そうなると次第に喧噪も耳に入らなくなっていく。


「先日ご婚約された姫にってね。その方が今日若君のお屋敷に入られたから、そりゃあもう張り切りなすってるんだよ」

「蔡家のお坊ちゃんがご婚約! そりゃあめでたい! お相手はどちらの姫君で?」


 蔡家の、あの鼻持ちならないぼんぼんか、と玉兎はその顔を思い浮かべる。基本的に姉に気のある素振りを見せる男は誰でも気に入らないが、あの男は格別だ。

 姉を見かけると纏わりつくその素早さといったらない。一応は節度を守った態度なものだから、無理に引き剥がすこともできず何度も歯噛みしたものだ。

 だがまあ、誰ぞを娶るというのなら今後は大人しくなるだろう。


 一つ厄介が減ったと喜んだ玉兎だったが、蔡家の使いの次の言葉に凍り付く。


「たしか、廉宰相の御養女の、金烏という名の姫君だったかな」

「へえ、蔡家は宰相家と縁続きになるってわけか。いい話じゃないかい」

「その上前々から坊ちゃんのご執心の方らしく、えらい舞い上がり様でね」

「そうかい。そういうことならこの芍薬なんて――」


 玉兎は二人の会話を最後まで聞くことはなかった。頭が何かを考えるよりも早く感情が体を動かした。体の芯が凍えるほどに冷えている。

 ほとんど反射的に宣湘の本邸に向かって走り出すが、しばらくして足を止めた。


「あいつじゃだめだ」


 姉が進んでこの話を受けるはずがない。どうせあの男が下らない取引を持ち掛けて無理矢理頷かせたに決まっている。

 だったら、屋敷に戻って抗議したところで何の意味もない。


 同じ理由で蔡家に向かうのも駄目だ。あの盆暗がせっかく手に入れた姉を手放すとは思えない。

 姉を奪還するだけならなんとかできるだろう。しかし、奪い去ったところでそれからどうする? 二つの家を敵に回して、果たしていつまで自分は姉を守りきれるのか。


「考えろ、玉兎。この状況を打開できる策を思い付け!」


 銀色の頭をいくら振ったところで名案は浮かばない。焦りばかりが募って正常な思考が妨げられる。


「姉さん……」


 あの人が己を顧みないというのなら、自分が助けないといけないのに。両の拳とともに金の瞳をきつく閉じる。

 絶望に立ち尽くす玉兎の頭上から昼過ぎの陽光が燦々と降り注ぐ。温かな日差しの中にいるというのに指先から冷たい恐怖が伝染してゆく。

 自身の無力さに顔を覆う彼の耳の奥で、とある言葉がこだました。


“『何か困ったことがあったら、あの道を辿っておいで』って”


 玉兎は顔を上げた。

 あの道。あの日姉に教えてもらったあの場所へ。


 分の悪い賭けかもしれないけれど、たった今思い出した糸よりも細い光だけれど、もしかしたら。

ようやく見出した希望を見失う前に玉兎の身体は再び動き出した。

 宣湘邸と蔡家、そのどちらでもない方向へ。

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