第14話

 九日目。


 なんとか今日中に取り戻さなければ。金烏はそう意気込んでいたが結果は見ての通り、気力体力ともに尽きて地面に転がることになった。

 もはや指一本動かすことさえ億劫だった。丁寧に梳られた金の髪が泥に塗れるのも構わずに、仰向けで空を睨み付けている。自分の呼吸音がうるさくて他の物音が耳に入ってこない有様だった。

 対する耕太は肩で息をすることもなく、金烏から多少の距離を取って佇んでいる。

 金烏にこれ以上の余力はないと見て取ると、余裕綽々と言う顔でのぞき込んできた。


「粘るねえ、お嬢ちゃん」

「お前、こそ。こんな、遊びにずいぶんと、付き合いが、いいじゃないか」


 金烏がようやく絞りだした声を聞き、反論する元気があったのかと耕太の黒瞳が驚きと興味の色を見せる。


「おお? もう限界かと思ったけど、まだやるかい」


 口を利く程度に体力が回復した金烏は、臍下にぐっと力を籠めて上半身を起こす。その拍子に乾いた泥が土埃となってパラパラと空を舞う。

 背筋を正した金烏は、いっそ清々しささえ湛えて言い放った。


「降参だ。私の負けだな」


「は? ここまで引っ張っておいてそれかい?」


 意味が分からないと言いたげな表情の耕太。


「どうして追いつけないか、やっと分かったからな」


 腕一本すら捕らえられなかった敗因。それは足の速さなどではない。


「こっちの覚悟が足りなかった。それだけのことだ」


 小瓶を取り返すために彼を追いかけ回していれば、その間はやりたくもない仕事をやらないで済む。奪い返せないのなら仕方ない。

 その言い訳がどこかで金烏の全力を阻み、勝負を長引かせ、それゆえにこの醜態に繋がった。

 その程度の覚悟しか持てない自分には勝つ資格は最初から無かった。それだけのことだ。

 ただ、危険物をそのままにしておくのは問題なので一言だけ付け加えた。


「一つ頼みがある。その小瓶、封は開けられないだろうし、お前には用のないものだろう? できれば、どこかに捨てて欲しい」

「……」

「……聞こえてるか?」


 答えが返ってこないことを不審に思い、さらに問い掛けを発しようとした途端、金烏の眼前に何かが飛来した。

 ほとんど反射的に手で受ける。何を投げて寄越したのかと掌を開くと、そこにあったのは件の小瓶だった。


「妙に悟りきった顔しやがって。むかつく」


 勝者に渡されるはずの景品を投げつけた後、耕太はそう吐き捨てて走り去っていった。

 取り残されるは事情の呑み込めぬ金烏のみ。葛藤の種を右手に握りしめ、呆けた表情を晒している。

 後に彼女は、あんな間の抜けた顔を誰も見られなくて良かったと述懐したという。


 **


「いやあ、今日でもう終いとは早えなぁ」


 夕刻を告げる鐘が鳴り終えた後、そう言ったのは田児丸だった。

 あの鐘の音でもって、十日間の研修も終わることになる。

 

 彼は大層面倒見がよく、様々なことを教えてもらったはずなのだが、この十日間金烏は走り回っていた記憶しかない。

 正直身を入れていたとは言い難い状態だったが、この先輩は二人を気に入ってくれていたらしく、賽の河原就職を熱心に勧められた。


「期間限定の見習いなんて言わず、ここで働きゃいいのに。景さんもきっと歓迎すると思うぜ?」

「こればかりは義父の意向ですから……」


 玉兎が苦笑気味に辞退すると、田児丸は分かりやすく落胆を表していた。

 金烏にしても、あの公園を作ったり、子どもたちと遊んだり、ここでの仕事は楽しいと感じていた。

しかし、十日という期日は初めから定められていたものであるし、本来はまったく違う目的でここに来たこともまた事実。


「でもなぁ、もうすぐ夜摩祭やままつりだってのに」


 田児丸はまだ無念そうに唸っている。


「たしか、十王の祖である神に感謝を捧げるお祭り、でしたっけ?」

「そうだ。ちょっと前に閻太子えんたいしが立たれただろう? その祝賀として今年は盛大にやるってんで、色々張り切ってたのさ」


 金烏達もその名前だけは知っている。

 閻魔王や他の十王の祖とされる神の伝承は、この冥界における神話のようなものだ。


 かつて、この世の理がいまだ曖昧であったころ。生き物は急速に数を増しつつあり、死者もまた同じ速さで増えていった。

 放縦ほうじゅうに満ちた冥界は今のように秩序はなく、その混沌を嘆いた夜摩神やまのかみが人として冥界に下り、世界を整え徐々に現在の形になったと伝わる。

 役目を終えた夜摩神は自身の十人の子らに、今後はお前達がこの地を治め安寧に導くように、と言い残して天に還った。

 これが今日の冥界と十王の始まりとなった、というのが説話としてよく聞かれる。


 なお、夜摩神は普段祖の神と言い習わされている。


「一応神事ではあるんだが庶民にとっちゃ、どんちゃん騒ぎのいい口実でしかないけどな。壮観だぞ。市が真っ赤に染まる景色は」


 田児丸の言う光景は祭りの際に見られるもので、祭当日朱や紅などの赤い色の布を思い思いに髪に巻く風習のことだ。これにもきちんとした由来がある。


「かつて祖の神がそうであったように、閻魔王の一族は皆見事な赤い髪と瞳をしているから、子孫ではない者もかの神の恩恵を得られるように赤色の布を巻くんだと」

「面白そうですね」


 祭りの詳細に玉兎の目が輝く。顔を見ただけで田児丸の言う一面の赤を思い浮かべているのが分かった。金烏にしてもそれは同じだった。

 けれど、宣湘が外出を許すはずもないことも同時に理解していた。


 本来神事であるはずの夜摩祭のそうした風習を、あの老人は「民の手垢に塗れた」と苦々しく零していることを知っているから、行きたいと願望を口に出せない。

 急に重苦しく漂う二人の雰囲気を察したのか、田児丸もそれ以上は無理を言わず、二人の肩を励ますように叩いた。何者にも気負いのない彼の人柄が現れる温かな激励。


「事情があるんじゃあ仕方がない。まあ、お前たちならどこでもやっていけるよ。俺が保証する」

「この十日間、いろいろ勉強させてもらってありがとう。お元気で」


 二人を代表して金烏が別れの言葉を口にすると、二本角の赤鬼は彼らしく朗らかに笑った。


「おう。二人とも、どこかで見かけたらよろしくなぁ」

 

 **


「今夜が最後の機会になりますから。頑張ります」


 各々が夕食を取り終えて自室に戻った頃のこと、そう張り切るのは玉兎だ。

 確かに、明日にはここを離れるのだから弟の認識は正しい。しかし、金烏は胸中に異なる問題を抱えていた。

 耕太から小瓶を取り戻した(投げ返された)はいいが、それを使うべき相手にはついに対面することはなく。本来なら由々しき事態だが、もはや今はそれに力を割くわけにはいかない状況だった。

 いつまでも成せなかった事に拘泥するより、宣湘から下されるだろう叱責と処罰をどう切り抜けるかを考えたほうがいい段階に来ている。

 せめて玉兎が危害を被ることがないようにするにはどうしたらいいだろう。

 その思案を遮ったのはコンコンと木製の扉を叩く音だった。金烏が入室を促すと、そこに現れたのは俊靖だった。


「あ、金烏さん? お休みのところすみません」

「いいえ、なんでしょうか」


 金烏は素早く表情を取り繕う。

 俊靖は八の字に限りなく近い角度にまで下がった眉で言う。


「急で申し訳ないのですが、うちの上司が何かお話したいことがあるそうで、ちょっと来てもらえますか」


 うちの上司。その言葉が指し示す人物は一人しかいない。

 最後の最後で、何という巡り合わせだろう。思いがけず金烏の鼓動がはねた。


「あの、僕は」

「ああ、なぜか金烏さんの方だけを呼んでいるんですよ」


 困り顔のまま固定された副官がのたまう内容に金烏は首を傾けた。

 ここを離れる前に一度会いたいというのは別に不思議なことではないが、二人同時ではなく金烏のみ、というのはいささか引っかかる。

 

 しかし、そんなことはおくびにも出さない。側にいる玉兎に一瞥をくれると、銀と金の瞳が一瞬交差した。


「承知しました、今参ります」


 それだけ言うと椅子から腰を上げた。

 俊靖と二人連れ立って、部屋を出る。等間隔に並べられた燈台が暗澹たる廊下を照らしている。

 

 足元に絡みつく闇に一瞬足が竦んだが、何事もないように俊靖の背についていく。

 幼きあの日の教訓として、暗闇を無理にでも慣らしておいて良かったと涼しい顔の裏で思う。


「もう休むところだったでしょう? すみません、あの人、結構気まぐれで」


 手燭を持ち先導する俊靖の声は、急な呼び出しを気の毒がっていた。善意が滲む彼の背中に対し、金烏は如才なく返す。


「いえ、ご挨拶もまだでしたし、明日忙しなくお会いするよりは良かったと思います」

「そう言っていただけると助かります」


 歩みを止めぬまま、とりとめのない会話を続けていると、俊靖の足が止まる。

 眼前の扉が他のそれよりも緻密な装飾が施されているところを見ると、ここが主の部屋だろう。

 いよいよご対面か、と握った拳にいくらか力が籠もる。


「お連れしましたよ」


 扉越しの俊靖の呼びかけに対し、男の声が返ってきた。


「はいはい、どうぞ」


 柔らかくのんびりとしたその声は、金烏の想像よりもずっと若かった。戸一枚で隔たっているせいだろうか。

 室内に一歩踏み入れ、さて臙景とはいかなる男かと正面を見据えると目に入ったのは、背中だった。

 驚いたことに彼はこちらに背を向けている。その手元辺りから固いものがぶつかる音がしていた。

 呆気にとられる金烏の横で、俊靖が呆れた声をあげる。


「客人を迎え入れる態度ではないと思うのですが?」

「その客人に出す飲み物を準備しているんですよ」


 補佐官としては遠慮のない指摘にも、鷹揚として動じない。

 この部屋の主――景は作業の手を止めて一度振り向いた。金烏と目が合うと、まるで長年の知人に会ったかのように笑いかけた。


「いらっしゃい。珍しいものが手に入ったので君にもどうかと思ってね」


 初対面とは思えない気安い態度だった。

 改めて正面から彼の姿を見た。髪は鳶色、瞳の色は深い緑色をしている。すべてを覆い隠す禁域の森のような不思議な色だった。


 何を思って金烏だけを呼びだしたのか、実際に面会が叶った今でも窺い知れない。

 その彼と案内を終えた俊靖が退出し室内で二人きりになる。

 挨拶もまだだったと思い出して金烏が口を開くが、それよりも景の方が早かった。


「ようこそ、廉金烏殿。そして、十日間ご苦労様でした」


 景の先制に虚を突かれた。出鼻を挫かれた気まずさと廉姓で呼びかけられた不快感に眉をひそめそうになるが、こらえて頭を下げた。


「いえ、こちらこそ挨拶が遅れまして。この度はお力添え頂きましてありがとうございました」

「いえいえ。どういたしまして。もう少しでできあがりますから、どうぞ気楽に」


 金烏に渦巻く心中はお構いなしに、のんびりと椅子を勧める。

 促されるまま金烏が腰を下ろすと、景はまた彼女を視界から外した。

 手持無沙汰になった金烏は、部屋の中を静かに観察する。息をするたびに焦げ付いた匂いが鼻腔の奥までかすかに届いた。


 室内はどこぞで見たように、紙束やら竹簡やらで雑多な有様だった。あれを作りだした要因が誰であったかここに至って悟る。

 金烏は懐に忍ばせた小瓶の輪郭をゆっくりとなぞる。しかし、それ以上は指が拒んだ。


 頭では理解している。臙景という人物に何の義理もない。すでに封は解いた。こんなに隙だらけなら、彼の気付かぬうちに瓶の中身を混ぜることなど容易にできる。それで終わりだ。

 機会がありながら動かなかったとなれば、宣湘は決して許さない。そんなことも分かり切っている。金烏の取るべきは一つだ。

 

 だというのに、己の中で何がせめぎ合っているのか自分でも分からない。

 これが最大にして最後の好機なのに、なぜ。

 苦悩の大きさを表すように金烏の眉根がきつく寄る。

 身動きできなくなった金烏の状況を打ち破ったのは、まるで月とすっぽんの違いを指摘するかのようなあっさりとした声だった。


「色々と葛藤しているところ悪いですが、それ、ただの砂糖ですから」

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