第15話
「…………は?」
砂糖? 何のことだ?
いや、それよりも、彼はなぜ自分の状況を把握しているのだ。一切こちらを向いていないはずなのに。
景は両手に持つ二つの茶碗のうち一つを金烏の前に置くと、向かいの椅子を引きながら言う。
「今、あなたが必死に握りしめているそれは、誰が口にしたところで害はありません、と言ってるんです」
「なぜ……」
金烏はそう返すので精一杯だった。
「なぜも何も事実ですよ。なんなら証明してみせましょうか」
血の気が引いてまともに思考が働かない。何としても言い逃れなければならないのに。
金烏はのろのろと小瓶を取り出すと、差し出された掌に言われるがまま乗せてしまった。
景は事もなげに蓋を開け、ごく自然な動作で自らの茶碗にそれを入れた。
粉雪のように細やかな白い粒子は、金烏の眼前でサラサラと零れ落ちていく。
「この飲み物は珈琲と言いまして、現世土産にいただきました。このままで飲んでもいいんですが、砂糖を入れて苦味を調整するんです」
滔々と語られる蘊蓄も金烏の耳には入ってこない。ただ一点、景の手元にある茶碗を見つめている。
自分の手元を凝視したまま微動だにしない彼女に、景は宥めるように笑いかけた。
そして躊躇いなく碗の中身をぐいと呷る。
「!」
二口三口嚥下したところで、景は両手を広げてみせた。
「ほらね。とは言っても、効き目は今判断しようがありませんね。何かお話でもしましょうか。何か聞いておきたいことはありますか?」
「……いつ」
「はい?」
「いつ、私が毒を持っていると、知ったのですか」
低く唸るような問いかけに対し、景は何の気負いもない。
「うーん、どこから話しましょうか。あなたは、耕太という少年を知っていますね」
もはや意識の外にあった名前を出されて、金烏は目を瞠った。
「この間、何やら蓋を開けようと悪戦苦闘している彼に偶然会いましてね。誰の持ち物か分かったら、中身はだいたい察せます」
景はあの「砂糖」の入った珈琲をもう一回口にする。
「あのまま取り上げてもよかったのですが、少し考えがありまして。彼に協力願ったのです」
“はあ? 九日間これを預かれって? しかも元の持ち主が返せって言っても期限が過ぎるまで渡すな?”
“あちらは当然取り返そうと必死になるでしょうが、あなたの足の速さならできるでしょう?”
“そりゃあ、まあ”
“ではお願いします。期限を過ぎたら渡すかどうかの判断は君にお任せします”
「ただし、中身がそのままでは危険なのですり返させてもらった、というわけです」
道理で昨日はあっさりと返して寄越したわけだ。あの奇妙な追いかけっこも何もかも発案したのがこの男だとすると色々と合点がいく。
「ここの鬼はずいぶんとあの少年に手を焼いているようでしたのに、あなたのいうことは聞くんですね」
金烏が皮肉の形に唇を歪めると、至極平静な返答が戻ってくる。
「きちんと彼らの言葉に耳を傾ければ、彼らもみな素直に聞いてくれますよ」
自慢するでもなく事実を述べる淡々とした口調で景。
「そもそも、私はある親切な方から命を狙われていると教えて頂いていましたからね。耕太のことがなくても、特定はそれほど難しいことではありませんでした」
廉宰相の横車もあって、現状一番怪しいのはあなた方ですから、と策を見破った優越感は微塵も感じさせずに言う。
つまりは、と金烏は思う。この十日間、ずっとこの男の掌の上で踊らされていたということか。この瞬間ですらも。
その事実をはっきりと認識した今、この身を支配しているのは怒りだった。
無限に沸き上がる抑えようのない感情が荒れ狂っている。如才ない笑顔の仮面などとうに打ち捨てられ、辛うじて無表情を保つので精一杯だ。
「さて、こちらも一つ聞きたいことがあるのですが、どうでしょう?」
「……どうぞ」
体裁を取り繕うことを放棄した金烏の答えは、かつてないほどぶっきらぼうだ。威嚇じみた声音を意に介した風もなく、景は静かに口を開く。
「あなたは、いつまでそうしているつもりですか」
不意打ちの問いかけに、あれほど猛り狂っていた身の内が一気に鎮まる。水を打ったような静寂が室内に降りた。
「質問の意図を計りかねるのですが」
数秒の沈黙を破った金烏の声は冷やかさを纏う。景は慇懃無礼と言い換えても差し支えない物言いにも動じない。
「あなたの掌にはたくさんのものを乗せられるのに、それだけで満足しているなんてもったいない、ということです」
「何が言いたい」
とうとう敬語すらかなぐり捨てて、金烏は鋭く切り返した。
「弟を守りたいという気持ちは分かります。けれど、世界を敵として見る必要は――」
「何も知らないくせに、勝手なことを言うな!」
景の言葉を遮って、金烏は両手を卓子に叩きつけた。静まり返った夜に乾いた音が鳴り響く。
金烏のその語気の強さに、景が初めて驚愕の表情を浮かべる。彼が何か言う隙を与えず勢い任せにまくし立てた。
「世界を敵として見るな? では私はどうすればよかったと? こんな悪趣味なことまでして、手を差し伸べる気もないくせに!」
金烏は挑むような銀色の輝きを燃やして真っ向から男を見据える。しかし、気炎を上げて吠えながらも、冷めた嘲笑が内からこだましている。
本当は言われるまでもないことだ。いつまで現状に甘んじているつもりだと自問自答したことは一度や二度ではない。
けれど、いったいこの道以外に何が残されているというのか。すでに退路と呼べるものは失われて久しいというのに。
「私たちが欲しいのは居場所。誰に遠慮することもない、私たちの場所だ」
千々に乱れた感情に任せて簪を引き抜こうとした右腕がその状態で固まる。右にも左にも全く動かせない。
卓子を挟んだ向こう側の景が、押し黙ったまま首を横に振っているのが見えた。
「
景のその一言で右手の拘束が緩む。金烏もそれに合わせて凶器にしようとした簪から手を離した。
反射的に後方を振り返ると、金烏の背後にはもう一人いた。頭一つ分大きい男が無表情に金烏を見下ろしている。金烏が迂闊な素振りを見せればすぐさま行動に移すだろう。
小瓶の件と言い準備のいいことだと独り
「それで? 聡慧なる河原守殿におかれましてはいかなる顛末をお望みか」
進退窮まった以上、もはや開き直るしかない。噛みつく相手が違うと言われればそれまでだが、これが金烏の限界だった。
挑発的な金烏に対し景はどう答えるのか。
「いいえ。お節介が過ぎましたね。すみません」
返ってきたのはそんな謝罪だった。
深い森の色の瞳は一欠片の情を覗かせて、金烏から視線を外した。
あれほど荒れすさんでいた感情の波が一気に凪いで、その次に処理しきれなかった戸惑いに金烏は揺れる。
「話はこれでお終いです。おやすみなさい」
金烏が言葉を口にする前に唐突に会話は打ち切られ、景は背を向けた。
これ以上の問答は無用であるという確かな拒絶。
「……失礼いたします」
金烏はゆるゆると頭を垂れた。
**
この十日の間はなんだったのか。
ここでの波乱の出来事を振り返りながら金烏はぼんやり荷物をまとめる。無意識に吐く息が憂いの色に染まる。
あんな暴言を吐いて、いったい自分は景にどうして欲しかったのか。彼に自分たちを助ける道理も義理もない。昨夜の振る舞いは誰がどう見ても八つ当たりだと判断するだろう。
何一つ満足にこなせなかった己の力量不足にますますため息が深くなる。
そう肩を落とす金烏はもとより、結局玉兎も大した収穫はなかったようだ。楽天家な玉兎が珍しく明日が憂鬱だとさえ零していた。
かくして二人落胆の胸中を抱えながら、宣湘の屋敷へと戻ることとなる。
金烏は帰宅後一息つく間もなく彼らの義父に呼び出された。
玉兎は自分も共に、と申し出たが、宣湘が指名したのは金烏一人。
用向きなど分かりきっている。
何を問われるか何を言うべきかはすでに想定済みだ。後はただ粛々と事実を述べるのみ。
この屋敷の主が待つ部屋の前で、微かに震える両手をそっと抑え込む。
深く深く息を吐き内から湧く畏れをやり過ごす。
「日天童子金烏、お召しにより参りました」
室内へと入った金烏はことさら恭しく拱手をする。
「義父上様におかれましては――」
「下らぬ前口上はよい」
金烏の声をばっさりと切り捨てたのは冷徹極まりない声だった。
言上が途切れてしまったが、身を起こすことも一言すら発することもできない。
そのまま数秒以上の時を経て声はまた告げる。
「顔を上げよ」
この場を支配する声から許しを与えられて、顔を上げ背筋を正す。
正面から鋭い眼光に射竦められて、金烏は思わず半歩足が下がりそうになる。
(これが、廉宣湘の、この男の本来の力)
とうに最盛期を過ぎた老爺であるというのにこの圧は何だ。金烏は眼前の男について何一つ知らなかったのだと思い知らされる。
いまだ宣湘の足元にも及んでおらぬ己が出し抜けるなどと驕りが過ぎたようだ。
「さて此度の件だが、弁明はあるか」
荒々しさはないが、明らかに詰問の気配を含んだ声。
宣湘にとって金烏はすでに急所を押さえた獲物でしかない。
「申し訳、ありません」
焦りでひりつく喉はようようその一言を絞りだした。金烏は己を見据える双眸から逃れたくて、無意識に伏し目がちになる。
「何を謝る? 儂は、弁明はあるかと聞いたのだが。釈明すら満足にできぬか」
嬲る物言いに抗う気力は削がれ、自然と金色の頭が垂れる。小刻みな振動が己の震えのせいだと気づいた。
(私は)
この男に恐怖している。宣湘の威圧に頭を抑え込まれ、口先で理屈をこねることすらできない。
そんな己をたった今はっきりと自覚した。
「此度の失敗、申し開きのしようもございません。すべての責は私にあります。我が弟には何卒ご容赦を」
「麗しい姉弟愛じゃな」
いつかと同じ文言だが、比べようもなく冷めきった声音。
「罰ならば私が受けます。ご寛大な処置をどうか……!」
金烏はその場に跪き、必死に許しを請う。自身の未熟さが招いた事態である以上、ただ膝をついて嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
更なる叱責に耐えるため身を固くする金烏に降ってきた声は、この上なく硬質なものだった。
「もうよい。そなたの処遇は追って沙汰する。下がれ」
この場から解放される安堵と先送りにされた不安とが入り混じりながら、金烏は音もなく退出する。
扉が閉ざされる直前、零された宣湘の言葉は彼女にはついに届かなかった。
「……これがあれの限界か」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます